17_君がただいまを覚えたら


私という人間はつくづく学習をしない奴である。
昼時の購買など混雑するに決まっているし、そもそもまだこちらに来たばかりの頃、購買戦争に乗り遅れて昼飯を食いはぐれたこともあるというのに。昼休みが始まってしばらくしてから平和ボケした足取りで購買までやって来た私が、購買戦争の波に間に合っているはずもなかった。私は人の波に一瞬思考が停止し、それから慌ててその中に割って行こうとしたものの、時すでに遅し。すぐに弾かれて情けなくも床にべしょ、と倒れこんだ。食うか食われるかの世界を、こんな学生時代から経験せねばならぬとは世の中は相変わらずヘビーである。そこにきゅるきゅると空腹の訴えが加わって、いよいよ私が泣きだすぞという場面で、誰かが隣にしゃがみ込んだのだ。「泣くか、ん?泣くか?」随分馬鹿にしたような台詞である。が、その台詞にキレるその前にだ。

「丸井先輩に似た声が聞こえる」
「まあ隣に丸井先輩がいるからな」
「なんですって」

その台詞を言い終わるや否や、私はぴゃっと飛びのいて丸井先輩と距離をとった。丸井先輩ってあの丸井先輩だろうか。それ以外の丸井先輩が思いつかないけれど。丸井先輩といえば、先日の切原君が言った、私が切原君とランデブーみたいなやつが実は気がかりだったりする。「忍者か」と丸井先輩以外の声も聞こえて、顔を上げると、色黒のハゲもいた。「とても見覚えのあるはげ…」彼はたしか桑原先輩と言ったはずだ。というか上履きに書いてあった。

「ていうか、ここに何をしに来たんですか!」
昼飯を買いに来たんだよ
「そうしたらが転んでるのを見つけてな」

桑原先輩に続いて丸井先輩が大丈夫かとおそらく赤くなっているだろう私の額に触れて、撫でた。丸井先輩の手は冷たくて、頃合いに冷えてますねと彼の抱えていたペットボトルを一瞥すると、先輩はへらりとちょっぴり締まりのない顔をして笑って見せて、私は胸のあたりがもぞもぞするような気がした。どうしてかは分からない。
それから、相変わらずバカみたいな量の食料を所持する丸井先輩はどうやら私が負けた購買戦争の猛者の一人らしいことを彼の手元を見て悟った。私は今更後ろの人の波に突っ込んで行く気はしないので、教室に引き返そうかと、しょんぼりしていると桑原先輩はおもむろにパンの一つを差し出した。当然私には不意打ちで、ぽかんとそれを見つめて桑原先輩の意図を探る。瞬時に自分に都合の良い結論を弾き出して、桑原先輩を見つめ返すと、こっちの方が良かったか、と、もう片方の菓子パンを差し出した。
正直とてもありがたかったのだけれど、態度に反して私は結構ですとそれを押し返した。

「いらないのか」
「だって桑原先輩、それじゃ足りないでしょう」

テニス部の練習は言わずもがなでハードであり、そもそも二つで足りるかどうかも怪しい。そんなところに私が一つもらってしまうのは憚れる。

「じゃあ俺のやるよ」
「え、本当ですかすいませんいただきますそれじゃあ」
「待て待て待て」

差し出されたそれを素早く持ち去ろうとする私を、丸井先輩は逃がしはしなかった。懐かないなあ、丸井先輩が口を尖らせた。こういう仕草が似合う男子って超ムカつく。「声に出てるぞー」出ていたらしい。口にはしなかったが、先輩は何で逃げるんだよみたいな顔をしなさる。

「俺の時は遠慮ねえな」
「答えは明快です。所持している量の問題ですね」

それよりもこの間ねだった時はくれなかった癖にどういう風の吹き回しだろう。口には出さずにあからさまに首を捻ると、彼は言わんとすることを悟ったらしい。私が弾かれて床に滑り込んだシーンがあまりにも哀れだったからだそうだ。うぜえ、と思った。そんな丸井あんちくしょう先輩をいさめて、私に詫びを入れる桑原先輩の優しさは海よりも深いと知った。

「つうことで、俺のお気に入りのパンやるよ」
「何がつうことで、なのか分かりませんがドウモ」
「良いってことよ。あ、そんじゃジャッカル先戻っといて。俺こいつと飯食うわ」
「は?」

なんですって。本日2回目のなんですってである。
丸井あんちくしょうのトンデモ発言に私は空いた口が塞がらない、を体感した。桑原先輩は怪訝そうな顔をしながら、だけれども頷いて言う通りに帰ってしまっているあたり、丸井先輩に飼いならされている感が際限ない。桑原先輩の焦げた色がしっかり見えなくなるまで私は丸井先輩がそうした意味に思考を巡らせていて、しかし思いつくどれも判然とはしなかった。

「もしかしなくても三行半でも叩きつけられますねこのパターン」
ねーよ。お前思考ぶっ飛んでんな」
「ていうか三行半って何ですか」
「でしょうねお前が言うはずねえもん」

あからさまに粗雑な言い方で、辞書で調べましょう、と返事をよこすと丸井先輩は突然歩き出した。ついて来いよという意味なのだろうか。どこか飄々としているその背中は私を桑原先輩か何かと勘違いしている風がある。無言で真逆へ歩き出すと、ほどなくして「お前さああああのさあああ!」と大分遠くから聞こえて、何だろう恥ずかしいなあと、丸井先輩の代わりに顔を赤くした。だけど振り返ると丸井先輩も顔が赤かったので二重で羞恥心を煽った。

「誰もいないのにずっと一人で喋って俺ちょっと恥ずかしい人じゃねえか…」
「まじかよ…」

それはちょっとではないよ、と言う元気も出ずに、私は結局丸井先輩に捕まって、屋上へと連れて行かれた。付け加えると、扉は鍵がかかっていたのだけれど、ゆるゆるのノブは丸井先輩が蹴飛ばしてしまえばすんなり開いてしまった。悪知恵の発端は仁王先輩のようで、よく切原君とも入り込んでいるらしい。だから以前切原君は屋上にいたのかと、納得した。

私達は日を避けて貯水タンクの影に腰を下ろすと、丸井先輩がばらばら菓子パンを広げて手近なものからばりばり袋を豪快に開けた。そんな様子を観察しながら、私も先輩のとっておきらしいパンをもぐもぐと咀嚼する。私と丸井先輩の間には一緒にご飯を食べるにしては、という不思議な距離が空いていて、だから私の背中はちょっぴりタンクの日陰からはみ出していた。丸井先輩はそれに気づいたみたいだけれど、知らないふりをしていた。少しだけ胸が痛んだ気がした。

「理由を聞いても良いですか」

丸井先輩からもらったパンは、流石とっておきというだけあって、あっという間になくなってしまいそうだった。つまり喋らなくていい言い訳を失いそうになって、あとひとくちの所で手を止めて、丸井先輩を見やった。丸井先輩はぺろっと口を舐める。んー、とどちらとも取れない返事をした。

「丸井先輩、私に何か話でも」
「俺はいつでもお前に話があるよ」
「…何でしょう」
「でも今日はちげーの。あ、もういっこあげる」

今度は無駄に可愛らしいキャラクターがプリントされた菓子パンが膝の上に飛んでくる。喋りたくないことが見抜かれてしまったのだろうかと、内心どきりとした。だが抜き差しならない私はそれにかじりつくしなかった。

「今日はが俺に何か聞きたそうだなーって思ったんだよ」
「自意識過剰なんじゃないですか」
「その台詞丸井先輩は予想済みだぜ」
「そうですか。だけど残念ながら私が丸井先輩にお話があるという読みはハズレですね」
「ふうん、そうなんだ」

丸井先輩は思いの外あっさりと引き下がったようで、興味なさげに形だけ頷くと、とうとう私から視線を外した。だらんとタンクに背中を預けて空を仰ぐ。
丸井先輩が、なんか、怖い。

…何度も言うけれど、私はこの人に聞きたいことなどない。言い訳がましく自分の中で何度も唱えて、深呼吸して、それから私は再び口を開いた。口の中が丸井先輩の菓子パンのせいで妙に甘ったるい。普段はこの人のペースになんて乗らないのに、完全に足を取られてしまっていた。

「わた、しじゃないですけど」
「うん?」
「私が聞きたいわけじゃないですけどっ…切原君からの質問良いですか」
「…、良いよ」

まともに目を合わせられる気がしなかった。そうだ、こうなることが怖かった。何を考えているのか理解できない。丸井先輩は私に似ているけれど、どこか違うものを持っていた。この人は私を通して何かを見ている。私に何かを求めている、そんな風に見えた。だから、この人といると、自分が自分でなくなるような、そんな気がしてしまうのだ。

「この間、校舎裏に切原君と私がいるの、見ましたよね」
「あー…、昼休み?」
「切原君があれを丸井先輩が勘違いしたんじゃないかと」
「勘違い?」
「場所が場所だったので、例えば、私が切原君に告白した、と、か…」

しっかり話しているつもりなのに、何故か最後の方がしぼんで行くように聞こえなくなった。ペットボトルを弄ぶ先輩は、少しの間をあけてから「あれ違うの」と私を見つめ返した。違うに決まっている。素早く答えて、丸井先輩がまたふうんと頷いた。日に当たる背中はすっかり暑くなって、じわりと汗をかきはじめる。

「なんだ、晴れて赤也に彼女ができたかと」
「丸井先輩は、それで良いんですか」
「それどういう意味」

間髪入れずに先輩の言葉が入る。本当にそれどういう意味、と自分にも問いたくなる質問だった。無意識に出た言葉は大した言い訳も思い当たらずに宙をさまよう。

「…私、みたいなのが、切原君の彼女で」
「あのさ、俺がお前のこと嫌ってるように見えた?」
「…まあ、見えないです」
「だろい?」

オーバーリアクションだった。指を立てて仰々しく語って聞かせた丸井先輩は、笑ったかと思えばすぐに真顔に戻って、それから「ま、好きかと言われるとそれも違うけどな」息を吐くような、気を抜くと聞き逃すようなとても静かな調子で言った。その台詞は酷く私を驚かせた。

「じゃあやっぱり、嫌いなんじゃないですか」
「世の中にあんのは好きと嫌いだけじゃねえだろ」
「…例えば?」
「お前、自分の右手好きか?」
「は?」

丸井先輩の右手がひらひら、と目の前をちらついた。意味不明な質問だ。好きか嫌いでいえばきっと好きに分類されるのだろうけど、それが正しい答えでないことは知っている。つまりそういうことだ、丸井先輩は言った。

「好きでも嫌いでもないけど、ないと困る、だろい」
「はあ、」
「そんな感じ」
「は?」
は、俺にとってそんな感じ」

ちょっと違うけど。それが一番近い。
先輩の言いたいことは分かったけれど、それでも自分の立ち位置は分からなかった。途端にもやもやと霧がかかったようにすっきりしない気分になる。喉に何かが競り上がってくるような苦しさに襲われて、どそれをここで言うのはとても間違っていると思った。
好きなんて言葉を期待していたわけではない。でも、あんな言葉を待ってたわけでもなかった。

「…そう、ですか」

私は一体丸井先輩に、何と答えてもらいたかったんだろう。


(君がただいまを覚えたら)(また何かかわったかもね)




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丸井先輩の一番の失態。
( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140824 )