19_お行儀よくさようなら |
ふわんと鼻腔をくすぐるこの甘い匂いが教室に流れ込んでくる。昼も近いだけあって、胃の中が空っぽであることを改めて気づかされて私は机に伏せた。昼飯はこれからあと一時間、授業に耐えねばならない。隣で切原君が匂いの方向を気にしながら腹減ったなあ、と一言。声は出さずに私は首を縦に動かした。このお菓子の甘い匂いはさしずめ2学年の廊下の突き当たりにある家庭科室から流れ込んで来るものだろう。廊下も、教室もそんな匂いで満たされて、ぽつりぽつりと生徒達の中にも私達と同じ話をする者がいた。 「あー…そういや朝練で丸井先輩と仁王先輩のクラスが調理実習とか言ってたな」 「じゃあ待ってれば切原君のファンの先輩が、もうすぐおこぼれを持ってきてくれるんじゃないのかい」 ひょろりと手を伸ばして私は廊下の先を示した。あとものの数分で調理実習から帰ってきた先輩達がこの教室に押しかけるに違いない。いやはや世界とは不平等に出来ているものだと、私は口を尖らせてすっからかんのお腹をひとなでした。 「甘いな、」 「は?」 「先輩達の人気ぶりをしらねえだろ…しかも丸井先輩がいたとなりゃあ、…俺のところになんか回ってこねえよ」 しおしおとしょぼくれるその姿は見覚えがある。確か以前も丸井先輩が大食らいで完食なんて出来やしねえぜみたいな話をされたことがあった。私の中では丸井先輩が傲慢だという認識がどうにもぶれずにそこにあって、何故人気なのだろうと疑問を頭の片隅に残しながら、ふうんと頷いた。他人事のような様子に、切原君は不服そうだったが本当に他人事なのだから仕方が無い。 腹の足しになるものを求めてスカートのポケットを探ると、指にいつぞやに丸井先輩からもらった青林檎のガムが触れた。何故かどきりと心臓が跳ねる。カッターの居場所だったはずのそこにすっぽりと収まったガムを、どうしても食べる気になれずに、結局そのままにしていたのだ。 「…すっかり忘れてた」 私はそれをポケットの中に押し戻して、もう一時間空腹を耐え抜く決意をした時、突然切原君は私の腕を掴んだのである。彼はにんまりと何かを思いついたような嫌な顔をしていた。私が口を開く間も無く、彼は走り出す。いつだってこの人は嵐みたいな人だ。 「えええちょっと切原君何を」 「お前なら丸井先輩にもらえんじゃねえの」 「は?」 「お前、丸井先輩に気に入られてるしな」 「それは違う」 ぴた、と私が突然立ち止まって、切原君の腕を振りほどいた。私を振り返る彼は案の定急に止まるなと、そんな文句でも飛び出しそうな表情をして見せたけれど、私は謝らなかった。切原君は思い違いをしている。私は丸井先輩に気に入られているわけではないのだ。 「ああ?どう考えても丸井先輩お前の事大好きだろ」 「違う。右手なんだって」 「は?右手?」 「なんでもない」 丸井先輩は私に対して明確な感情を抱いているわけではないのだ。きっと彼の言いたい事はこうだ。存在がぼやけた私など、ぼやけた位置に置く他はないと。ただ、嫌いではないと、それだけだ。 別に構わないではないか。今まで散々苛立つ人だと思ってきていたのだから、好かれていなくてせいせいする。 「とか言って、丸井先輩来たぞ」 「は?」 顔を上げると、どういう訳か、調理実習からの帰りと思わしき丸井先輩と仁王先輩が、2年の廊下を闊歩してこちらに近づいてくるのが見えた。ざわつく廊下のこともそうだけれど、あの二人は頭が派手だからとても目立つ。切原君は、なぁにが好かれてないだよ、と嫌みたらしく言って、私の頭をはたいた。それは酷いだろ。 特に何があったわけでもないけれど、何と無く、別にお前の事は好きじゃない、と聞かされたついこの間の今日では一方的に丸井先輩とは顔を合わせづらく思われる。どうせ元より丸井先輩の事は苦手だと認識されているし、逃げてしまおうか躊躇しているうちに、すっかり丸井先輩達は目の前までやって来ていた。 「よーっす」 「はあ、」 「何だよその反応、相変わらずだな」 せっかく良いもの持って来てやったのに、と屈託無く笑った丸井先輩は私の手を掴むとその上にポンと、小さなマフィンがたくさん入った袋を乗せた。 右手、右手。私は右手なんじゃないの。たかが右手にどうしてこんなことをするの。丸井先輩の笑顔が全部、全部嘘くさい。「それで、先輩、俺の分は?」切原君が名状し難いなんとも奇妙な笑い方をして、私はこっそり気持ち悪いなあとそれを横目で見ていた。 「赤也の分はナシ」 「えー何で!だけずるいッスよー!」 「こいつには色々と借りがあるんだよ」 「借りって?」 「色々だって」 「つくならもっとマシな嘘ついて下さいよ」 切原君の言い分はもっともだった。私は借りを作るほど丸井先輩と一緒にいない。強いて言うならば、私にとって二人で昼飯を強要されたことは、ある意味では借りだけれど。丸井先輩は、仁王先輩の腕を掴んで、ねだるならこっち、といくらなんでもねだりづれえよみたいな人を前線に引きずり出した。 「仁王甘いもの好きじゃねえしな。全部くれるって」 「仁王先輩って、前に、俺にワサビ入りのやつ渡して来たからあんまり欲しくないって言うか」 「何、ワカメ入り?いくらなんでもそれは切原君に対して当てつけが過ぎますよ仁王先輩」 「ワサビだよテメエワザとか」 「ここぞとばかりに出張って来たな」 そんな私達のやり取りの合間に、仁王先輩は、おもむろに袋を切原君に投げて寄越した。丸井先輩が言うには、丸井先輩の監督の下に調理したので、失敗はないらしい。味に相当自信があるらしく、丸井プレゼンツなぞとふざけた事を言いながら丸井先輩は顎でしゃくって、食べてみろと促した。確かに見た目はとても綺麗である。丸井先輩は料理が得意なんだよ、と切原君がぽそりと私に教えてくれた。ふうん。 感想待ちに何処かそわそわしている丸井先輩に若干引きながら、私はその一つを口に運ぶ。ん。 「なんですかこれ」 「え、不味かった!?」 「うま過ぎなんですけど馬鹿なんですか」 「お前って俺を貶さないと生きていけないのかとまず問いたい」 「こんなもん作れるようになって、なんですか、嫁にでも行く気ですか」 「行かねーよ」 私はカルビーの某商品にやめられない止まらないという感覚は抱かないけれど、丸井先輩のマフィンはまさにそれだった。もりもりと、口をせわしなく動かしている様子に、丸井先輩は満足そうにへらりと笑って、仁王先輩が「うわ」なんて小さな声をもらした。「うわって何だよ」丸井先輩が吠える。まあ確かにうわって言いたくなる顔をしていたよ先輩。 「私は丸井先輩を侮っていました」 「お、ようやく俺の凄さに気づいたか、おっせーよ」 「そういうとこ超ウザいです」 「…」 「でも、マフィンは何か、優しい味がしますね」 こういうとことには、先輩の思いやりが詰まってる感じがして尊敬します。本当にこれだけだけど。私がそんな言葉をポツリと零した時だった。丸井先輩の瞳が、ほんの一瞬だけ動揺したように揺らいだように見えた。「あ、そ、…か。サンキュ」すっきりしない言葉と、次いでそれに噛み合わないくしゃりとした笑顔。何なんだこの人。まさか、実はワサビでも入っているのか。 しかし表情の真意を訪ねる機会は私の腕を掴んだ切原君によって奪われた。「あーそういや次、俺英語当たりそうだから、ノート見せて」「え、ちょっと」突然何ですか。君いつも直前に焦るタイプの人でしょう。今でも十分直前だけれども。 「切原君、間違えると煩いからいやだよ。弟から私のノートの文句、聞いたんだからね」 「おーそういや赤也、のノートがどうとか、偉そうなこと言っとったのう」 「間違ってるノートが悪い」 「見せてもらってる分際で貴様」 切原君には頼れる先輩がいるのだから(柳先輩とか真田先輩とか柳生先輩とか!)私などではなく、そちらに頼めば良いのに。その方が確実だろう。口を尖らせて、私は正論を並べ始めると、それに便乗して、仁王先輩が教えてやってもええぜよと、あの専売特許の詐欺スマイルを繰り出した。スマイル0円を装って裏を返せばただのリスキーな取り引きである。怖い話だ。 逆に丸井先輩は見た目からして頭があまりよろしくなさそうだから、切原君に絡む仁王先輩に苦笑しているだけで、口を挟む気配はなかった。私も巻き込まれたくないので早口に 「勉強を教えてくれる先輩がいて良かったね」 と言って教室に引っ込んで行こうとすると、制服の襟が遠慮なしに引かれて、ぐええと情けない声を出した。もちろん原因は切原君である。 「俺はに教えてもらいますんで」 「先輩より女子か。お前さんも男じゃな」 「ちが、同じクラスなんだから当たり前でしょ」 「いいよ、先輩に聞きなよ。聞ける先輩がいるって素晴らしいよ、ウラヤマシイヨーワンダホー」 「…」 …嫌だよそんな目で見ないでよ切原君。 彼の目はすっ、と細められて冷ややかなものだった。これでは必殺作り笑いも効果も期待出来なさそうだ。元々効果はなかったけど。私はこの冷ややかな目から逃れようと、腕をつかんで離さない切原君の腕をぶんぶんと振りほどこうとするもどうにも振りほどけない。何だよ、今日はやけに私に絡むじゃないか。少しだけ不機嫌そうな色を表情に映すそんな切原君の横で、仁王先輩の白い指が今度は私へと伸びた。げ。 「そうか、そうか。赤也が羨ましいならも可愛がっちゃろうか。なあに、俺とお前さんの仲じゃ」 「やめてください。仁王先輩が言うとなんか全体的に卑猥です。ていうかどんな仲」 「ぶっは!」 丸井先輩がウケた。卑猥だって、卑猥。そんな言葉に喜んでしまう丸井先輩と切原君はあまりに幼稚に見えて、そこはかとなく可哀想な想いに駆られた。 「お望みならそうしてやってもええぜよ」 「だからお望みじゃねえよ」 私に近づいたら柳先輩に言いつけます。私が繰り出した咄嗟の盾は、仁王先輩を意外そうな表情に塗り替えた。それから何故か丸井先輩も、何だって、と私の言葉をそのままおうむ返しに問い返したので、この反応は何だろうと切原君を見ると「何で柳先輩?」と、まるでいつ仲良くなったんですかと内包されていそうな台詞が飛んだ。 「いや、別に仲良くなったわけでは。ただ、この間保健室で、」 「保健室で、なに!?」 「お前ら思春期全開か」 あまりに素早く食いついた丸井先輩と切原君に、柳先輩来ないかなあと私は徐々に夏色に色づき始めた景色へ意識を飛ばしたのだった。 (お行儀よくさようなら)(本当に料理の腕だけは尊敬します。料理の腕だけは!) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140905 ) |