01

いつからかは分からない。だけどガキの頃はなかったはずの穴が、今の俺の心には空いている。何をしたところでそれは埋まらないまま、どんどんと広がっていくように思われた。多分、もう永遠に埋まらないような、そんな気さえする。だからと言って生活に不自由はなく、気づく間も無く空いたということは、そのなくなった部分は、きっと、生きることにはこれと言って必要なものではなかったのではないのだろう。
知らず識らずに何かを淘汰して生きていく、これが大人になるってことじゃないかって気付いたのは半年程前。ちなみに201号室が空室になったのもその頃だ。

正直、俺は人よりも面白味のある人生を送っているつもりだった。いや、確かに送っていた。そんなことを言うと、まるで今はつまらないように聞こえるけど、そんなことを言っても今だって毎日はそれなりに楽しいし、俺には友達は多いし、何より自由だ。

だけど――

だけど今の俺という人間は多分、結構『普通』で、面白味って言うのは、あんまり、ない。

やっぱり、俺は何かが欠けていた。









昨日は遅くまで友人と遊びまわっていたので、本日の起床時刻はのんびり10時。授業は4限からの2コマのみなので、まだ家でゆっくりできる。俺は枕元に転がっている目覚まし時計を確認してから跳ねた髪を撫でつけてもそもそと布団から這い出した。ワンルームの小さな部屋は昨日脱ぎ捨てたままの服や鞄が散らかって、ベッドまでの道を辿っている。

毎日こうと言うわけではないけれど、だらしのない生活をしているなと思う。洗濯機に衣服を放り込みながら、ふいに聞こえたぱたぱたという足音に俺はふと隣の部屋の方へと視線を移した。隣人は珍しく、まだ部屋にいるらしい。壁の薄いこのアパートは、隣の部屋の生活音が聞こえてくるので、隣人が留守なのかそうでないかが大体分かるのだけれど、普段、隣人は俺よりも早くに家を出ることが多かったから、こうして今の時間に足音を聞くのは初めてだった。

空腹を告げた腹に何かを入れようと俺は冷蔵庫を開ける。中身は飲みかけの緑茶のペットボトルが一本だけ入った空虚なそれである。とてもじゃないが、朝飯になりそうなものはなかった。

「あー…友達と飯食うからって何も買ってなかったんだわ」

この時刻ならスーパーも丁度開き始める頃だ。しようがないと、下だけジーンスに履き替えて、財布片手に俺はふらりと部屋を出ることにする。太陽の柔らかい光を受け止めると、それと同時に視界の端の部屋の扉も開くのが見えた。

「あ」
「ああ、さん」
「おはようございます」
「ございます」

俺と同じく立海大に通う彼女は、先程も言った通りいつもは朝早くに家を出て行って、割に遅い時間に帰ってくるような生活をしていることは、帰宅時の音で何となく知っている。多分1限から5限まで、びっちり授業って感じなんだろうなと思っていた。だからこんな時間に出くわすのは珍しい。とは言え、「今日はまたどうして?」なんて理由は聞かないけれど。いくら壁が薄いからって、生活リズムを隣人に知られているって、なんか気分が悪いだろう。ましてや相手は女の子だ。
まだまだ眠気が抜けきっていない俺とは違って、彼女の背中はすっと伸びていた。なんか眩しい。
挨拶に釣られて軽く会釈を返すと、彼女はお買い物ですかと俺の手の財布を見て言う。

「うん。冷蔵庫すっからかんで朝飯ないの」
「左様ですか」
さんは学校だろ、いってらっしゃい」
「丸井さんも、いってらっしゃい」

小さくお辞儀をして、彼女は何食わぬ顔でさっさと俺の横を通り過ぎていった。彼女とアパートの下まで一緒に行っても良かったのだけれど、部屋が隣だというだけで、然程親密でもないので、彼女が階段の向こうに完全に見えなくなってから、俺も歩き出した。

が俺の隣の部屋である201号室に越してきたのは約1ヶ月ほど前だ。
春の穏やかな空気に似合わず、その日はまるで夏みたいにカラッと晴れていて、今日みたいに丁度俺は出かけるところだった。と言ってもスーパーではなくバイトにである。
面倒に思いながら、バイトへ向かおうと俺が開いたドアは、何かにぶつかって、そこにはダンボールを馬鹿みたいにたくさん抱えた彼女がいた。
それがとの出会いだった。

「あ、すいません」
「こっ、こちらこそ失礼しました……」

ダンボールは彼女の顔まで隠していた。これでは前もまともに見えないだろう。ダンボール越しに入り口を塞いでしまったことを何度も謝罪をされてから、俺はふと「201号室ですか」と隣に視線を移すと、彼女は突然しゃんと姿勢を正して、(相変わらずダンボールで顔は見えなかった)「そうですそうです」と答えた。

「あ、えと202号室の方ですよね」
「はあ」
「この度こちらに引っ越しできましたと申します。よろしくお願いします」
「どうも、丸井です」

さんは何を喋り出すにもずっとダンボールを抱えていたので、俺は焦れったく思って一番上のそれを掴んで取り上げた。「ご挨拶の品は後ほど、」なんて呑気に話していた彼女は、突然開けた視界にぽかんと口を開けた。丸い瞳がぱちんと一度瞬きをする。大学生だろうか。自分と同い年くらいに見える。

「……うわあ王子様」

ようやく合った視線に、彼女はそう呟いてなんとも言えぬ顔をした。何、王子様って。褒められたのか、それにしては彼女の表情は名状しがたい。初対面でそんな顔をした奴には会ったことがなかったので、俺はその表情の意味は測りかねたのだけれど、突っ込んで聞く気も起きなかった。
俺はそれから完全に持て余していた段ボールを突き返すのもどうかと思い、「手伝いますけど」なんて、そのまま201号室の前に来た。なぁに言っちゃってんのかなあ俺は。とまあ、そんな感じで本当はあまり気乗りはしなかったけれど、バイトまではしばらく時間があるし、一人でせっせと荷物を運ぶ彼女を何となく哀れに思ってしまったからしようがない。とは言え、俺の抱えるそれは思いの外軽かったので、きっと重いものは業者が運び込んだのだろうとは思うが。

「あの、外出するところだったのでは」
「これからバイトだけど、場所すぐそこなんで」
「かたじけないです」

かたじけないですって、変なの。そんな言葉は勿論呑み込んだ。
結局、手伝うと言っても、ダンボールの荷物はほとんどなかったので、後から考えればいらぬ助けだったように思う。部屋の中に積み上げられたダンボールをざっと眺めてから、俺は彼女を振り返った。

「ええと、さん、だっけ。今年から立海大生とかですか」
「いや、2年生です。立海大の」
「ふうん、じゃあ俺と同い年だな」
「は……ああ、そうですか」

大して活躍の場もなく、空気の気まずさに捻り出した話題は、彼女のそんな情報を引き出した。同い年だと思って突然敬語をやめたからか、彼女は少し面食らっていたようだ。緊張ほぐしに行こうと思ったんだけど、これは反省。間が持たなくなりそうに思って、大した理由もなく財布から学生証をチラつかせて同期であることを見せてやると、彼女はやけに食い入るようにそれを見るので、「え、何」と首をかしげた。俺はまさかそこに食いつかれるとは思わなかったが、「変わったお名前ですね」なんてその台詞に、すぐに納得をした。

「よく言われる、……言われます」
「あ、敬語じゃなくて良いです」
「そっちも敬語じゃなくて良いです」

彼女は小さくはにかんだけど、自分で言って恥ずかしく思った。何この敢えて友達になりましょって公言して友達になるみたいなノリ。中学生以来かもしれない。学生証をしまい込むと、彼女は真顔で口を開いた。

「まるい、ぶんぶとさんですか」
「その間違い初めてだわ」
「あっ、ぶんたさんですか」
「ぶんたさんですね」
「ごめんね、気を悪くした?」
「別に」
「ええと、強そうな名前だね」
「太いって入ってるとこが?」
「太いって入ってるとこが」
「どうも」

打っても響かなかったからか、そこで彼女はやけにしゅんと小さくなった。どういう返答を求められていたのか、俺にはちっともわからない。会話下手くそか、と思わず突っ込みたくなる。
自分という人間は、そこそこにコミュニケーション能力が高い分類に入ると思っていたのだけれど、彼女に関してはあまりに不器用すぎて、きっとこれからもどう接して良いのか、手を焼くタイプだろうなと、この数分のやり取りで俺は悟ったのである。
再び訪れた沈黙に、俺はどうにでもなれと「そういや2年生で引っ越しって少し珍しいよな」なんて適当な話題を口にした。この沈黙を顧みずにとんとんと話題を提供する俺、正直そこまでする必要ありますかって思っちゃうけど。なんかこの人、あんまり関わりたくはないのに、見てると不安になる。
「大体の人は一年から入ってくるものだし」多分、地方の人ではないのだろうとあたりをつけて話を続けると、さんは困ったように黙り込んだ。聞いてはいけなかったことだろうか。俺は視線を落ち着ける先を探しながら、そばの壁に、ひとまずと言った形で置かれた丸い時計を一瞥した。もうそろそろバイトに行かねばならない時間であり、俺はその事実に半ば安堵する。

「あっ、悪いそれじゃ、俺はそろそろ」
「逃げ出したかったからかな」
「は?」

玄関に向かおうと動き出した俺に、遅れた返された言葉が、質問の答えであると分かったのはその数十秒後だった。「反抗期?」と、今思えば頭の悪い切り返しを俺はした。

「そうともいう」

彼女は簡潔にそう頷いて、玄関の扉を開けた。ぽかんと立ち尽くす俺に、バイトに行くのでは、と目で言っているようだった。「出ないんですか」「出ます」と短いやり取りを交わして慌てて靴を引っ掛ける。

「それではお手伝い、ありがとうございました」

振り返ると、愛想もへったくれもない顔でさんは軽く頭を下げた。

「はあ、」
「改めてこれからよろしくお願いします」
「……こちらこそ」

ばたん。
次の瞬間まるで追い出されたように扉が閉まった。
まるでこれ以上近づかれることを拒絶されるように、敷居を立てられら様な気分だ。何か怒らせるようなことを言っただろうか。それとも、俺の考えすぎなのだろうか。


うん、考えるの止めよ。この人よく分かんない。








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