21_心臓はいまも裏切りつづける


私の体は無意識のうちに動き出していた。切原君の制止も聞かずに教室から飛び出した私が行く先など、たった一つしかない。廊下の途中で、朝練から教室へと向かう丸井先輩の姿を捉えるなり、私は有無も言わさぬ勢いで彼を近くの教室に引き摺り込んだ。

「一体なんなんですか貴方」

教室の扉をぴしゃりと閉め切るなり怒鳴り声にも近いそんな勢いで私は言った。丸井先輩は状況が飲み込めていないようで、しばらく視線を右へ左へと彷徨わせていたのだけれど、何か言わねばと思ったのか、お前からこんな風に俺に声をかけるなんて珍しいな、と場違いな台詞を吐いて、取り繕うような笑みを浮かべた。そう、こんな事がなければ、私は丸井先輩に関わるつもりなど、微塵も無かったはずだ。
何なんだと言いたいのは彼のほうだろうに、そう言わなかったのはさしずめ私の剣幕に、気圧されたからだろう。

「どうして『あの時』私と初対面だなんて嘘をついたんですか」
「…」

私の問いに、先輩の瞳からは途端にいつものあの人懐こい色が消え失せた。屋上で昼飯を付き合わされた、あの時のように、言葉では言い表せないような、不思議な隔たりが立ちはだかるような、妙な沈黙と緊張感が空間を満たし始める。

「なんの話?」
「なんの話って…、一年前から、私は丸井先輩と知り合いで、なのに先輩は」
「だって、お前は違うだろ」
「は…?」

どきりとした。

「何を、」

先輩の言っている意味がわからない。わからないけれど、手を伸ばせばきっとすんなり届いてしまう距離に、答えはある、そんな気がした。今なら欲しがればいくらでも答えをもらえるように思えて、だけど私はそれを拒んだ。怖いのだ。
せっかく、とまた会えて、に謝って、それで、私を友達だと言ってくれる人もできて、ようやく全部、全部、忘れられるって思っていたのに。自分の居場所を見つけたと思ったのに。答えを知ってしまえば、私はもうここにはいられないと、そんな気がした。いやだ。居場所がないあそこには、もう帰りたくないのだ。……あれ?
そこまで考えた時、私はふと違和感に気づいた。

「…私は何を言ってるんだ」
「…?」

…帰りたくないって、忘れられるって、何それ。
違う。違うだろう。が死んだことを忘れるなんて、私が彼女を殺したことを忘れるなんて、都合が良すぎる話じゃないか。
いけない。忘れるな、彼女を殺したのは、紛れもなく私だ。
すっかり微温湯に使っていた自分の思考に身体が強張って行く。逃げようなんて、私はよくもそんな最低なことを。

「…私は、死ななくちゃいけないのに」
「お前、まだそんなこと言ってんのか」
「っ、全部丸井先輩のせいですよ!そもそも貴方がカッターを奪わなければこんなことにはならなかった!そのせいで私の決心は鈍って、…っ」

返して!そう丸井先輩へ掴みかかるけれど、当然先輩が首を縦に振ることはない。どうせ持っているんでしょう。あれがないと私は死ねない。
しかし私は丸井先輩の嫌だと言う一言で払いのけられてしまった。死にたいと言う人間に、はいそうですかと納得する奴など、普通はいないことは分かっている。丸井先輩はごくごく当たり前のことをしているのだ。けれど、この人を突き動かすのは本当にそれだけだろうか。
どうしてこの人は私に構うのだろう。私が死なないか心配だから?いや、きっと違う。

丸井先輩はいつもいつも私の邪魔ばかりして、私の心を掻き乱していく。私の平穏を奪って行ってしまう。

「丸井先輩が何を考えているのか、私は分からない」
「お前に死んで欲しくないって思ってる。だからカッターは返せない。すごく簡単で当たり前で、正しいことを俺は言っているつもりなんだけど」
「…本当にそれだけ?」
「…」
「丸井先輩、…本当それだけなんですか」

ただの道徳心で動いているの?
それだけではないように見えてならない。それ以上の何かが、私を引き止めているようなそんな気がしてならなかった。だからこそ怖い。私は丸井先輩が怖い。
何か、私を生かすだけの理由が別にあるのか。「…ああ、かもな」答えは存外間を開けずにすぐに返った。嫌な緊張が全身を包む。
彼の隠す何かが、私の根底にあるものすら覆してしまうような、そんな気がして仕方が無いのだ。私が私でなくなってしまう。

「悪いけど、もうこの話は終わり」
「は、」
「お前が何と言おうが、俺を怖がって、信用できないと思おうが、俺はお前を死なせてやらない」
「…っ私の生き死には貴方の決めることじゃない。この命は私のものです」
「でもお前の決めることでもねえよ」

そんな、誰かが決めることじゃねえんだ。やけに静かな声で丸井先輩が言った。反論することができなかった。丸井先輩には関係のないことだとか、私が死んだところで困らない癖にだとか、言いたいことはいくらでもあったけれど、何一つ声にして出すことは叶わなかった。丸井先輩の悲しげな表情が、そうさせていた。

「死ぬ事ならいつでもできる。なら、できる限り生きるべきだと俺は思う。まだお前は笑えるし、怒れるし、泣けるし、すごく生きてるって、そんな感じがするから」

そう、私はまだ当たり前に、いくらでも好きなことができて、けれどたくさんの管に繋がれたにはできなかった。不意にが窓から落ちていく姿が脳裏にちらつく。離れない。私が死なない限り、彼女は何度だって私の中で死んでいく。

「何も知らない癖に。丸井先輩のような人には分からないでしょうね。死にたいと思う人の気持ちなんて」
「分からねえよ、分かりたくもねえ」
「だったら、」
「分かっちまったら、誰がお前を引き止めるんだ」
「…」
「分からねえから、お前を死なせたくない。生きるべきだって分かるから、それが分からなくなった奴を守りたいって思う」
「…はは」

ああ、この人は本当に『良い人』と言う奴なんだろうと思う。だから人に好かれて、いつだって幸せそうだ。だからこそ、私は引き込まれてはいけない。この人といる資格などきっと私にはないのだ。

「…とんだ偽善者ですね。吐き気がする。死にたい奴は皆死ね、とは流石の私も言わないけれど、でも、私は死なないといけないんです」
「どうしてだよ」
「丸井先輩に話すことではありません」
「…俺は、お前が死んだら寂しいから嫌だ」
「ただの右手なのに?」

この後に及んで、その台詞を言う自分をおかしく思った。何を気にしているのか。いや、もしかしたら丸井先輩のやけに真剣なその言葉を茶化すためかもしれない。そんな後ずさる私の腕を、先輩は逃がすまいと捕まえた。「

「生きろよ」

きっと、その言葉は私に希望を与える意味がたくさん詰まっていたはずだ。私がもう少しまっすぐな人間だったなら、丸井先輩の手をとって頷いていたかもしれない。
けれど今の私には、それに懐柔されてしまうことがどうにも怖くて、そうだからか、気づいた時には丸井先輩の腕を振りほどいて走り出していた。

丸井先輩を見ると、生きたくなってしまうから、

だからどうか邪魔をしないで。



(心臓はいまも裏切りつづける)(すぐに止まってしまえばいいのに)




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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140915 )