23_それぞれの円環



、今暇かしら」
「…なに」

ここの世界に来て、早くも2ヶ月半が経とうとしている。
相変わらず私は元の世界に戻る方法を見つけられていないし、丸井先輩や切原君にたくさんたくさん迷惑をかけたに対する気持ちに関するあれこれも、正直な話、決着がついているわけではない。しかし、そんな中途半端なものを抱えていても時は過ぎて行くもので、結果的に私はテニス部の人達と少しだけ親睦を深めて、ついに夏休みに突入した。
そんな寝坊でも自堕落な生活でも教師の目を気にせずにいられるこの期間、私はどうしているかといえば、朝の六時から起床するという爺さん婆さんのような規則正しい生活を送っていた。その理由は後で話すとして、今は母の白々しい問いに、私は首だけをそちらへと向けた。六時から暇を持て余してのんびりソファで雑誌を読んでいる私が暇でないわけがない。彼女の台詞は、どうせ暇だろう、一応聞いたけど、ノーの返事はいらないですよと、そう言う意味を内包していることは一目瞭然である。

「実はね、ゆずるがラケットを忘れて行っちゃったのよ」

だから届けてくれないかしら、とそんな話だった。目の前に置かれたいかにも重そうなラケットバックに触れて、私はそれからもう一度お母さんの顔を見上げる。彼女は黙って頷くだけだった。

私は数分前にばたばたと慌ただしく家を出て行った弟の姿を思い出していた。ゆずるは今日から三泊だか四泊ほど、テニス部の合宿に参加することになっていたのである。実は私の起床時間の話はここに繋がる。
合宿の当日、集合場所に遅刻しないようにと、夏休みが始まってもゆずるは毎日のように六時に起き続けていた。そこまでは結構。いただけないのは六時に起きても暇だからという理由で、お姉ちゃんを起こすことである。だから今ではすっかり私も六時に起きる癖がついてしまったのである。学校があった時でさえ七時起きだったのに。

「あの馬鹿は何のために合宿に行くつもりなんだ」
「本当にねえ。ラケットがないと、困るだろうから行ってきてあげてよ」
「…しょうがないなあ」

ラケットバックの案の定の重量にため息を零しつつ、私はよろよろと腰を上げた。我が弟ながらにラケットを忘れるなんて情けないなと思った。
集合場所は立海の正門前だった。おそらくお母さんからゆずるにラケットバックの連絡はいっているだろうけれど、集合時間を過ぎてしまうと他の人にも迷惑になるので、少々急ぎ足で学校へと向かう。そうして正門が見える直前、私の横を走って通り過ぎて行く切原君を見た。時刻は集合時間ジャスト。考えるまでもなく、彼は遅刻予備群というやつだった。

「切原君」
「んあ、あれ、じゃん」

切原君は私にここにいる理由を問う前に、まず正門まで私の腕を引くと、セーフ、と声を漏らした。そこにはバスが一台停めてあり、どうやら到着した順に中に乗り込んでいるらしい。ゆずるは中にいるのだろうか。私がそう覗き込もうとした時、「セーフではない!たわけが!」すぐさま真田先輩の怒鳴り声が飛んだ。思わずラケットバックを落としそうになる。

「どあっ!?さ、真田副部長、これは、あー…そう、のせいですって!」
「…またそうやって君は」
「つうかお前なんでラケバ持ってこんなところにいるんだよ!」
「話を逸らすな赤也!貴様のたるみきった精神を俺が叩き直してくれる!」
「さ、真田副部長勘弁してくださいッスよ!!」

真田先輩の迫力は相変わらずであった。ぴりぴりとした空気の中、切原君の背中がしょぼんと小さく丸まって行く。いつもはあんなに堂々として見える彼も真田先輩の前では形無しだ。切原君は自業自得だとは思うけれど、少々かわいそうな気もする、ような。切原君のそばにいるのは躊躇われたので、私はそのまま二人のやりとりをそっと離れた場所で見守っていると、突然どんと誰かに背中をどつかれて、私はそちらへ顔を向けた。そこにいたのは丸井先輩と仁王先輩だった。うげ、面倒な人達が。どうやら、やはり一番最後に現れたのは切原君のようで、レギュラーの人や他の部員たちはもう既にバスに乗り込んでいたらしい。わざわざバスから降りてちょっかいをかけに来たのか、丸井先輩はお菓子を片手に何なんでここにいんの?と、飴玉を私の手にころんと落とした。なんだこの人。

「まさかお前さんも合宿に参加するんか」
「まじで!?やった!」
「くだらない冗談やめて下さいよ仁王先輩」
「冗談かよ」
「いやちゅうか信じたんか」

引き気味の仁王先輩を見ていると、ふとバスの窓があいて、目的の人物であるゆずるが顔を出した。それを見計らって私はわざ大きな声で「ゆずるがラケット忘れたみたいなんで届けに来ました」と言ってやると、ゆずるは今にも泣きそうな顔をした。そんな顔をしても今回ばかりは謝ってやらないのである。
丸井先輩はゆずると私の持つラケットバックを交互に見てから吹き出して「どうりであいつもじもじしてると思ったよ」なんて笑った。その様子ではラケットがないことは誰にもばれていなかったらしい。それもどうかと思うけれど、まあバスに乗り込んでしまえば誰も気づきはしないか。
ゆずるがバスから駆け下りて来て、姉ちゃんのバカッなんて頬を膨らました。何て恩知らず。

「馬鹿はどっち。ありがとうくらいいいなよ」
「…」
「まったくね、別に私はもう良いけど、もう少し周りのこと考えなさい。これでラケットを持ってくるのが集合時間に間に合ってなかったら他の人にも迷惑がかかるんだからね」
「………。うん」
「分かってるなら良いよ」

じゃあ行って来な、とラケットバックを渡してバスへと押し出すと、彼は小さく頷いた。「しっかり姉ちゃんだなあ、も」丸井先輩がやけに優しい声色でいったので、なんだかこそばゆい思いがした。
私はゆずるの背中が完全に見えなくなってから、丸井先輩達へと向き直る。気になっていたことがあるのだ。実は合宿がどこで行われるのかを知らないのである。

「弟から聞いてないんか」
「どういうわけか教えてくれなくて」
「言っちゃダメですよ丸井先輩仁王先輩!」
「戻ってくんなよお前」

どうやら、どうしても私には知られたくないらしい。バスの中に消えたはずのゆずるがこちらに駆け寄って来た。私は肩を竦めると、丸井先輩が人差し指を口に当てて、仕方ねえけど、じゃあ内緒だな、と戯けて見せた。(怖いくらいそのポーズは先輩に似合う)
人気があるだけあるなあと、丸井先輩の女子キラーの笑顔から視線をそらして、残念ですと心にもないことを言った。ちなみに後ろではまだ真田副部長の怒鳴り声がしていた。まだしばらく途絶えることはなさそうだ。それを察してか、先輩達はバスへ戻る気配がなく、休み中に何処か行くのか、とか、弟と会えなくて寂しいか、とか、そんな取り留めもない話題をたくさん出した。

「一応私も旅行というか、出かける予定はありますよ」
「え、姉ちゃんのそんな話俺聞いてないんだけど」
「ゆずるが合宿場所教えてくれないから私も教えないよ」
「はあ!?」

ゆずるよ、この世は等価交換なのだよ。別に隠す程の場所へ行くわけではないけれど。その場所と言うのも、静岡の叔父の所だった。なんでも叔母が腰を痛めたとかで、経営している海の家の人出が足りないのだとか。本当は行きたくないのだけれど、頼まれてしまっては仕方が無い。こういう部分に限ってきっちり元の世界と同じだから嫌になる。
ゆずるを見送ったあと私も支度をして出発しなければ。

「ああ、そうだ。いますか」
?バスの中にいんじゃねえの?呼ぼうか」
「いや、ええと、に暇な時に電話くださいって言っておいて下さい」
「良いけど」
「別に用があるわけではなく、休み中も彼女の声が聞きたいだけです」
「…愛されてんなあ」
「何じゃ羨ましいんかブン太」
「別に羨ましくなんかねえし、全然ちげえし。あ、でも、せっかくだし携帯の番号」
さよなら
相変わらずだなお前も、知ってるよ

ゆずるは、何て勿体無いことをとでも言いたげだったけれど、丸井先輩の番号など、きっと持っていたらそわそわして落ち着かないだろうからいらないのである。
私はもう一度丁寧に断って、ゆずるにも教えないようにと口止めをすると、そろそろ真田先輩のお説教が終わりそうだったので、私は自宅に引き返すことにした。

「気をつけていって来て下さいね。ゆずるも、いってらっしゃい」
「姉ちゃん旅行行くならお土産期待してる」
「あ、俺も俺も」
「じゃあ俺も」

私も遊びに行くわけじゃないんだけどな。一応適当に返事をして私は学校を後にした。
そもそも夏休みだから当たり前なのだけれど、いつも当たり前のように顔を合わせていた人と少しの間でも会えなくなるのは、何と無く寂しい気がする。

「…携帯の番号くらい、聞いておけば良かったか」

なんて。





その夜、叔父の家に着いた私の携帯にからの電話があった。

「もしもし、?」
『ようやく練習が終わって、消灯前なんだけど、時間大丈夫だった?』
「うん。…何か電話の後ろが騒がしいような」
『ああ、切原とか、そこらへんがね』

枕投げを始めそう、と呆れた声でが続けた。納得である。そんなことをしているから真田先輩に怒られるのに。苦笑してから私は窓からぼんやりと海を眺めていると、ドンと大きな音とともに、空に花火が上がった。下の階から叔父が花火が上がってるぞお、と私を呼ぶ声がする。今見てるよ。

「久々に花火見たなあ」
『花火上がってるの?偶然だね、うちのとこからも見えるけど』
「この時期はいたるところでお祭りやってるからね」

これまでも、あえて見に行こうとはしないけれど、家にいると週に何度も花火の上がる音が聞こえていたから。
電話の向こう側で、切原君のすっげーすっげー花火じゃんなんて声がする。練習後だろうに元気である。

『そういえば、さん、旅行中って聞いたけどどこに行ってるの?』
「ああ、静岡だよ」
『静岡?』

私が頷いた時、叔父がまた私を呼んだ。スイカがどうとか聞こえるから、花火を見ながらスイカでも食べよぜ的な流れなのだろう。せっかくと話していたけれど、そろそろ叔父が不貞腐れてしまうだろうから、私はに「また連絡するね」と断りを入れて電話を切った。彼女の生返事が、何と無く気にかかった。



(それぞれの円環)(全て繋がっているという話)




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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140924 )