02_出逢わずに生きられたはずの人
この世界は私の知らない世界だった。一見同じように見えて、何かが違う。
あの後、下駄箱を確認したところ、案の定そこには私の名前が存在し、クラスメイトの名前もほとんどが私の知るそれだった。ただ一人、切原赤也という名前以外は。おそらく、切原赤也とは教室に残っていた彼のことだろう。余裕がなかったとは言え、壇ノ浦君なんてふざけた名前を呼んでしまったことを少々悔いた。
まあそんなことは今は瑣末な事だ。取り上げるべき問題はまさに目の前にある。
どれほど自分の知る世界と相似しているかを探りに、私は街へ繰り出していたわけだ。しかしすっかり日も暮れて、あたりも暗いので、とりあえずは自分の家へと帰ることにした。こんな意味のわからない事態に巻き込まれたものの、しばらく経つと私の頭はだいぶ冷静で、この状況を「不思議なこともあるもんだ」くらいに受け止めていた。もう死ぬ覚悟をしていたわけであるし、今更自分がどうなろうと関係ないと思っていたからかもしれない。
しかしこの状況はいかがなものか。

「家がないとか」

家々が並ぶその間に、空き地としてぽっかり空いたその奇妙なスペースを、私はぼんやり眺めてそう零した。この場所は私の家が建っていた場所のはずだ。どこかのアニメの土管が並んだ空き地さながらの寂れっぷりである。文字通り、正しく家がなかった。流石にこれはどうしたら良いのか判断しかねる。神に死ねとでも言われているのだろうか。精神的な疲れが一気に私を襲い、私は道路の真ん中にうつ伏せに倒れこんだ。

「…まじヘビーだな、これ」

殺したいなら殺せば良いけれど、だったら一番初めに自殺しようとした時に殺させなかったのだろう。自殺をするような人間は苦しんで死んでしまえということか。

「…殺すならさっさとしてくれ」
「…何してんの?」

ひやりと冷たいアスファルトに伏せていた私がため息をついた時、ふとそんな声が頭上から降った。ものぐさに顔だけ上げて相手を確認すると、そこには何処と無く見たことのある少年が私を見下ろしていた。「…どちら様でしょうか」私のことは放っておいてくれて構わないのよという意味も込めて私は口を開く。

「何言ってんの?」
「日本語です」
「そんなとこにいたら車に引かれるよ」
「それが狙いなんだよ」
「はあ?」

彼は私の頭を叩くと、腕を引いて、私を無理やり立ち上がらせた。ありがた迷惑というやつである。どうやったらこんなお節介に育つのだろう。親の顔が見てみたいよ。

「何それなんのギャグ?姉ちゃんの親と一緒だろ」
「ちょっと待って」
「うん?」
「貴方真面目に誰」
「何ふざけたこと言ってんの?弟のゆずるだよ」

この世界は一見同じように見えて、何かが違う。
私にはゆずるという妹はおれど、弟などいなかったはずだ。何処かで見たことがあると思えば、このゆずると名乗る少年は、髪が長ければ私の妹のゆずるとそっくりだ。
この微妙に噛み合わない世界に私は気持ち悪さを覚えながらしばらく視線を彷徨わせていると、ついに痺れを切らしたのか、ゆずるは私の腕を引いて歩き始めた。「あんまりふざけたこと言ってると怒るよ」もう怒っているように見えるけど。

「母さんも父さんも心配してる。姉ちゃんいつもならもっと早く帰ってくるし」
「は、はあ、」

彼の話によると私の帰りが遅いので探して来いとお父さんとお母さんに言われて出てきたらしい。私にも家があったのかと半ばホッとしながら彼の後ろへ続く。しかし彼の足は空き地の隣の家の前で止まった。「ただいまあ」なんてのんきな声が玄関へ入っていく。隣かよ。
どうやら、ないと思っていた私の家は、存外すぐ近くにあったようだ。妹が弟に変わっているのも、家がこの一軒ずれた位置にあるのも、これまでのことを全部考慮して私の頭で弾き出せた答えは一つだけだった。

「並行世界、ってやつか」

その世界は無数に存在すると聞く。例えばここで私が右足を出して歩き出すか、左足を出すかなんていう些細な違いですら全て並行世界の分岐に繋がり、今過ぎていく一刻一刻ごとに枝分かれして無限に増殖し続ける。その中の、割と私の世界と似た世界に飛ばされたと、そういうことなのだろうか。…考えれば考える程あり得ない話だ。
それに、そうだとするならば、もともとここにいた私は、一体どうなってしまったのだろうか。私の代わりに死んだか、はたまた私の世界で生きているのか。どちらにせよ、気にしたところでどうにもならない。
今はこの世界から出る方法を考えねばならない。
きっとここで生活したところで、元の世界とやることはほとんど変わりがないだろうし、問題もないけれど、私は怖かった。漠然とした恐怖が、この世界にはあったのだ。

「早く帰らないと」

私が私でなくなりそうな、そんな気がした。





私の両親は私の知る姿そのままだった。私の知らないその世界で当たり前のように食事をして、部屋で眠って、そうしてこの世界で初めての朝が来た。『弟』は男子テニス部の朝練だとかで、私より少し早く家を出たようだ。(ちなみに私の妹は女子テニス部に入っていた)

学校へと向かう生徒の波から外れて、私は一人学校近くにある海へ来て、ぼんやりと目の前に広がるくすんだ青を眺める。学校に行く気は、どうにも起きなかった。
なんせ昨日は掃除用具入れから出て来た瞬間を、なんと隣の席の子にみられたわけであるし、それに、今は普通に生活をしている場合ではないだろう。

「このまま海に落ちたら死ねるかな」

入り組んだテトラポッドの上を跳ねるように進んで、自らの足元を見下ろす。岩に頭でもぶつければ死ぬだろうか。鞄を端へ置くと、私は一歩前に歩み出る。微かなためらいには気づかぬふりをして、私はそのままふわりと海へと倒れて行った。
これでうまいこと元の世界に戻るなり死ぬなりしてくれれば、「ちょっと待った!」…うん?

「お前何して、っどあ!」
「うわ、」

後ろから誰かに腕を掴まれたと思えば、私は振り返る間も無くその男の子と海へ投げ出された。それが、昨日の壇ノ浦君もとい切原赤也だと分かったのはその数十秒後。余計なことを、と思いつつも、どうせ落ちたのなら沈めるところまで沈んでやろうと息を吐き続けていた私を彼は無理やり引き上げたのだった。
…また死ねなかった。彼に聞こえないほどの声でつぶやいた。

「お前何してんだよ!」
「…何って、か、海水浴」

砂浜へ引きずられた私は、彼にビビらせんなよとか、危ねえだろうがと、散々怒鳴られた挙句頭まで殴られた。まさか海水浴を信じたのだろうか。
それにしてもよくもまあ私を見つけたものだ。

「お前のせいで俺もびしょ濡れじゃねえか」
「…自業自得じゃないっすか」
「せっかく助けてやったのに!」
「別に助けなんていらないよ」
「…」

どうせならこの世界から出るための手助けが欲しいものだ。素っ気なく答えて立ち上がると、彼は何か言いたげに私を見つめていたが、持っていたタオルで、私の髪を乱暴に拭くと手を掴んだ。「ちょっと来い」と。

「やだよ」
「知らねえよ」
「どこ行くの」
「学校」

テニス部、と彼は続けた。なんだと?確かによくよく見れば彼はテニスバックを持っているじゃないか。いや、そんなことより、テニス部って朝練があってもう行かないと間に合わないんじゃ。

「だからお前を連れてくんだろ!」
「はい?」
「お前がいなかったら遅刻なんてしなかった」
「私がいなくてもこの時間なら遅刻だよ」
「うるせえええ」
「あだだだだ!壇ノ浦君痛い!」
切原だよオラアアア
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

耳を引きちぎらんばかりに切原君は私の耳を掴んで、結局私の抵抗も虚しく私をテニス部へと連行した。最悪だ。テニス部なんて私の弟もいるのに。切原君は私に遅刻の罪をなすりつける気満々で、テニス部の部室に辿り着くと、私を盾にするように後ろへ周り、強面の帽子男の前に突き出した。

「…なんだ、お前は」
「私が聞きたいです。貴方はどなたですか」
「あ、あー真田副部長!実は今日俺が遅刻したのはこいつのせいなんですよ!」
「いえ、違いますよ。彼はもともと遅刻する運命でした」
「お前黙れよ!」

その後、切原君によるとてもとても湾曲した説明が真田副部長とやらになされ、見事彼は遅刻の罰は逃れたようだった。それから優しい眼鏡と糸目の計らいで私は部室で、ずぶ濡れの制服から本日体育で使う予定だったジャージに着替えることを許された。「俺達はしばらく部室へは入らないようにするから、着替えに使うといい」なんて。どうやら私はたまたま足を滑らせて海に落ちたことにされたらしい。
私はもそもそとジャージに腕を通していると、突然開けぬ約束のはずの部室の扉が開いた。

「…変態の方ですか」
「ちげえよ!」

そこにいたのは最悪なことに昨日の赤髪男だったのだ。なんでこいつがここにいるんだ。つくづく私も運がない。まさか彼もテニス部だったのかと、ジャージのファスナーを上げながら一人で絶望する。
というか変態じゃないという割に、彼はわざとここへ入ってきたように見えたけど。

「もう着替え終わったのを確信して入ったんだよ」
「つまり確信犯ですか」
いや、何かそれはちょっと色々違うと思うけどな
「私に何かご用ですか」
「ご用です」

彼は近くにあったパイプ椅子に腰を下ろすと私に手招きをした。様子からして、私と切原君、そして真田副部長とやらの話を聞いていたのだろう。昨日のことを含めて叱りにでも来たのだろうか。私は頑なにそこから動かずにいた。だっておかしいじゃないか。自殺しようとしたところを見られたのに、こんな風に普通に話しかけて来るなんて。彼は私がこちらに来ないことを気に求めずにそのまま話出した。

「びっくりしたわ、昨日自殺しようとしてた奴が、赤也と一緒に真田に怒られてんだもん」
「別に怒られてないですよ」
「ふうん」
「それだけですか」

それだけなら、もう着替えも終わったし帰らせてもらおう。予想していた話の内容にこれ以上長居はしたくないと、鞄を抱えて足早に去ろうとした私を引き止めたのは彼の冷たい声だった。

「また、死のうとしたの?」

彼の声も、表情も、昨日初めて会った人間に向けるようなそれとは明らかに違っていて、だけどそれを問うのはどうしてもためらわれた。私が知らない『私』のことなんて、知りたくもない。

「自殺じゃなくて、私、足を滑らせたらしいですよ」
「ああ、そうだっけ」
「…」
「そういやそうだったなー悪い悪い」

途端におどけて見せた彼は朗らかに笑う。なんだこの人、調子狂う。あまり関わりを持ちたくないタイプだ。「ところで」まだ続くのか。

「お前って赤也と同じクラスかなんかなの?名前は?」
「…名前、は、、切原君と同じクラスみたいです」
「みたいですって、いやに他人事だなあ」
「他人事ですから」

私の言葉に、彼はぽかんとしていた。意味が分からなかったのだろう。まあ、当然といえば当然だ。私にも自分の状況が理解できていないのだから。

「まあ、良いや。俺は丸井ブン太先輩な」
「今貴方が先輩だと気づかされたことに絶望を覚えました、あと変な名前」
「失礼な奴だな」
「別に良いですよ。それより丸井『先輩』はどうしてそんなに慣れ慣れしいんですか」
「え?」

彼は首を捻ってしばらく唸ると、私を見て微笑んだ。

が俺の知ってる人に似てるから」
「…私、そういう風に誰かに重ねられるの嫌いです」

私がそういうと、丸井先輩は少しだけ寂しそうな顔をして、「そっか」と肩を竦めた。

「ごめんな」


その時の私には、何故彼がそんな顔をしたのかなんて、ちっとも理解できなかった。



(だけど理解する必要もない、何故なら貴方は本当ならば会うはずのない人なのだから)




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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140408 )