18_心いっぱいの不正義をきみに


「痛っ」

ざざざ、と身体が滑って、砂埃が舞って、瞬間的に私は目をつぶる。体育でここまで豪快に転んだのはいつ振りだろう。乾いた土の匂いが鼻について、ゆっくり目を開くと、刺すような痛みが左足を襲った。肘も手の平も擦りむいているようで、砂の色に混じって赤黒い血がじわりと沁みて見える。遠くの方からホイッスルの音がして、ついで体育教師の野太い声。私はのろのろと身体を起こすと大丈夫ー?と建前だけの感情のこもっていない言葉達が飛び交った。別に心配して欲しかったわけでは無いけれど、誰も駆け寄って来ないあたり、とても惨めに思えて、立ち上がっても私は顔だけはきちんと上げることができなかった。我ながら哀れだ。白かった体育着のお腹の所が土色に汚れて、払っても、払っても、それは落ちない。

大丈夫かあ、足ひでぇな、保健室行ってこい。ええと、付き添いは…」

体育教師は、私の足の傷に大袈裟なくらい痛そうな顔をしてみせた。そんなに酷いだろうか。
女子と男子とは別々のチームにされていて、男子の方はサッカーの試合に夢中で、こちらの状況には気づいていないようだった。当然切原君もその例外ではなくて、加えて彼は私と違って運動神経抜群と言うやつだから、私が行き場のない視線をあちこちに飛ばしている間に、彼は華麗にゴールを決めていた。男子の歓声が届く。

「残念ながら切原君は試合中だから頼れないよ」

女子の中の一人が私と同じように切原君の方を一瞥した。彼女の目は特別嫌味の孕んだそれではなく、ただ事実を私に伝えたというようだったけれど、私はどきりと嫌な汗をかいた。

さん、いつも切原君にべったりだよね」

今度は少し苛立ちを含んだ声。どれも今までに遭遇したテニス部と仲がいいことに対する妬みの声とはまるで違う。カッと顔が一気に熱くなる。恥ずかしい。
この子達に保健室に付き添って貰うのはどうにも気が重く思われて、私は慌てて「付き添いはいりません」と早口に言うと足をひきずりながら小走りに保健室へと向かった。突然のことで驚いたのか、後ろで体育教師の中途半端な返事が聞こえた。

保健室の先生はどういうわけかいなかった。私は近くの水道で一先ず土だけ洗い落とすと、適当な椅子に腰掛ける。
いつだって、来るたびに思うけれど保健室は奇妙な空間だ。消毒の匂いが染み付いたカーテンやシーツに囲まれているからか、とても静かな気分になる。この空間は学校の日常という空間から切り離されているように見えた。
校庭では、中断していたサッカーの試合が再開している。私は彼女達に言われた台詞を頭の中で繰り返した。切原君に頼りきりなんて、そんなつもりでなかったけれど、意地悪な人から助けてもらった時も、幸村先輩と会った時も、確かにいつも助けられている。じわじわと痛む足ももはやどうでも良くなって、ぼんやりと太陽で白く光る校庭を眺めていた。

「ああ、すごく今の私だ」

傷が癒えないまま、治し方も分からないまま、いっそ壊してしまいたいのに、それすらも許されなくて、私はひとりぼっちだ。

「家に、帰りたい」

帰る場所など、この世界にも元の世界にも、きっともうないけれど。「失礼します」そんな私の思考を遮るように、保健室の扉が開いた。振り返る私は、相手と目が合うと、その人は一瞬だけ入るのを躊躇うように立ち止まって、しかし何事も無いというようにすぐに私の前までやってきた。その人は柳先輩だった。体育ジャージを来ていたので、おそらく先輩も体育だったのだろう。校庭に姿が見えなかったから、体育館でも使っていたのだろうか。

「先生はいないのか」
「私が来た時から既にいませんでした」
「そうか」

彼は私の足を一瞥してから、消毒液ならばそこにあるぞ、と、棚を指した。私が傷を放ったままにしているのが不思議だったようだ。先輩も先輩で、冷蔵庫の中の氷を取り出して袋に詰めていたので、どこかを捻ったのだろうか。
妙な距離感と沈黙に、私はぐっと息が詰まる思いがした。このまま黙っていればきっと先輩はすぐ去るだろうけれど、何と無くそれでは失礼な気がして、私は柳先輩の名前を呼んだ。

「なんだ?」
「あの、先日は、…幸村先輩のお見舞いの時は、助け舟を出していただきありがとうございました」
「ああ、」

深々と頭を下げると、柳先輩は小さく笑ったようだった。「気にするな」と。幸村先輩は、病気のことでストレスが溜まっているらしく、少し厳しく当たってしまったらしいのだ。
取ってつけたような話題に柳先輩は思いのほか乗ってくれたようで、私はこっそりと安堵した。

「ああ、それよりも、傷の手当てはいいのか」
「後でやります。柳先輩こそ、捻ったんですか」
「いや、俺ではない」

どうやら体育館で友人が足を捻ってしまったそうで、歩かせるわけにはいかないかと柳先輩が氷を取りに来たらしいのだ。ならば早く行ってあげてくださいと、促そうとしたけれど、先輩は棚から消毒液を掴むと私の前にしゃがんだのだった。ぎょっと身を強張らせる。

「柳せんぱ、じ、自分でできます!」
「お前はきっと俺がいなくなっても手当てをしない」
「何故そう思うのですか」
「お前の顔に書いてある。俺に嘘は通用しないと思った方が良い」

思わずむっと表情を曇らせる。正直、そういう人は苦手だ。
しかしそれを諌めるように急に膝が消毒にぴりぴりと痛んで、私はそれきり黙り込んだ。柳先輩はあまり表情の変わらない人だけれど、私のしかめ面に少しだけ可笑しそうに笑っているのは分かった。本当は意地の悪い人なのだろうか。切原君は柳先輩を尊敬しているようだけれど。

「結構深いな。家でもきちんと消毒をした方が良いぞ」
「はあ、」
「以前、赤也が擦り傷を放置して酷くなっているのを見ているからな」
「…」
「赤也が心配する」
「それは、困りますね」

私は何だかんだで切原君に助けてもらってばかりで、頼りきりで、そろそろ切原君は私にうんざりしている頃ではないだろうか。
ガーゼが膝に当てられて、手当ては終わったらしい。けれど柳先輩はといえば、私の隣に腰掛けたのである。落ち着いた雰囲気をまとう先輩は、どきまぎしていた私の緊張を融解させて行くようだった。

、俺達は赤也に苦労をかけられてばかりだ。だから、代わりにあいつには頼りすぎなくらいが丁度いい」
「柳先輩って、不思議な人ですね」
「それは初めて言われたな」

だって一緒にいると落ち着くから。変な意味で取られたら嫌だと、それを伝えようと私は口を開いたが、その前に柳先輩は、ふと窓の外を見ておもむろに立ち上がった。時計を確認すると、授業が終わる五分前だった。

「俺の予想通りだ」
「え?」
「俺はこれで失礼する」
「え、ちょ、」

がらがらばたん。止める暇もなく、柳先輩はさっさと立ち去ってしまった。去り際は案外冷たい人である。それから、予想通りとはどういう意味だろう。視線を改めて外へと移そうとすると、騒がしく誰かが飛び込んで来る音に、重ねて私の腕が引かれる。この手の感触は知っている。ああ、柳先輩が言ったのはそういうことか。

、転んだんだって?大丈夫かよ」
「やあ切原君」
「お、おお」
「どうしてきたの」
「え、心配だから」
「…」
「…」
「ああ、友達だからね私達」
「何当たり前のこと言ってんのお前」
「…。うわあ」

自分で言って恥ずかしくなるなんて馬鹿のすることだ。きょとんと私を見つめ返す切原君の真っ直ぐな目をどうしても見ていられなくて、私はわっとその場にしゃがみ込んでしまう。「えええ!おま、ええええ?!」切原君が叫んだ。うるさい。

「どっか痛いのか!」
「足が痛い」
「泣くほど痛いのか!」
「泣くほど恥ずかしい」
「お、お前が転んだこと先輩には内緒にしてやるから泣き止めよ」

別にそういう意味ではなかったのだけれど、説明も面倒なので、うんうんと頷いて顔を上げた。「あ、泣いてねえし!」泣いてないよ。切原君は私の顔を覗きこんで、あからさまに心配して損だわーみたいな顔をした。失礼な奴である。だけどそれは一瞬の間だけだった。すぐに彼は私の頭をさらさらと撫でて、立てるかと私の足を案じたので、心の中でお人好しワカメだと命名した。

「立てない」
「しゃーねえなー」

きっと背負ってくれるか肩を貸してくれるかどうにかしてくれるんだろうと思う。そんな優しさに急に甘えたくなってしまって、私は切原君の方にだらんと倒れこんだ。彼は走り回っていたから、少しだけ汗の匂いと、真っ白な体育着は洗剤の匂いがした。

「えっ、ええ、え!?」

ストンと尻餅をついた切原君は、行き場のない腕を彷徨わせて、バタつかせていた。この行動は選択ミスだったらしい。

「切原君」
「…。はい」
「私って面倒臭いでしょうか」
「え、うん、結構」

おずおずと背中に手が回されて、それから答えはすぐさま寄越された。もう彼の言葉がどもることはなく、何を今更とばかりに切原君は軽口を叩いて私を馬鹿にし始めた。正直このタイミングだと落ち込む。

「やっぱり私っていない方が良いんだろうか」
「いやまあそれは違うだろ」
「…」
「お前ちょっと捻くれてて性格は正直良くなさそうだけど、でも俺はお前が本当は良い奴って知ってるし」
「…前も言ってたけど、切原君の良い人の定義って何なの」
「何かさ、俺馬鹿だから難しいことは分かんねえけど、」

誰にでも、良くない部分てあるだろ。と切原君は続けた。心の中で文句ばかりだったり、誰かを妬ましく思う気持ちで溢れているけれど、皆そういう暗い気持ちを押し殺して生きている。

「殺してやるって思うぐらい嫌なやつに会っても、実際殆んどが思うだけで我慢するだろ。本当にそれができる悪いやつなんて、そうそういねえって話だよ」
「まあ、そうだけど」
「そこでそれを実際に行動に移しちまう奴こそ、本当にダメなやつなんじゃね?」
「うん、…つまり?」
「お前はそういう奴じゃねえだろって話だよ!」
「そうだと良いよね」
「そうなんだよ」

切原君は乱暴にそう言い切ってしまうと、私の腕を掴んで自分の肩に載せた。ズルズルと引きずるように私を保健室から連れ出そうとする。とても怪我人に対する対する対応には見えないけれど、彼が不器用なのはこれまで過ごしてきて何と無く分かったし、私は思わず苦笑してしまった。

「な、なんだよ」
「いやあ別に。また切原君に頼ってばかりだって、言われてしまうかなあと」
「はあ?誰に」
「ええ、それは秘密だよ。実際その人たちの言う通りだしね」
「気にすんなよ。これは俺の自己満でやってんだから」
「おお切原君て良い人だなあ」
「あー…なんつうかそういうんじゃなくて」

何やらごにょごにょととても言いづらそうな雰囲気を醸した。急かしてもどうにもすぐには教えてもらえなさそうだと黙って彼の言葉を待っていると、彼はとうとうなにも言わなくなって、足も止まってしまった。急がなければ次の授業が始まってしまうだろうに、何をそんなにまごついているのか。言いたくないなら言わなくて良いよと先を促すと、切原君は「お前、いつも冷たいから」とぽつりとこぼした。

「だから…優しくしてもうちょっと仲良くなれたら良いなって!そう思ったんだよ!」
「…」
「うるせえよ!」
「…何にも言ってないよ」
「顔がうるせえ!」
「酷い」

そして切原君は私の顔を見るなり途端にカッと頬を染めて、ばーかばーかなんて幼稚な文句を吐き出したので、私は照れ屋なんだなあと思うのである。
(心いっぱいの不正義をきみに)




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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140824 )