07_みんな残らず不幸なのさ


私達が、というより主に私が学級日誌を書き終える頃には雨は勢いを増し、これから自宅へ帰る私を憂鬱にさせた。切原君も切原君で、お前が早く書かないから、と雨を私のせいにしていたが、私は彼にもう行って良いと言ってやっていたはずなのだから、それは理不尽というやつで、だいたい彼は部活があるのだから、どちらにせよ雨脚が弱いうちには帰れないだろうに。
切原君は、日誌が書き終わるなり、私からそれを取り上げて部活へ行く途中で自分が出して行くからと教室を飛び出して行こうとした。彼の背中が見えなくなる直前、最後に私を振り返る。「、また明日な」「うん、ばいばい」小さく手を振ると、彼は何と無く照れたように笑って、廊下を走って行った。
さて、切原君も無事に部活へ行けたわけだし、私もこれ以上雨が酷くならないうちに帰らねば。そう思って昇降口の傘立てから自分の傘を探していたわけだが、どうにも私の傘が見つからない。

「あー…マジかー」

以前にも何度かこういう経験はあったが、正直困った以外の言葉が出ない。そう言えば、生徒会とかで、持ち主不明になった傘の貸し出しをやっていたような気がするが。どちらにせよこんな雨では帰れやしないし、物は試しと私は生徒会室へ方向転換したわけだが、その時丁度目に入った赤色の髪に、頭で考えるよりも早く、直感的に下駄箱の影に隠れたのだった。

「…うわあ、丸井先輩だあうわあ」

部活のはずなのに、どうしてここにいるのだろうという疑問を頭の片隅に置きながらも、とりあえずは早く帰ってくれと願うばかりだ。どうして私が彼を毛嫌いするのかと問われると、答えには困ってしまうのだが、強いていうのならば、本能的に丸井先輩は良くないとそう感じているのである。どう良くないかは、まあ、分からないのだけれど。
なんてそんなことを考えているうちにすっかり丸井先輩の姿は消えていた。

「行ったかな、まったくいきなり現れんじゃ、」
「何隠れてんだよ」
「ぴゃあああああ」
「うるさ」

帰ったと思っていた丸井先輩はいつの間にかわたしの後ろにいのだった。傘の柄で私の頭をがすがすやりながらおいコラと、どう考えても私に喧嘩を売っている。どうやらあからさまに避けられたのがお気に召さないようだ。構うのがめんどうなので、強行突破も考えたのだけれど、傘の柄が私の襟首を捉えて離さなかったので、おとなしく丸井先輩に向き直ることにする。

「部活じゃないんですか。切原君に筋トレって聞きましたけど」
「あーそうだったんだけど、こんな雨だからさ、他の部活も体育館に集まって来てさ」

どこの部が体育館を使うかのじゃんけんでテニス部は見事負けたらしい。おめでとうございます。切原君が少しかわいそうに思えたけれど、まあいいか。

「それではさようなら」
「待て待て待て」
「もう何ですか」
「俺、に用があったの」
「分かります、ロクな用事じゃないですよね」
「良い加減怒るぞ」
「それは困るので早いところ用件を」
「…ったく。お前さ、今あのカッター持ってる?」
「は?…持ってますけど」

なんと言うか、丸井先輩と私のカッターと言えばあまり良い思い出がないのだけれど。一体何を考えているのだろうと、身構えていると、彼はなんとそれを貸してくれなんて言ったのだった。…何で。

「ちょっと使うだけだって。すぐ返す」
「答えになってないです」
「堅いやつだなあ」
「…まさか先輩私の前で自殺なんて」
しねーよ

早よ貸せ、なんて結局私はポケットに忍ばせていたそれは取られてしまい、実際のところ本当に何に使うとかと思えば「はい没収」と彼はそれを自分の鞄へしまい込んだのである。一瞬、状況についていけなかった、私はしばらく丸井先輩を見つめていたが、すぐにこれがどういう意味かを理解した。

「…返してください」
「やだ」

なるほどカッターを私から遠ざけるのが目的か。彼の目はやけに真剣で、ああこの人は意地でも私を死なせないつもりなんだなと、そう感じた。どうにも取り返せる気がしない。

「…人の持ち物奪ってナニするつもりですか」
だからしねーよ!どこで覚えて来たのそんな言葉!ていうかこんなもん使ったら危ねえわ

だいたい、カッターを取った所で死ぬ方法は他にいくらでもある。それなのにどうしてこんな無意味なことをするのか。ぼそりと呟くと、丸井先輩は首を捻って唸って見せた。

「そうなんだけどさ、これをお前から引き離せばなんか大丈夫なような気がして」

だから預からせてな、とさらりと言った丸井先輩にはカッターを取られたことの腹立たしさとか、焦りとか、そんなものを微塵も抱かなかった自分に、むしろ気味が悪く思った。あのカッターは、『この私』と同じくこの世界に存在するはずのない唯一のもので、あれは私の世界と私を繋ぎとめているような、そんなもののように感じていたはずなのに。あれがないときっと私は『死ねない』。丸井先輩は、もしかしてそれを分かっているんじゃないかと、ほんの一瞬疑いかけたけれど、まさか、そんなはずは。
とにかく、今彼からカッターを取り返すのは不可能であろう。隙を見て奪うしかない。

「じゃあもういいです。カッターは諦めますさよなら」
「ちょっと待った」

まだ何かあるのか。私はだらだらと顔だけ丸井先輩の方へ向ければ、彼は私に傘を差し出していた。「、その様子だと傘ないんだろい?」どこまで状況が見える人なんだこの人。

「カッターのお詫びに、これ貸してやる」
「何ですか、くれるんですか」
「いいぜ。俺走って帰るから」
「は?」
「お前、俺と帰るの嫌だろ?」

その台詞に、何故か私が傷ついた。




だからと言って、これはやはり失敗だったかなあと隣を歩く丸井先輩を一瞥してから、数分前の自分を恨めしく思う。今まで散々丸井先輩に冷たい態度を取って来たのだから、丸井先輩の言葉はある意味自業自得の反応なのに、果てしなく罪悪感に駆られた私は「嫌ではないです」と咄嗟にふざけたことを抜かした。
そう言うわけで、あからさまに気を良くした丸井先輩は「かーわいいとこあるじゃんよしよしじゃあ丸井先輩と帰ろうぜ」なんてうざいくらい絡んで来た。うん、ウザかったです、まる。
まあ濡れなかったんだからもういいや。話を聞くと丸井先輩と私の家は同じ駅らしいので、運が良いのか悪いのか。
この人に限って、特に話したいこともない私は、だんまりを決め込んでいるのだが、さっきから丸井先輩が最近できたスイーツの店がなんだ、バイキングがどうだと一人で喋ってるので問題はないだろう。

「おい、俺の話聞いてんの?」
「ああ、すいません聞いてないです」
「正直に答えるんじゃない」
「…あんまり、面白い話じゃなかったもので」
申し訳なさそうに言うなよ

私の態度に傘から追い出すぞと脅されはしたものの、どうせこのお人好し、そんなことできないんだぜ。
やれるもんならやってみろというスタンスでいたら、やはり彼は不服そうに口を真一文字に結んだだけで、私を追い出しはしなかった。
それからは丸井先輩は途端に無口になった。私がつまらないって本当のことを言ったからだろうか。思いのほか繊細で爆笑ものである。しかしまあ気まずい気まずい。ここは後輩が先輩を立ててやるべきなのか。何か話題をと思った私は、ふと目に入った大荒れの海を指差して言った。

「丸井先輩知ってますか」
「ん、何が?」

丸井先輩の声は思いのほか明るかった。なんだよ。怒ってないんかい鳥頭!

「…人魚は繁殖期になると嵐を呼んで、巻き込まれた漁師達を食べるんだそうですよ。まあ伝説ですけど」
「…人魚?」
「かっこいいなあって、思います」
「…ふうん」
「余計な理由なんて必要なくて、生きるために存在するって感じがします。嵐まで呼べるとか生命力爆発って感じですね」
「…」
「私人魚みたいになりたいです」
「…へえ、なりたいんだ」

反応薄、と思った。なんか私恥ずかしいじゃないですか。
「死ぬ時は泡になるし、エコだし」「そこかよ、つうかそれは童話だろ」というやりとりをしてから、丸井先輩は嫌に重いため息をついた。おかしいな、この話をすると皆私をメルヘンかとか言って笑ったのに。

「面白くないですか」
「面白くないです」
「それは、…大変失礼しました」
「…つうかお前がさ、今、このタイミングで、なんでこんな話、」
「は…?」

丸井先輩の言っている意味がまったく分からなかったのだけれど、彼の目はまるで何かを確信したようにゆるぎなかった。私の中に、何かを見ているように感じた。しかしそれを問う前に、この話は先輩の「別になんでもない」で流れてしまったのだけれど。まるで何も聞くなとそう言われているような、どこかそんな威圧感がある。
視線のやり場に困って私はじわじわと水が染み込むローファーへと目を落とすことにした。雨で薄黒く光っているアスファルトにざわざわと何か嫌なものを感じていると、丸井先輩はわざとらしい明るい声で突然私を呼んだ。

「そういや、テニス部の部長って見たことあるか?」
「…ないです」

そう言えば、いつもいたのは部長ではなく、『真田』副部長とかいう強面の人だった。

「あ、あそこに見えるの金井総合病院て言うんだけど、あそこ、俺らの部長が入院してんだよ」

その名前と、指された先にある病院へ目を移した瞬間、私はざわめきの正体を知る。
その病院は、あの子が入院していた病院で――

はずるいよ」

その瞬間、もういるはずのないあの子の声が、聞こえた気がした。



(みんな残らず不幸なのさ)(私も、彼女も、そして彼も)




return index next

( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140507 )