20_きみの眸に映るべきものたち |
「俺さ、姉ちゃんのそう言うところが嫌いなんだよ」 基本的に、私は割と良い姉をしていると思っていた。というか、現在進行形で思っている。それはこちらの世界に来る前からの継続した話になるわけで。私は妹や弟を使い走りにしたことはないし、姉だからとあからさまに偉そうにしたこともない。だから『妹』のゆずるとはそれなりに良い関係を築けていたし、そもそもあの子はふわふわとした性格だったので、おそらくそれも仲が良かった理由の一つかもしれない。 「それなのにお前は、ほんとに…」 今の今まで普通に会話をしていたのに、今日、私が丸井先輩からもらった調理実習の丸井プレゼンツのマフィンの話をした途端、冒頭のそれを突然浴びせかけられたのであった。ゆずるは、当然私の台詞の意味が分からなかったようで、反抗的な目つきで私を睨んだ。弟と妹ではここまで姉の立場というものは変わってしまうのだろうか。ソファに深く腰をかけていた私は、鞄から話のマフィンの袋を取り出すと、ゆずるはむっと口を尖らせた。 「姉ちゃんはずるいと思わねえの?」 「全然。ていうか何が」 「だから、姉ちゃんばっかり、こうやって丸井先輩に手作りのお菓子もらったり、レギュラーと幸村部長のお見舞いに行ったり!」 ずるい、と駄々っ子のように彼は一回だけ強く飛び跳ねた。床が震える。キッチンの向こうから、お母さんが私達を諌めるようなちょっとトーンの落ちた声が聞こえて、私は大袈裟に肩を竦めて見せた。私じゃないってばあ。ここでは私も大分駄々っ子である。 「俺なんて部長に認識すらされてないんだ」そんな私の隣にすとんと座って三角座りをすると、しゅんとした風にゆずるは言った。そうか、切原君の話によれば、幸村先輩が倒れたのが私達が1年生の冬。ゆずるはまだ小学生で、全国大会で活躍していた先輩を一方的に知っていただけなのだ。 少し可哀想に思って、お姉ちゃんが行ったからの名前はきっと覚えてもらえてるよとフォローを入れると、真横からしゅばっ、と素早くパンチが飛び出た。イタッ。 「…。そんなに行きたいならお見舞いに行けば良いのに」 「姉ちゃんは分からないかな、あの空間に入ることを許されるのはレギュラーだけだよ。それなのに、お前は…ズカズカと!」 「今ゆずる、お前って言った」 「うるせえ!」 …確かにゆずるの言う、レギュラーの人達だけが許される空間というのは、テニス部でない私にもよく分かったし、行ったことも割と後悔している。その場を収めるために建前で、ごめんね、と言ってしまうと膝に顔をうずめていたゆずるがもごもごとくぐもった声を出す。なに、何だって?まさか泣いているのではないだろうな。私は悪くないけれど、こうなると怒られるのは間違いなく私だ。 「…姉ちゃん、」 「うん?」 「姉ちゃん、部員でもないのに、切原先輩と仲が良いし、丸井先輩、とか、仁王先輩とか、姉ちゃんのことよく話してて、それで、…こんな影薄女なのに何でだよぉおお」 「えええ…」 「お陰で、丸井先輩達に、よ…よく声かけてもらえるようになってッ…」 「…」 「ありがッ、…ありがとうッ」 「何だよめんどくせえなお前」 とどのつまりは、自分よりも先輩と仲が良い私を許せないけれど、お陰で今まで声すらかからなかった自分に話しかけてもらえて、やっぱり泣くほど嬉しいと、そう言いたいらしかった。泣くほどの価値がある人だろうか。私なんか丸井先輩と相合傘もしたし菓子パンももらったし、一緒にお昼も食べたし。仁王先輩には、丸井先輩に変装して後ろから首締められたし、切原君とは何度手をつないで走ったか。ノートも見せたしな。こう考えると確かに接触率が高いことがわかる。 「…残りのマフィンあげようか」 「情けかよ」 「いらないの?」 「いるよバカッ」 「…」 めんどくさいなあ、と思った。 ゆずるは私の手からマフィンの袋を奪うように取り去ると、早速もそもそと噛り付いた。私はこういうお菓子はできたてか、電子レンジで温めて食べる派なので、すっかり冷えたマフィンはもらったときほど美味しそうには見えなかったのだけれど、ゆずるが嬉しそうだから、まあ良いか。それにしても、私は、彼女ではなく男の先輩が作ったマフィンを幸せそうに頬張るなんて可笑しな奴だ、お菓子なだけにな。とそんなくだらないことを考えていた。 「ってこのギャグ前に、丸井先輩も言ってたやつ…ッ」 「…姉ちゃんてさ」 「…また文句?」 「丸井先輩といつ仲良くなったの」 またそれか、と思った。 皆、私と丸井先輩が仲が良いと言うけれど、どこをどう見たらそう言えるのだろうか。そろそろうんざりする頃だと、隠すことなく盛大にため息を吐いた。「仲良くないってば」「嫌味?」「はあ…?」私からすれば、何度も尋ねられる方が嫌がらせに思えてくる。 逆に聞くけれど、本当にはたから見て仲良く見えるのか。私は丸井先輩に酷い言葉ばかりかけていると思うが。 「まあ、『仲良く』は見えないよ」 「ほら」 「そういう意味じゃないって」 一つ目のマフィンの、最後の一口を口に放り込むと、ゆずるは首を横に振った。やれやれと、そんな感じだった。 「この間丸井先輩と一緒に学校に行った時、先輩は喧嘩する俺達を見て仲良がいいなって笑っただろ」 「…うん」 「そういうことだよ」 丸井先輩といい、ゆずるといい、何だかとても分かりづらい話をする。好きか嫌いか、見ただけでわかるような、一つの感情だけで白と黒を分けられるような、そんな答えが私は欲しいのに。 外見が単純に仲がよくしているように見えるだけが、本物の仲良しではなあだろうと、ゆずるが偉そうに語った。 「むしろ仲が良さそうに見えても、実際は違うことのが多いし、ほら、女子ってそう言うの多いだろ」 「…」 「俺が言ってんのは、もっと深い意味の話をしてるんだよ。俺達だって、お互い好きか嫌いかって言われたらよくわかんねえじゃん。好きだから一緒にいるわけじゃねえし、元々家族で、もういて当たり前の存在だから、今更いるとかいなくなるとか、好きとか嫌いとか違うだろ。ただ、いないとまあ、困る、っつか」 「私はゆずる好きだけどね」 「っ…あっそ!」 ぷい、とそっぽを向いたゆずるが照れていることはわざわざ顔を見なくとも明らかだ。私はこっそりほくそ笑んで、それから、ゆずるの今の話が丸井先輩の言った話になんだか似ているような、そんな気がした。 好きでも嫌いでもなくて、でもいないと困るもの。 右手のような、そんなもの。 「まあ、仲良いって言っても姉ちゃんが丸井先輩に辛辣過ぎるのは否定しねえよ。それは直した方がいいと思う」 「私が丸井先輩が苦手だから仕方が無い」 「それは違うんじゃねえ」 「どういうこと?」 「姉ちゃんはさ、」 ゆずるの表情はやけに真面目で、私は身体が強張るような感覚がした。 「…『丸井先輩に甘えてるように見える』、か」 と、まあ、ゆずるとこんな話をしたのが実は昨日のことで。鞄を机に起きながら、朝らしい薄い水色の空の下のテニスコートへと視線を移した。どうやら朝練組はとうに撤収しているらしく、そこには誰の姿も見ることはできなかった。 私はゆずるが最後に言ったあの言葉を繰り返しながら、その意味を考えた。私が丸井先輩に甘えている、と。ゆずるは、丸井先輩は私が何を言っても怖いくらいに全部、全部、そのまま受け止めて包んでしまうのだと言った。丸井先輩が大人なのだと。だから、私は丸井先輩を困らせる。…彼には何をしても許されるから? 「あほか」 馬鹿馬鹿しい話だと思った。 とんだ贔屓の色に溢れた解釈に嫌気が差して、私は、相変わらずポケットに居座るガムを取り出すと、それをぎゅ、と握り潰そうと力を込めた。捨ててしまえこんなもの。いつまでも『私』の片隅に置いておくものではない。しかしぐにゃりと手の中で形を崩したそれを、完全に丸めてしまう前にそれは遮られた。 「何それ、まさか丸井先輩に貰ったやつ?」 朝練帰りの切原君が、ホームルームギリギリの、そんな時間に現れた。朝早くからこんな時間までご苦労だなあと思いながら、私はああ、まあ、と生返事を寄越した。何と無く、こう答えたら彼に何を言われるかが、私には分かってしまっていたのだった。 「昨日のマフィンと言い、本当にいつの間に」 「そんなに仲良くなったか?」 「…」 ずず、と椅子を切原君の方へとわざわざ向けて、図星らしい彼の様子に首を振った。切原君は、丸井先輩が食べ物を、しかもガムをくれるなど珍しい話だと私に話して聞かせたけれど、そんな事どうだっていい。仲良くないものはないのだ。このガムだって、丸井先輩の気まぐれに違いない。だって、この時先輩は、たくさんあるパンではなくこちらを渡したのだ。本当に私に優しいならば、パンを渡すだろう。 「でも、それグリーンアップルのガムだし」 「ガムガムってうるさいな。何なの」 「…別に」 「なに拗ねてんの」 「何で俺が拗ねないといけねえんだよ」 「いや知らないけど」 拗ねているじゃないか。拗ねたいのは私なんだがと言う話である。 彼はすっかり私を見なくなって、がこがこと乱雑に机に教科書を移しては、入れ損なって落ちるそれらに舌打ちをする。何だか昨日のゆずるの姿に重なるようだった。怒っている理由は、違うような気がするけれど。 「俺の方がずっと、一緒にいんのに」 「なんだって?」 「なんでもねーよしね!」 「俺の方がずっと一緒にいるからなに?」 「聞こえてんじゃねーか!ふざけんなバーカ!」 「君よりは頭良いよ」 「っバーカ!」 バーカバーカなんて、そんな言葉しか相手を罵るボキャブラリーがないのかなあと思う。流石にそこまで脳が足りていないと不安になります。 もりもりと妙な効果音をつけながら、私は切原君の頭へ手を伸ばして、彼のくるくるした髪を撫でる。「その効果音喧嘩でも売ってんのか」「まさか」そう、まさかである。無意識だった。いやあ、無意識って怖い。 「切原君は何か勘違いしているよ。100歩譲って仮に現在私が丸井先輩と仲が良いとして、でもこのガムは、確実に私が丸井先輩と仲良くない時に貰ったものだ」 だって、会って一週間すら経っていなかったのだから。きっとガムは気まぐれに違いない。しかしそれでも切原君は納得した様子がなかった。めんどくさいなあ、もうどうでも良くなって来たんだけれども。 「まだ信用してないみたいだけど、私がこれを貰ったのは丸井先輩と初めて会ってから一週間も経ってない頃だよ」 「はあ?!」 「ね、仲良くないでしょ」 「いや、つうかお前、どんだけ持ってんだよ。さっさと食えよ!」 もう食えねえだろそれ、とか、あ、でもガムって腐るの?とか、どういうわけか一人で盛り上がる切原君を大袈裟だなあと肩をすくめた。確かに梅雨の真っ只中をポケットの中で乗り越えて来たわけだし、食べられるかは不安だけれども。もとより食べるつもりはなかったし。 丸まりかけているガムを手のひらに乗せて、変色なんてしていたらどうしようね、と冗談交じりに言った。切原君は笑えないようだった。笑ってよ。 「食べて見るかい?」 「いらねえよ。そんな一年間もポケットに入れっぱなしのガムとか」 「…」 「知らねえぞ、丸井先輩怒るとスゲー怖い、…って?」 「…は?」 「え?」 聞き間違いなのかな、と、私は首を捻った。一年?おうむ返しに問えば、それが?と切原君。とある結論に辿り着きそうになる寸前、それを拒むように頭の中が真っ白になった。 「だってそれ、ほぼ初対面の時に貰ったんだろ」 初対面の時に貰った?ああ、貰った。私が初対面の時に。この『私』が初対面の時に、だ。 じゃあ『本来この世界にいるはずの私』が初対面の時はいつ? サッと手のひらが途端に冷たくなって行く。嫌な汗が背中を伝って、それから、先輩の嘘臭さい笑顔達が、一気に私の頭を巡った。 「…、どうした?」 「…私が初めて丸井先輩に会った時って、どんな感じだったっけ」 「はあ?…確か、丸井先輩が俺の教室に部活の連絡しに来て、そんでお前が丸井先輩に頼まれて俺を呼びに来たんだろ。お前が馬鹿みたいにビビるから、丸井先輩面白がってからかってたじゃねえか」 「…ああ、そっか、そっか」 …私は本当は気づいていたんじゃないのか? あの人の妙な態度に。 手の中のガムを握りしめると、私はそれをポケットに押し込む。 そう。そうか、ああ、やっぱり、 「…丸井先輩は、嘘をついていたんだ」 (きみの眸に映るべきものたち)(そんなもの、本当は一つも見えていなかったのかも) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140905 ) |