03_あとには不器用な傷痕だけが
「苗字が同じだなあとは思ってたけど、お前、ゆずると姉弟だったんだな」

すっかりびしょ濡れになった制服を窓枠に引っ掛けて、ジャージ姿のまま机に伏せていた私にそんな声を掛けたのは切原君だった。どうやら朝練が終わったようだ。ホームルームが始まるギリギリの時間までやっているとはご苦労なことである。私は微かに顔を上げて改めましておはようと声を上げる。すると彼は何故か面食らったような顔をしてから「…おはよう」と言った。

「私もびっくりだよ」
「え?」
「私にあんな弟がいるなんて」
「ああ、」

妙に納得したように頷いてから、「の弟にしてはできが良いもんな」となんの悪びれもなく言ってのける。「切原君て、失礼だよね」私はそういう意味で言ったわけではない。まあまさか昨日まで妹だったはずが弟になってるんだもの、なんて言えるはずもないが。

「だって本当のことじゃん」
「切原君は本当のことならなんでも言っていいと思ってるんだね」

冗談で言ったのだろうが苛立ったことは確かだったので、頬杖をついて彼から視線を外しながら言うと、彼はもう何も言わなかった。それから私と切原君は一切口を聞かなかったのだが、別にこれと言って気まずさというものはなかった。切原君からもそういったものは感じなかったし、もしかしたら、普段から私達の関係はこんなものなのかもしれない。私ははたからみたら友人がいないように見えるそうだから、きっと元から無口だったのだろう。
その方がこの世界で墓穴は掘らないし、都合が良いから今はその設定に従わせてもらう。
そうして訪れた昼休みにも、もちろん一緒にご飯を食べる友人がいないので、購買でパンでも買って屋上にでも行こうかと席から立ち上がると、その時ふいに背中に何かを突きつけられた。

「うん?」
「学級日誌、の役割だろ」

そのまま私は後ろ手で日誌を受け取ると、それをぱらぱら開いてはあ、と頷く。どうやら今日は私と切原君の日直らしい。

「ぼさっとしないでさっさと書けよ。昨日、日誌は全部自分が書くって言い出したのお前だろ」

そんなことを言った覚えはもちろんないのだが、恐らく私ではなく、本来この世界にいるべきはずの私が約束したことなのだろう。面倒だが、私が言ったことなら仕方あるまい。

「そー…うだったね。はいはい任せて」
「…」
「何か?」
「別に」

そう言う割りには切原君はすこぶる機嫌が悪いようだった。何か気に障るようなことでも言ったのだろうか。まさか私が日誌を彼に持たせっぱなしで書こうとしなかったからだろうか。購買は人気のパンなんかは早く行かねば売り切れてしまうので、今すぐにでも買いに行きたかったのだが、こうなるとそうもいくまい。
私はしぶしぶ席に着き直すと、これまでの授業の内容を書き出し始めた。

「んー、数学、古典で英語っと。…授業の感想…感想?…」

とりあえず苦痛なので早く元の世界に帰りたいです。とはまさか書けないので、元の世界に、という部分を省いて書き上げてしまうと、それを隣でぼんやり見ていたらしい切原君が「お前って嫌味な奴だよな」と私を小馬鹿にするように貶しにかかった。この人はさっきからやけに好戦的だな。

「…何が気に障ったかは知らないけど、君はいちいちムカつくこと全て口に出さないと気が済まないのかな」
「…」
「ここまで言われたら私もお返しに君を貶す権利はあるよね。言わせてもらうと、私からしたら君の髪型は爆笑ものですよ。海藻がお友達ですか」

私達のやり取りをちゃっかり聞いていたのか、さん!とクラスの誰かが叫んだのが聞こえた。その切迫した声と、切原君の怒りっぷりに、私は地雷を踏んだのだと悟った。正直切原君の表情は怖かったが、後悔はしていない。どんな切り返しでも文句でも受けて立つ、と構えた私に飛んで来たのは罵倒なんぞではなく、彼の拳だった。頬を思い切り殴られて、私はその勢いで床にべしゃりと倒れこむ。切れた口は血の味がした。周りからは悲鳴があがる。

「…いたい」

痛いけどムカつく。のそりと立ち上がった私の頭にも完全に血が上っていた。だから彼の頬を力いっぱい殴り返した。私の力じゃ彼にはそこまで痛くはないのかもしれないが、これでおあいこだ。反撃が来る前に私は教室を飛び出した。今日は厄日だと思った。もう日誌なんて書いてやるものか。

人間とは情けないもので腹が立つと腹も減る。私は怒りに任せて購買に直行すると、案の定そこには買いたいパンがまるで残っていなかった。仕方なくこれがラストだとばかりに取り残されたそれに手を伸ばしたのだが、それは私の手に収まる前に忽然と姿を消した。

「おっとすまん」

声の方へと振り返ると、そこには銀髪の男が、台詞の割りにまるで悪びれた様子もなくパンを片手にそこに立っていた。こいつは確か今朝テニス部で眼鏡紳士と一緒にいたのを遠目に見かけた気がする。
私が不躾なことを承知でジロジロとその人を眺めていると、

「お前さん、どこかで会ったことあるかのう」

と首を傾げられた。
直接彼と接したわけではないから、分からないのは無理もない。曖昧な記憶に私が残っていたか、はたまた私の態度からそう推測したのか。どちらにせよどうでも良い。

「気のせいじゃないですか?」
「そうか。ところでお前さん、口から血が出とるよ」
「これはイチゴジャムです」
「ワイルドなイチゴジャムじゃあ。ウチのブン太にも見習わせたいワイルドさぜよ」
「げ」

早速嫌な名前を聞いてしまった。どういう流れで丸井先輩が出て来たかは知らないが、今日はテニス部に縁のある日である。嬉しくないが。
銀髪のリクエストに答えて私はワイルドに血を拭ってやると、彼は笑っていた。楽しそうで何よりだ。

「リクエストに答えたのでそのパン譲ってください」
「それは出来ん相談じゃ」
「では相談じゃなくて命令します。そのパン譲れ」
「あ、頭にゴミついとるよ」
「え、うそ」
「うっそーん」
「この野郎」

そんなふざけた言葉を吐いた銀髪は私が髪を気にしているうちにサッとその場から立ち去ってしまった。やられた、と思いつつ、そのまま髪をいじっていると、指に何かが引っかかって、それが廊下にひらひらと落ちた。どうやらゴミがついているというのは本当らしい。しかしなんだろうと拾い上げたそれは、正確にはゴミではなく、

「絆創膏だ」

しかも小学生が好きそうなキャラクターががっつりプリントされているものだ。正直恥ずかしくてこんなもの貼る気はしなかったが、あの人なりの優しさなのかなあなんて思ったら無下には出来なくて、とりあえず口の横に貼らせてもらうことにした。

ただ馬鹿にされているような気もするけど。



(貴方の後輩のせいですよって、言えば良かった)




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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140408 )