28_乗るはずだった汽車が出る頃


「ほら、これ」

そう言って丸井先輩が私に差し出したのは私が真田先輩とスーパーに行った時に間違えて先輩が持って帰ってしまっていた日焼け止めだった。大して高くないものだから、最悪戻って来なくても良いと思っていたが、どうせ今日丸井先輩と会うのならば持って来てもらおうと、昨夜、切原君に連絡した次第だった。私も丸井先輩から借りていた約束のタオルを返す。丸井先輩がそれを受け取ると、私は鞄から麦藁帽子を取り出して頭に深くかぶった。こんな日差しの中で歩いていたら本当に頭が沸騰してしまう。私も学習したのだ。それを見て丸井先輩が私のそれにそっと触れた。「それ、飛ばされないようにな」そんな漫画にあるようなドジなんてしません。

「ところでお前、俺に買い出し付き合って、店番大丈夫なのかよ」
「それ今言いますか」

こちとら丸井先輩が一体いつ買い出しに出るかさっぱり分からないし、先輩の連絡先も知らないしで、わざわざ切原君に買い出しは大体いつもどの時間に行くのか、なんて聞いたというのに。叔父さんには訳を話せば、友達が困っているのならと思いのほかあっさりと店を出ることを承諾してくれた。
そうしてつい先程、丸井先輩はふらりと店の前に現れた。ちなみにあの30キロリュックサックもきちんと携えて。ゆずると同じジャージを着ていたからと、叔父さんは何も言わずに私を丸井先輩と送り出したけれど、表情はあの赤髪に完全に警戒していたと思う。丸井先輩も恐らくそれを理解していて、努めて礼儀正しい態度をとっているように見えた。髪が赤くなければ、丸井先輩は思いのほか常識人である。

「真田に聞いたぜ、電車で2駅隣の店が良いんだって?」
「私わざわざ真田先輩に地図まで描いたんですけどね」
「ん、ああ、これだろい」
「じゃあ私いらないじゃないですか。帰りますね」
「待て待て待てって!」

丸井先輩は本気で引き返そうとした私の腕を掴んで、ポケットに地図をくしゃりと押し込んだ。おいコラ。

「お前だって気分転換に良いだろい」
「丸井先輩となんて気分転換になりません」
「昨日の可愛げはどこいったよお前!」

うるさい赤髪である。昨日は、あんなしんみりする時間に、…そう言う気分の時に、丸井先輩が現れたからつい口をついてあんなことを言ってしまったのだ。この人が昨日あんな所にいなければ。
いつだって、私を混乱させるのはこの人である事に苛立ちを覚えて、後ろからリュックサックに体重をかけてやると「うおおおお」なんて丸井先輩が雄叫びをあげて後ろにべしょりと倒れた。「お前70キロくらいあるだろい…」「そこから30キロ引けよ」相変わらず失礼な人だった。

「そもそも、どうして昨日あんな場所にいたんですか」
「……」
「…。まあ言いたくないなら別に言わなくていいです」

丸井先輩は途端に表情を曇らせた。立ち上がってジャージの砂を払うと、言いたくないわけじゃない、そう言ってずんずん前に歩き出す。最近の丸井先輩は情緒不安過ぎてわけ分からん。先程まで私のペースに合わせてくれていたはずの歩幅がずれて行く。「ちょっと先輩!」彼の背のリュックサックへと伸ばした私の手は空を切って、代わりに丸井先輩が私を振り返った。

「あそこにいた理由当ててみて」
「ああ、さっぱりです」
もっとよく考えろよ何その適当
「何怒ってるんですか」
「怒ってねえよ」
「いや絶対怒、うわ、」

丸井先輩の手が私に伸びたかと思えば、指が麦藁帽子をはじいた。くわん、と上に向いた顔は眩しい陽の光を受け止めて目の前が瞬間的に眩む。「…ま、俺にとって色々思い出がある場所なんだよ」だから丸井先輩がどんな顔でその言葉を言ったのかはその時の私には分からなかった。

「そこに偶然合宿に来て、…偶然、お前がいて。だから、また何かあるのかもなって、」
「…また、何かって、」

その時、私の言葉を遮るようにがたんごとんと、近くで電車の走る音がした。丸井先輩が駅が近いなと私を見る。私は遮られてしまった今の質問をもう一度しようとしたが、何と無く、先輩からはもう2度とその答えはもらえないような気がして、私は駅の方へと顔を向けて、そうですねと、頷くことしかできなかった。
そこから駅まではすぐだった。いつ振りだかは忘れたが、久々に2駅分の切符を買って、寂れたホームに降り立った。

「俺は、きっとここに答えを探しに来たんだと思う」
「え?」

丸井先輩は唐突にそう言った。ちっぽけなホームなのに、そこには私と丸井先輩の2人だけで、そうであるからか、やけに広く感じる。

「本当はそんなもん、とっくに自分の中にあるって分かってるんだけど、どうしてもまだ、それが信じきれない自分も1%くらいいる」
「なんの答えですか」
「内緒」
「…そう言うと思いました」
「はは」
「1%なら、もう信じればいいのに」
、1%って、結構でかいもんなんだぜ」
「…はあ、」

そんなやり取りをしているうちに、ホームにアナウンスが入った。「白線の内側に下がってお待ちください」なんて、どこでもお決まりのその台詞に、今更何を思うこともないけれど、…いや、ないと、思っていたけれど、ざわざわと、胸騒ぎのような、予感めいた何かを感じて、私はふと丸井先輩を見た。彼の表情もまた、強張っていたように思う。それから先輩は私の右手を掴まえて、ぎゅうっと握った。それはどうにも恋人同士のするような、ロマンチックなものではなかったのだけれど、ざわめきが、丸井先輩の手に吸収されていくように、どんどん小さくなるのがわかった。
それから何事もなかったかのように電車はホームに滑り込んで、扉が開くのと同時に丸井先輩の手が離れる。もう、胸騒ぎはしなかった。






「いやあ、マジで何でも揃ってんのな」
「あの品揃えは地元にもないですよね」
「だなー」

目的の店で買い物を終えた私達は、駅までの道をとろとろと、行きよりも随分遅いスピードで歩いていた。丸井先輩が例の30キロリュックサックでバテていないかこっそり心配していたのだけれど、どうにもそれを悟られて、別にバテてねえからな!と口を尖らせて言われてしまった。その割りに怠い怠いとうるさいし、顔がすっかり疲れている。

「言ってるだけで、別にまだまだ動けるっていう、そういうアレなんだよ」
「はあ、」

ゆずるだったならば、米の袋を一つ持たせて歩かせただけですぐにだれてしまうというのに、流石王者と呼ばれているだけある、と言うべきか。

「レギュラーとそうでない奴の実力は天と地の差があるからな」
自分で言っちゃうんですね
「事実だし」
「ゆずるは、そんなに弱いですか」

一応姉としては、弟が一生懸命打ち込んでいるものだし、彼は普段レギュラーの人達には尋常ならぬ尊敬の眼差しを送っていて、練習方法を真似たりとしているみたいだから、そんな姿を見てそこまで好きなんだなあと応援はしているのだけれど。
私の台詞に、丸井先輩は、いや普通?とかなり素っ気ない答えをした。気を遣って貰いたかったわけではないけれど、いつも先輩は、こういう場面では多少なりと柔らかい言い方を選んでいるように思うけれど、テニスの事になると、彼もまた容赦がないらしい。
それだけ本気なんだと思った。

「あ、そうだ」
「へ?あ、冷たっ」

帰ったらもっときちんとゆずるを応援してやろう、協力できることがあればしてやろう。そんな事を考えていた私は、突然の丸井先輩のその言葉と共に、頬に急に冷たい缶が押し付けられて、肩をびくつかせた。ニシシと先輩が悪戯っ子のように笑う。私の手に渡し直してくれたのは、炭酸の缶ジュースで、それを顎でしゃくった。やるよ、とそう言うことらしい。自分も袋から同じものを出して早速口をつけていた。

「…」
「あ、俺の奢りな。ノープロだぜ」
「丸井先輩って、食に関しては文字通り譲らない割に、たまに優しいですよね」
「今日はそういう気分なだけ」

それじゃあ、いただきます。
遠慮がちにそれに口をつけて、炭酸に痺れる喉に、きゅっと目を細めた。なかなか自分では炭酸を買わないので、この感覚は久しい。ああ、夏だなあと、ようやくたどり着いた戻りの駅のホームから、私は午後の空を見上げた。

「…ああ、すごく、懐かしい気がする」
「ん?」
「不思議ですね、丸井先輩と、こうして来たのが初めてじゃない気がします」

そう言うと、丸井先輩は酷く悲しそうな顔をした。ほら、また。どうしてこの人はたまにこうやって、辛そうな顔をするのだろう。気に障ること、言いましたか?そう先輩の顔を覗き込む。

「…。俺は」

丸井先輩が、何かを決心したように、口を開いたその時だった。
電車が到着するアナウンスに、再びあの胸騒ぎ。反射的に丸井先輩へと私は手を伸ばそうとしたけれど、それは叶わなかった。

「あ、」

それを遮るように風が私の麦藁帽子を攫って行く。
それはコマ送りのようだった。
麦藁帽子へと伸ばした私の手は空を切り、帽子はひらりと舞って。

普段の私なら、こんな時あの帽子を追いかけているだろうか。
私の足は自然と帽子の方へと向いて、かけて行く。
これは確かなる私の意思なのか、何かが私をそうさせているのか、どちらにせよ、きっとこれは偶然ではなく、なるべくしてなった、必然の出来事なのだと、今の私なら言える。

帽子を追う私の身体は線路の方へと傾いていった。

!」

ああ、丸井先輩が私を呼んでいる。
もしかしたらその時はまだ、自力で戻れたかもしれない。

けれど、すぐにそれすらも奪われた。

「落ちて」

誰かに背中を線路へ押し出される。
確かに私はの声を聞いた。

ホームに侵入する電車が、目の前まで迫っていた。

まるでこうなることが分かっていたかのように、私の頭は冷静で、次の瞬間、身体が潰されるのに似た衝撃。
目の前が霞んで、意識が飛んだ。


多分、今度こそ私は死んだ。


(乗るはずだった汽車が出る頃)




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実は、ログアウトのページが駅の写真なのはここからきています
( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140925 )