08_せっかく氷った心臓なのに |
白いカーテンが揺れて、窓の外からは夕焼けの朱色が差し込む。普段あまり気になることはない病院独特の薬品のひしめき合っているような、たくさんの死が蠢いているような、そんな匂いがやけに鼻について、その時ふと、私はこの感覚に覚えがあることに気づいた。ああ、これはあの日の夢だと。 「はずるいよ」 彼女は窓のサッシに乗って、私を見つめていた。目はどういうわけか逸らせない。私は夢の中でも解放されないのだった。 「自分は死にたがるくせに、私には生きろと言うのね」 こちらの世界に来る前の私の唯一の、本物の友人である彼女は、病に侵されていた。 ギランバレー症候群にとても酷似した病気、と言うこと以外は何も聞かされていなかったのだけれど、その病気は全身性の病気で、体の運動機能が衰えて行くのだと言う。酷い時は自分で呼吸をすることさえ難しくなるそうだ。 彼女は、もう治らないと言われていた。 「元気なが死にたいのにさ、私が頑張って生きられるわけがないでしょう?」 私はこの時からすでに死にたがりだった。人混みの中で特に目標もなく生きていることはどんなに無意味なことだろう。誰かに流されて、面白くないものに愛想笑いを返して、くだらない人間関係に神経をすり減らして。全て無駄だと思っていた。 …ただ、本当に死にこだわっていたかと問われれば、この時の私は実はそうではなかったのだ。 疲れたはずの友人関係も、無意味だと信じたこの命も、どれもこれも捨てる勇気なんて微塵もなかったのだ。意気地なしな心で世界につなぎとめられたまま、惰性で生きていた私は本当に命の無駄遣いをしていた。 そんな私は彼女が羨ましかった。 自分にも本当の悲劇が欲しかったのである。私がどんなに世界に疲れ果てたって、自分の存在の無意味さに気づいたからってきっと誰も哀れんでくれない。 可哀想な自分に酔いしれていた私はただ傷の舐め合いがしたくて、彼女のそばにいた。彼女は初めこそ気丈で、むしろ私の方が病人のような態度をしていたけれど、きっとそれは私の大きな過ちだ。死んだ方がきっと楽だなんて、そんな風に言うべきではなかった。彼女を死に追いやったのは私だ。 「はまだ全部できるのに」 「…」 「泳いだり走ったり、自由に息したり、何も不安になる必要もないのに。でもはそんな自分いらないんでしょ」 なら私に頂戴よ。 彼女の言葉に何も返せなかった。 死ぬと言うことがどういうことなのかこの時まで私は分かっていなかったのだ。 本当に可哀想だったのはやはり彼女だった。 「ずっとずっと何かに繋がれて、薬入れられて。こんなの生きてるって言わない」 「…」 「死ぬことが人間のゴールだとして、死を通して人間が完成するのだとしても」 彼女が窓のサッシから手を離す。 その瞬間まで、彼女の目は生にしがみついているように見えた。 「私は、生きたかった」 慌てて伸ばした私の手は空を切る。最後に見た落ちる彼女の瞳は私にお前も死んでしまえと言っていた。 彼女は私をこの世に繋ぎ止める意気地なしの足枷を外して行ってしまった。彼女こそ、――こそ生きるべき人間で、私こそ死ぬべき人間だったのだ。 なのに彼女は死んでしまった。 ならば私も死ななければならない。 「はあ?丸井先輩の教室?」 昨日は結局私は丸井先輩に家まで送ってもらうことになった。彼にどうしても家を知られたくなかったので、それを考慮すると私が彼の家まで着いて行って、最終的に傘を借りるという手段を取る他になかったのだ。…と、そこまでは良いとして、朝学校へ来て気づいたのだが、私は丸井先輩のクラスを知らない。 「し、ってるかなあ、と。同じ部活だし」 「知ってるけど、何?丸井先輩になんか用?」 用があるからクラスを知りたいに決まっている。それ以外の理由で私があんな奴のクラスなんざ。 私は切原君に、傘のことを話すとやけに冷たい声色でふうん、と頷いた。「3-Bだぞ」「え?」「丸井先輩」「ああ、」ホームルームが始まるにはまだ時間があるので、今行ってしまおうか。他の休み時間だと移動教室やなんやらで会えなくなるかもしれないし。 切原君にお礼を行って、傘を届けに出ようとすると、その前に彼に引きとめられた。 「あ、丸井先輩のクラスには仁王先輩もいるから」 「…はあ、」 「くれぐれも、気をつけろよ」 切原君もくれぐれも、なんて言葉を使えるんだなあと感心しながら、声にすごく力が入っていたことを少々怪訝に思った。確か仁王先輩といえば、絆創膏をくれたちょっと優しい、かっこはてな、な絆創膏先輩である。 一度しか話していないが食えない先輩だということは分かった。食えない絆創膏先輩だ。 私は切原君に釣られて、「分かった見つけたら傘で乱れ突きしてくるね」なんてかなり力強く頷いて、3-B組へ向かうことにした。後ろで殺されるぞと言われた。ならやめよう。 さて、意気揚々でもないが、力強く出て来た割に流石に三年生の階に足を踏み入れるのはとても緊張するものだ。 比較的手前にあるB組を覗くと、そこにはあの目立つ赤髪も銀髪もおらず、なんでやねんと地団駄を踏んでいると、急に後ろから首へ腕を回された。 「おう、じゃん。おはよ」 「ぐえ、丸井先輩ぐえええおええええ」 「いくら苦しいからってお前な」 後ろから突然誰だと思えば赤い髪が見えて丸井先輩だと理解する。悪い悪いと頭を撫でられて、なんだこの人今日はスキンシップ過剰なんじゃないかと、私は一歩だけ後退した。先輩はそんな私も気にせずにどうしたんだ?と首を傾げる。ああ、そうだったそうだった。傘を返しに来たんです。 「傘?…あ、ああ傘な。うん」 「あれ、借りたのこれでしたよね」 間違えてお父さんのかゆずるのでも持って来てしまったか、とは思ったが、丸井先輩は大丈夫大丈夫とそれを受け取った。まさか私が返しに来るとは思わなかったのだろうか。一応借りたらきちんと直接返す主義なのだが。…それ程自分が私に嫌われているなんて思っているとか? なんだか今日の丸井先輩に違和感を覚えて、私は彼の腕を捕まえた。 「あの」 「ん?」 「勘違いしてるみたいですけど、私はあなたが嫌いなんじゃなくて苦手なんです」 「…」 「確かに嫌いとかどこかで言ったような気もしますが、貴方が悲しそうな顔をすると何故か良心が痛むので被害妄想はやめてくださいうざいです」 「いやお前それ絶対俺のこと嫌いだろ」 何と無くそんなような台詞が返るとは予想していたが、私が聞いたのは目の前の丸井先輩の声ではない。何故か真後ろから聞こえて、私は慌てて振り返ると、そこには菓子パンを抱えた丸井先輩がいた。は?いやいやいや。あんた誰。 「誰って丸井先輩に決まってんだろい」 「いやでも丸井先輩なら、」 「お前が今まで話してたのは仁王だよ仁王」 「…貴方仁王先輩!?」 「おーそこまで驚いてくれるとやり甲斐があるもんじゃあ」 「まったく、勝手に変装するなよな」 「流石食えない絆創膏先輩」 「絆創膏はもともと食えんぞ」 「知ってるよ」 仁王先輩は赤いウィッグを外すと、下から銀髪がさらりと現れて、うわあ仁王先輩だと思った。丸井先輩より百倍顔立ちが整っているの「おい」冗談です。 「それにしても面白いもん聞かせてもらったぜよ」 「は?」 「ブン太が絆創膏ちゃんとこんなに仲がええとは思わんかった」 「割と本気で仲良くないです」 「ブン太これツンデレ?」 「まだツンしかもらったことないけどな」 そんなやり取りをしているそばで、私は仁王先輩の手にある傘を思い出した。彼からそれを取り上げて本物の丸井先輩にそれを押し付ける。昨日はありがとうございました。 彼は早速パンの一つを頬張りながらこくんと頷いてそれを腕に引っ掛けた。なんだこの人ハムスターか。ハムスターの生まれ変わりだな。 「ていうか丸井先輩朝食いはぐれたんですか。そんなに買って」 「いや。これは朝のおやつ」 「朝のおやつとかバカなんですか?」 「…ブン太には辛辣じゃなあ」 「時間的におかしいですよね」 「お菓子なだけにかー」 「ハッ黙れよ」 「一応俺お前の先輩だからな?」 そういえば丸井先輩は大食らいだと切原君から聞いたことがあった。が、これは酷い。丸井先輩が抱えている量で私は3日は過ごせる。というかそういえば私こそ朝飯を食いはぐれたんだった。今朝あんな夢を見た後だから、ご飯も食べる気がしなくて、ふらふらのまま家を出たんだ。 「丸井先輩の健康を考えて一つ買い取りましょうか」 「ノーサンキュー」 「先輩の健康とか思ってもないこと言ってすいません。本当のこと言うと実は私朝食べてないんです」 「お前が俺の心配するはずないもんな知ってたよ」 「お恵みを」 「んー…まあ、そっかそりゃ可哀想だけど…ううん…俺もあんまり食い物持ってねえし」 「それ本気で言ってますか。その手の中のパンで良いんですよ」 「ブン太は本気で言っとるぜよ」 「マジかよ」 仕方ない。格安でパンを買い取ろうとしたのに。やはり購買に行くしかないか。私は頭をおさえてじゃあもう良いですとおぼつかない足取りで歩き出した。「あー、えーと、うーん、ちょい待ち!」しかしものすごく唸った丸井先輩が私を引き止めた。 「しょうがねえから俺のとっておきのガムを一枚やる」 とても惜しそうな顔をしているので、もしかしたら彼にとってパンよりも大事な食料なのかもしれない。そう言えばいつもガムを食べているし。受け取った包みにはグリーンアップルとあって、この人がいつも漂わせている甘い匂いはこれかと納得した。 「貴方って良い人なのかそうでないのかよく分かりませんね」 「考えるまでもなく良い人だろい?」 「別に聞いてませんから」 傘が離れて手持ち無沙汰になった手には甘ったるい匂いのガムが握られて、私はそれをポケットに突っ込む。昨日までカッターナイフが隠れていた私のその小さな世界が丸井先輩に壊されたような気になる。 なんだか途端に体裁が悪くなった気がして、私は踵を返すと、丸井先輩が私の名前を呼んだ。 「またな」 どうしてこの人は私と繋がろうとするのだろう。どんなに突き放してもへらへらして、やっぱりそこにいるのだ。 私はいつか彼に対するこの言動に後悔する日が来るような気がして、それでも子供の反抗期みたいに苛立ちに抗えずに、やはり彼を突き放すしかできない。 「またはありません」 丸井先輩はどこか悲しそうに笑っていた。 (せっかく氷った心臓なのに)(溶かしていかないで) return index next ( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140508 ) |