01_水の泡しかうまれない話
これは一時の迷いだったのかもしれない。
でも、私は後悔なんてしていなかった。人間なんて、死ぬために生きているようなものだから、悲しむことはないのだ。ただ皆より早く、ゴールするだけ。怖くはない。
これで私もあんたのところへ行けるよって、震える右手を握りしめた。
腕に深く深くカッターの刃が突き刺さる。肉の裂ける感覚と、鉄くさい血の匂い。腕の痛みはとうにそれを通り越して、麻痺したように何も感じず、ついには目の前が霞んで意識が飛んだ。

実際のところ、天国も地獄も、俗に言うあの世という別世界の存在などもともと信じていなかった。死ぬことがゴールのはずなのに、その先があってたまるかと、そう思っていた。
しかしどうやら私の考えに反して死にはその先があるらしい。ただ、それがあの世かと言われると、答えに困るのだけれど。
一体何が言いたいのかと問われると、要するに私が目を覚ました場所は、天国でも地獄でもなく、――学校の掃除用具入れの中だったのだ。

「…は?」

自分の置かれている状況が理解できなかった。今の私の気持ちを的確に表現する言葉を提示するなら、今の台詞だ。360度どこをどうみても掃除用具入れ以外の何者でもない。
埃くさい用具に包まれて、この、人が1人ようやく入れる程のスペースに私は押し込まれるような形でぽつんと立っていた。私は確かに今まで学校のトイレにいたはずなのだ。そこの個室で、自殺をした、はずだった。痛みに麻痺までしたはずの腕が、何事もなかったかのように無傷でそこには存在して、しかし右手には確かにカッターが握られていた。自殺しようとしていたことは夢ではないらしい。試しに頬を叩いてみると、これは現実であるということがわかった。

「…いやいや、意味分かんないって」

もしかしたら、これが夢と考えるのではなく、トイレで自殺を図ったことの方が夢で、私は今その夢から覚めたということだろうか。つまり、今から自殺の本番で?いやいやいや。じゃあなんで掃除用具入れで寝てるの。

「…じゃあ、やっぱりここはあの世とかそういうやつで、死んでもまだまだ先は長くて、…何言ってんのかわかんなくなってきた」

ひとまずこの用具入れから出ないことには何も始まらない。両方現実で何かの拍子でテレポーテーションしてしまったかもしれないし。いや、その方がもっと意味わからないけど、とにかく、私が自殺したはずのトイレに行くのが先決だ。カッターをポケットに入れて、扉をそろりと開ける。隙間から夕焼けの朱色が差し込んだ。
何処と無く見慣れた風景だと感じながら、私は扉を開け切る。放課後の教室に、人がいた。うっそ、マジか。
咄嗟に掃除用具入れの中へ引っ込んで行き、勢いよく扉を閉める。

「今完全に目があった」

窓際の席に男の子がぽつんと、1人でそこにいて、何をしていたのかよく分からなかったが多分居残り勉強的なものをしていたのだろう。ぽかんと私を見つめる男の子の表情が目に焼き付いた。

「絶対おかしいと思われたあれは」

だってどう考えても掃除用具入れからいきなり現れたらタイムマシンでもあるんですかとかなるよ。そうならなくてもいつからそこでスタンバイしてたのとか、何故このタイミングで出て来たのとか、とにかくいろいろまずい。
きっとまだいるよな、出て行ってくれないかな、いっそ脇目も振らずに飛び出して逃げた方が良いのだろうか。しばらくそんなことで悩んでいると、ふいに目の前の扉があいた。

「…あんた何してんの?」

でーすーよーねー。一番困る形で見つかってしまった。ああどうしよう。とりあえず平然を装って用具入れから出ると、教室をぐるりと見回した。2-D、つまり私の教室だった。…だけど、ここまでわかめパーマで目つきの悪い少年は見たことがない。

「あの、どちら様ですか」
「はあ?あんたマジで大丈夫?もしかして俺のことからかってんの?」
「いや、全然」

海藻に友達がいたことがないので、と言おうとしたのだが、流石に失礼かと思って、私は口をつぐんだ。どうやら彼の方は私を知っているようだ。まるで同じクラスのような雰囲気を醸しているけれど本当に分からない。…まさか私記憶喪失でも起こしているのだろうか。いや、それはありえない。昨日の晩御飯も、クラスの人間の顔も名前も、全部覚えている。特に欠落しているところはないのだ。

「隣の席の奴の顔マジで忘れんのかよ」

君って私の隣の席だったのか。初耳というか全然知らなかった。唖然と彼を見つめていると、くるくるパーマの彼は私がどうやらふざけていないらしいことに気づき始め、怪訝な顔をして「お前さあ、」と私の腕を掴んだ。

「もしかして誰かに虐められてたりすんの?」
「は?どう、してそういう見解に」
「だっていつも1人でいるじゃん。友達いないみてえだし」

私が掃除用具入れにいたのも、虐めの一環だと思ったらしい。それは良いとしても、一体彼は何を言っているのだろう。全く分からない。私に友達がいない?1人?…確かに友達は、…もう、いないけど、それでもそんな心配をされるような人間ではなかったはずだ。どこにでもいる、普通の中学生をやっていた。よく分からないけれど、そこまで考えた私は途端に嫌な予感がして、彼の腕を振りほどいた。

「あ、あー思い出した、えと、君は、そう、壇ノ浦君だったね。大丈夫大丈夫」
「いやいや全然大丈夫じゃねえだろそれ、って、」
「私用事思い出したから本日はこれにて」
「あ、おい!!」

びくりと身体が跳ねたが、私は構わず教室から飛び出した。彼が私の名前を確かに呼んだ。彼は確かに私を知っている。

おかしい、知っている世界のはずなのに、まるで違う世界のような、そんな奇妙な感覚だ。それでもここは確かに私の通っている学校で、なのにクラスには知らない子が当たり前にいて、私を知っていて、でもその私は知らない私で。支離滅裂だ。何も分からない。
ひたすらに走りながら、自分の置かれている状況を必死に考えた。確実に情報が足りなかった。しかしあの自殺したトイレには行こうとは、もう思わなかった。もしこれで、何もなかったら、私は何を信じればいいか分からなくなりそうだったからだ。お前の見ていたものは夢だと、そんな現実はどうにも見たくなかった。
そうしてあてもなく廊下を歩いていると、ふと廊下の壁に設けられていた掲示板に目が行き、ぼんやりとそれを眺める。それは新聞部の発行しているらしい、記事だった。

「『立海大男子テニス部、全国大会優勝おめでとう』」

日付を見ると、去年発行されたらしい記事だ。こんな記事、みたことがなかった。うちには女子テニス部はあれど、男子テニス部なんてなかったはずだ。頭に一つの推測が立ち、いよいよ自分の置かれている状況に悪寒が走り始める。
きっとこれは天国でも地獄でもない、現実なのだ。
信じたくはないけれど、ここは、本当に私の知らない、立海なのかもしれない。

「…冗談キツイって…」

私の理解の域を超えない、きちんと信頼出来るものは、一つしかなかった。ポケットからカッターナイフを取り出すと、そっと腕にあてがう。
ここから全ておかしくなったのなら、これでまた元に戻るかもしれない。元に戻らずに本当に死んだとしてももともとそういうつもりだったのだ。再び右腕に力を入れようとしたその瞬間だった。

「お前何やってんだよ!」

ナイフを持つ手を弾かれたと思えば、強く、きつく、腕を掴まれた。放課後の静まり返った廊下にその人の声が響く。止めに入られることを考える余裕すらなかったものの、ここで切るのは間違いだった。
そのまま腕を引かれ、私を止めた人物の方へ向き直せられる。わかめの次は赤毛かと思った。この立海にはいろいろな人間がいる。彼は自分から引き留めたくせに、私の顔を見るなり微かに瞳の中に動揺の色が伺えた。

「おま、…」
「…」
「前に、どっかで、」
「…貴方なんて知りません、っ離して!」

赤髪の彼を勢いよく突き飛ばすと、私は再び走り出した。大して走ってもいないのに、足はもうがくがくと今にも崩れそうで、息もままならない。

訳が分からなかった。次から次へと、ここにいる人間は私が知らないを知っている。

私の知らない、――。

…私は、一体誰なのだろう。



(水の泡しかうまない話)




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( まっくらな宇宙にはじき出された少女 // 140402 )