06_たくさんのことばがひとつだったら


その日は朝から空はどんよりと重たい灰色の雲に覆われていた。今にも降りそうだと憂鬱な気分を煽る天候はなんとか午前中いっぱいは雨を持ちこたえたものの、午後に突入するなり、雨は矢のように地面へと降り注いでいた。

「雨だと気が滅入るよなあ…」

雨音だけが占めていた放課後の教室にそんな切原君の声が割り込んだ。手元の日誌にシャーペンを滑らせていた私は、窓の外へ視線を移して、それから向かい合うように私の机に自分のそれをくつけて頬杖をついている切原君を見る。彼はくるんとした前髪を抑えながら物憂げに息を零していた。

「天然パーマが本領発揮するから?」
「お前さあ、喧嘩売ってんの?」
「ごめん冗談です」

本当のことでも口にしちゃいけないことはあるものだとこの間彼に文句をつけたのはこの私だ。いけないいけない。まさかもう殴ることはないと思うけれど、手を上げられなかったことに内心ホッとして、私は再び日誌へと目を落とした。
さて、何故私達がこうして日直の如く日誌を書かせられているかという話をしよう。日直ならばこの間やっていたではないか、とそんな言葉をかけられそうなものだが、確かにそれは間違いではない。本来ならば、私達に再び日直が回ってくるのははるか先の話だったのだ。しかしなんとあの日直の次の日、我らの担任は私達に殴り合いをした罰として、一週間、日直を続けてもらう、と、こんなことを言い渡したのだ。つまり週直中というやつである。
殴り合いをしたことに大したお咎めもなく、親にも連絡が言っていないことに喜んだのもつかの間のことだった。最悪である。

「だりー、腹減ったー」
「先輩達に何か恵んでもらいなよ。このあと部活でしょう」

雨降ってるけど。とは心の中で付け加えて、私は彼の文句の垂れ流しが止まることを祈った。こうも目の前でぶつぶつ言われては正直モチベーションが下がる。
しかし彼の口は閉じることなく、少し前のめりになった切原君は、「あのなあ、」と困ったように言ったのだ。

「たとえ何か持ってたとしても、俺に回って来るわけねえだろ」
「可愛がられてないってやっぱり損だね」
ちっげえよ。お前いちいちムカつくんだけど
「えー?」

私がシャーペンを放り出して、首をひねれば、彼はその顔ムカつくと私の頬を全力でつねりあげた。いだだだだだだ。なんで君はいちいちそう暴力的なのかね!「食い物は全部丸井先輩に流れるんだよ」と指を立てて偉そうに語って見せる切原君に私は思わず肩をすくめた。

「あんな人そんな権力がありそうにはどうにも見えないけどね」
「権力っつうか、単にあの人大食いで食い意地が張ってて皆の食い物根こそぎ奪ってんの」
「やっぱり存在自体が傍迷惑な人だったか。私も気をつけよう」
「お前って丸井先輩に辛辣だな」

そうだったところで、何があるわけでもないだろう。まあね、と私はおかしな返答をした。

「あ、つうか、手が止まってんぞ」
「へいへい」

投げ出していたシャーペンを切原君に差し出され、私はしぶしぶそれを受け取った。学級日誌って、感想を書く欄が多くて嫌いなんだよな。切原君も感想を考えるのを手伝ってくれればいいのに。そう口を尖らせるも、彼の腑抜けた様子を見るにそれは期待できそうに無いので私は黙ることにした。

「あーもーマジで早く」
「…文句ばっかりだね君は。切原君は文句が言える程何もしてないじゃないか」
「ああん?がサボらないかきちんと見張ってるだろーが」
「それってずるくない」
「ずるくない」

それに黒板も消したしゴミも出したからな、と彼は鼻を鳴らして付け加えた。まあ確かにそう考えるとここは私が堪えるところのような気もしてきたぞ。そもそも日誌は私がやると言い出したこと(らしい)だし、腹を立てて仕事を放置をした私もいけないのだけれど。
別の私とは言え自業自得かとうなだれていると、そんな私をじっと見つめていた切原君が、突然シャーペンを走らせる私の手を掴んだ。

「どうしたの」
「やっぱりお前って俺のこと怖いわけ?」
「話が見えないんだがどうしていきなりそう思ったの」
「だってさ、」

切原君はそこで言葉を切った。

「お前、実際は日誌自分でやるなんて言ってねえじゃん」
「は」
「押し付けたくて俺がそう言ったのお前も分かってんだろ」

彼の至極真面目な顔に、私の思考はいったんフリーズをする。ちょっと待った。じゃあ何?切原君は日誌を書きたくなくて、普段弱気な私に押し付けるためにお前が言ったんだろ的な理不尽な押し付けを行って、てっきりこの世界の自分が言ったもんだと勘違いしてた私はそういう流れで仕事を引き受けていたわけ。

「君って本当に…っ、」
「あ?」

めんどくさいことしてくれるなああああ。
思わず足でも蹴飛ばしてやりたくなったがここは我慢だ。こちとらこの世界の私の都合とかに気を張って生きてるって言うのに。

「も、もちろん切原君が押し付けたのは分かってたけど、君がそういう設定が良さそうだから付き合ってあげたんだよ、うん。だから怖いとか、そういうんじゃなくてね。切原君なんてミジンコ程も怖くないよ」

我ながら苦しい言い訳だと思った。設定ってなんだよ、と言うツッコミをもれなくいただいたが、ここはスルーさせていただこう。
というかこのまま彼といたら墓穴を掘りそうで怖いな。馬鹿だと思ってあまり注意していなかった。
私は彼の机を押し返すようにして、切原君を部活に行くように促すことにした。

「日直だるいならもう部活行って良いよ。これあと少しだし」
「急にどうした」
「ほら、行かないとなんとか副部長に叱られるよ」
「真田副部長な。いい加減覚えろよ」

そう言いながらも、やっぱり切原君は席から動こうとはしなかった。机に伏せて完全にだらけモードである。なんなんだ。文句を言うくらい嫌ならさっさと行けばいいものを、何が彼をここに引き止めてる。
切原君は雨だからきっと筋トレだろうし、遅れても問題ないなんて、何処と無く眠たげに言った。「それとさ、」

「うん?」
「んー…殴ったお詫び、みたいな」

ごにょごにょ、とそれは外からの雨の音にさえもかき消されそうなくらい小さなものだった。なんとかそれを聞き取ると、私はシャーペンをくるくると回しながらふうんと頷く。丸井先輩曰く私にも非があるそうだし、私は殴られたことなんてもうすっかり気にしていないのだけれど、切原君は私の想像をはるかに超えた繊細ボーイらしい。殴ったことなんて、傷跡もないし、もう終わったことなのだからそんなに気にすることでもないだろうに。
しかし私はどうにも「気にしなくてもいいのに」という一言を言うことができなかった。

「これだけでチャラになると思われてるなんて私のほっぺたはだいぶ安く見積もられたもん、ふぐ、」
「…可愛げねえなお前」

切原君は伏せていた顔を少しだけあげて、恨めしげなその目で私を捉えると、今度は私の鼻を抓りあげた。
だから痛いってば。
だいたいね、何もやらない人が残ってたところで私にはなんのメリットもないのですよ。分かってますか。

「この俺と二人なのに」
「自分の価値を高く評価しすぎやしないかね」
「噂のエースなんだけど俺」
「そんなこと言うなら私だって帰宅部のエースだ」

大真面目に言ったら頭突きをされた。
私だってきっと君のようにエースだと、今に噂されるのに。多分。
なんて、私はそんなところまで考えて、その可能性の低さに我のことながら苦笑してしまった。


(たくさんのことばがひとつだったら)(もっと世界は簡単だったかもしれないね)




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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140429 )