その日、立海大付属中テニス部マネージャーのという存在が消えた。


「いやあ不思議なこともあるもんだあなあ」


冬の空気を肺いっぱいに吸い込んで、私は小さく震えた。間延びした声は、相手を余計に苛立たせているらしい。電話の向こうの相手は嫌に焦りと苛立ちを含んだ声色で、私の名を呼んだ。
私はいつだって人の話を真面目に聞かないことで有名で、しばしば白石君あたりにその事を注意されるけれど、今回ばかりは私にもどうしようもない。電話の彼の言っている意味が理解できなかったのだから。


「えーと、それで、何です?山田さん?」
『切原って言ってるでしょ!ねえ、先輩ホントに俺のこと忘れちゃったんですか!?』
「ごめんごめん、切原君ね、ちゃんと覚えるから」
『そうじゃなくって!』


先程からそのやり取りの繰り返しだった。彼は私を知っているという。いや、私も彼のことは夏合宿で会っているので知っているけれど。
そうでなくても、あの王者と呼ばれた立海大附属中の二年エースを知らぬはずがない。名前はきちんと覚えていなかったけど。
そんなことよりもだ。そもそも私の携帯番号を何故彼が知っているのだろうか。教えた覚えが全くなかった。しかしおかしなことに、私の携帯にはきちんと彼の情報が登録されているものだからたまげた。何だろう、新手の詐欺の手口かなにかなのだろうか。


「あのう、私そろそろ学校に行かなくてはならんのですが」
『学校って何、まさか四天宝寺?先輩の来る学校はこっちでしょ!』
「うえええもう言っている意味が分からないよ君、切っていい?」
『駄目!』


鼓膜が破れてしまいそうな程馬鹿でかい彼の声が私の耳を通過して行く。もう直ぐにでも切ってやりたかったのであるが、何やら電話の向こうで揉めているのが微かに聞いてとれた。どうしようか、どうやら妙な言いがかりをつけてくるのは彼一人ではないようだ。『赤也貸して』おそらく切原君から受話器を取り上げたらしいその声を私は知っていた。神の子と恐れられている、幸村精市だ。


、ふざけているならそろそろ本気で怒るよ』
「えええ」


何故私が怒られなくてはならないのだろう。突然妙な電話をかけてきたのはそちらではないか。怒りたいのはこちらの方だ。いい加減私も対応に疲れてきた。元より面倒ごとは死ぬほど嫌いな性分だ。やってられない。時間も危うかったので、私は鞄を抱え直してアスファルトへ足を踏み出した。


「なんていうか、もう本当に貴方たちのおっしゃる意味が分かりませんが。からかってるならもう切ります」

「…なんですか」
『君は、誰』
「は?」


自分を忘れたのかと怒鳴りつけられたと思えば今度は何だろう。私は誰か?ふざけるのも大概にしろ。頬をすり抜ける冷たい風にさえ苛立ちを覚えながら、わざと私は声のトーンを落として言ってやった。「私は四天宝寺中、三年二組、テニス部のマネージャーのですよ。それ以上でもそれ以下でもありません。満足ですか」しかし幸村精市は言った。『違う』と。違うかどうかなど、聞いていないというのに。自分の存在が否定されたように聞こえて、気分が悪い。


「…もう一体何が言いたいわけ、」
『君は確かに昨日まで立海大附属中に通う、三年A組でテニス部マネージャーの、だったはずだ』


意味不明。
面倒だったのでそこで電話を切った。
立海大附属は一癖も二癖もある奴らが揃っていることは知っていたけれど、そのレベルではなかった。
また電話があると嫌なので、電源を落として鞄の奥へしまいこむ。その時丁度後ろから自転車が近づいてくる音がして、なんとなく誰だか予想をつけながら振り返れば、相変わらず眩しい金髪がこちらに向かってくるのが見えた。彼は滑るように私の隣で自転車を止める。


「おう、おはようさん。ちんたらしとると朝練遅刻するで!」
「ああ、」
「…何や、けったいな顔して」
「いや何か色んな変人がいるなあと」
「はあ?お前に言われたないわ」


彼は苦笑を零して私の頭を軽く小突いた。なんだかそれが一瞬、誰かと重なった気がして、私は内心狼狽える。そんな心は梅雨知らず、彼は後ろに乗るか?なんて遅刻予備軍の私を荷台に誘導したので、現実に引き戻された。そうだ、私はあの妙な電話のせいで朝練に遅刻しそうなのだ。私はそういう節介は難く頂戴する奴なので、されるがままに後ろに乗ると、彼はペダルを踏み込んだ。
彼の背中をぼんやり眺めながら、そうして私は先程の電話のことを思い返していた。
私が立海のテニス部マネージャーだったら、何故私は今ここにいるのだろう。彼らにも説明ができないから、あんなに怒っていたのかもしれないけれど。
風がぴゅうと音を立てて通り抜けて行く。

もし、彼らの言っていることが本当だとしたら、私の今ここで息をしているこの事実は、彼と二人乗りしているこの瞬間は、本来あるはずのない偽物なのだろうか。


「…まさか」


笑えた。そんなことがあり得るはずがない。何を真剣に考えているのだと自嘲気味に笑っていると、前から「どうしたん?」なんて声がする。何でもないよ、そう返そうとして、私はふとあることに気がついた。


あれ、そう言えばこの人の名前なんだったっけ。


もう笑えなかった。



そこに在るという錯覚
(私は、貴方は、)

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( こちらではお久しぶりです。ずっとずっとやりたくて実は本編に入れようか迷っていた話 / 140217 )