たくさん心配される話05
※原作沿いではないオリジナルの話です。設定が謎めいていてもOKの方のみどうぞ! が大怪我をして戻ったという話は、事の発端である謎のトリガー使いのことを聞いていたA級と一部のB級だけに知らされた。 理由は明らかだ。流石に生身でトリオン兵と戦おうとする無謀な隊員がいるとは思えないが、例えば経験の浅いC級隊員にの真似をされては困るし、何よりトリガーに突然換装が解けるような不具合が起こり得ると噂を流されたくはないからだ。 防衛任務を終えた米屋は、ラウンジで寛いでいる出水と緑川を見つけて手を挙げる。これから、二人との見舞いに行くことになっていた。 二人は米屋が来る前からの話をしていたらしい。特に緑川は怪我の具合を風間から聞いたようで、傷だらけだったとか、左腕やあばらにヒビが入っていたとか、そういう話をやたら詳しく知っていた。 運悪く宙に跳ね上がった際に換装が解けて、そのまま背中から数メートル落下して受傷したというのだから恐ろしい。 病院へ向かう道中もに関する話が尽きることはなかった。 それを後ろで聞き流しながら米屋は自分の手を開いて、閉じる。それは、彼女がそうしていたように。 それから米屋は、そういえば第二次大規模侵攻時に三雲修が怪我をしたときも、こうして三門市立病院へ見舞いに行ったことを思いだしていた。なんとなく、胸がざわざわと嫌な感じがする。 トリガーという技術があって、 近界民のゲートは基地の周りにしか開かれなくて、 ーーそんなふうだから誰も彼も平和ボケをして忘れているけれど、自分達と近界民はずっと戦争をしている。本来なら、もっと怪我人や死人が出ていてもおかしくない。そんな危険なことをしているのに、ボーダーの入隊希望者はちっとも減らなくて、毎日皆、当たり前のように、戦争をしている。 「ねえ、よねやん先輩、俺の話聞いてる?」 ふいに緑川に名前を呼ばれて、米屋は顔を上げた。 「ん? ああ、悪い、なんだっけ」 「だから、先輩がさ、鉄パイプでトリオン兵を倒しちゃった話だよ」 振り返った緑川が口を尖らせている。怪我の話から、少し話題が逸れているらしい。鉄パイプ? と訊ねると、緑川の代わりに出水が口を開いた。 「あいつが生身でトリオン兵と戦ってた時の映像が、警戒区域にある監視カメラに映ってたわけよ。昨日、それを見せてもらってさ。その話」 「そーそー、まるで孤月を使ってるみたいだったんだよね」 どうやら、トリガーが障害を起こした瞬間を分析するために、監視カメラの映像をA級の隊長クラスが確認したそうだ。出水と緑川はそれを太刀川から見せて貰ったという。 なんとなく、普段の戦いぶりから彼女がトリガーを使わずにどんなふうに交戦していたか目に浮かんで、米屋は苦笑を零した。 「ってトリガーを使ってなくても結構身体能力高いんだよな」 「まあ、あいつ格闘技習ってるし」 「え、そうなの? よねやん先輩それホント?」 「おーマジマジ。あんまり耳馴染みがないやつだけど。なんつったかな」 格闘技の名前は覚えていなかった。以前、に話を聞いた話では、今はボーダーでの仕事も増えたため、月に一、二度習いに行くだけだと話していたが、中学時代はその教室に足繁く通っていたという。 彼女の戦闘スタイルのベースとも言えるのだと。 「それじゃあ俺ら生身じゃ勝てないかもね」 「だな」 短く答えると緑川が苦笑した。 あながち間違いでもないのだろう。ーー間違いではないのだろうけれど、それでも生身はトリオン体とは違う。いくら強くても生身で戦えば怪我をするし、命を落としてもおかしくはないのだ。 犬飼に抱えられた傷だらけのの姿を思い出し、米屋は視線を足元に落とした。 嫌な予感はしていたのだ。止めていれば、と悔やまれる。 そんなふうに話しているうちに、が入院している病院が見えてきた。病室の場所は風間から聞いていたので、三人は迷うことなく彼女の病室のある二階へ向かう。 部屋の前まで来ると、そこには犬飼の姿があった。どういうわけか、彼が病室に入る様子はなく、側の壁にもたれて何かの本を開いていた。たぶん、単語帳とか、そういう類のものだ。 「犬飼先輩」と出水が声をかけた。 「ん? やあ、君たちか」 「どうも」 「お見舞い?」 「はい」 先輩は勉強ですか、と米屋が尋ねる。ここまできておいて、そんなわけないだろうに。犬飼は持っていた本を鞄にしまい込んで「まあね、定期考査が近いだろ」と笑った。そういえばそんなものがあった気がするけれど、今は聞きたくない。 「てか、犬飼先輩は中に入らないんですか? ここ、の病室ですよね」 「うん。そうしたいのは山々なんだけど、今取り込み中みたいなんだ」 取り込み中。出水へ含みのある言い方をした犬飼は、視線だけ病室の方へ向ける。釣られて米屋はそちらへ意識をやると、どうやら中に誰かいるらしいことがわかった。話し声が聞こえる。聞き耳をたてると、まず聞こえたのは風間の声だった。 「自分が怪我人だという自覚はあるのか」 「……一応」 その問いかけに答えたの声はやや暗い。「どうせわかってないですよこの人」と続けざまに菊地原の声がする。風間隊のメンバーが揃っているようだ。恐らくは説教を受けているのだろう。心持ち、中の空気は重そうだ。 「……うるさいな、わかってるってば」 「どうだかね。そんなんじゃ反省してるようにも見えないし」 「……」 いつもより棘のある菊地原の声がを黙らせたようだ。沈黙を埋めるように吐き出された誰かの大きなため息が、余計にその場の空気を重くさせたように感じる。 中の様子が見えなくとも、彼女が何かをしたのであろうことはその場にいた全員が察していた。風間や菊地原が頭を抱えているときの大半は、彼女に原因がある。 少し前からここにいた犬飼は訳を知っているのだろうかと視線を戻すと、米屋の言わんとすることを察してか、彼は肩をすくめた。 「なんか、無断で病院から抜け出そうとしたらしいよ。これで二回目なんだって」 病院を抜け出す? 何故。 はあ、と相槌とも尋ね返す言葉とも言えない気の抜けた声が三人から同時に溢れた。聞くところによれば、一度目に脱走を企てたときは病院の入口の辺りで力尽きて倒れていたところを保護されたのだとか。 「何やってんだ、あの馬鹿は……」 「いくらなんでも無茶でしょ。先輩、骨が折れてるんだよね?」 そうだ。だからそこまでして病院から出て行こうとする理由が、わからない。それは当然米屋を含め、誰にも理解されることはなく、彼女はニ度目の脱走を試みた際に、偶然見舞いに来た風間達に捕まってしまったようだった。 説教は犬飼が来る前から始まっていたらしい。珍しく風間がはっきりと怒りを露わにしているため、入るに入れないのだと言う。 犬飼は、今度は息をそっと、長めに吐き出して「はさ」と切り出した。温度のない声だった。 「は、たまにすごく危なっかしいから困るね」 「たまにじゃなくて、いつもですよ」 出水が呆れた声で訂正する。犬飼は少し間を空けてからそうだね、と笑った。米屋はそれを怪訝に思ったが、丁度、中から「抜け出そうとした理由を言え」と怒気を孕んだ声が聞こえて、意識が部屋へ逸れた。緑川はまるで自分が怒られているかのように、咄嗟にきゅっと首をすぼめる。だが、風間のその言葉は誰もが彼女に問いたかったものに違いない。 病室の外の四人は押し黙り、病室の中へ耳をそばだてる。しかし、返るのは沈黙だけだ。しばらくして、三上の声がした。「もしかして」 「もしかして、何か必要なものがあった? 買いたいものとか」 「ひつよう、」 「そう。入院していると色々不便よね。言ってくれたらできる限り用意するから。だから、今は一人で無理も危ないこともして欲しくないの。早く治って欲しいもの」 「三上……」 「皆思っていることよ」 だから、ね、何かある? と三上の優しい声色はその場の空気を少しほぐしたようだった。ピンと張りつめていた糸が切れてやっと息が吸えるようになったみたいに、歌川もそれに同意した。それでもが理由を口にすることはなかった。そう言うんじゃないんだ、ごめんと、初めから言うことを決めていたみたいに、はっきりとした言い方で、再び空気を張り詰めさせた。 「あーあ」 それに続いたのは菊地原の声だ。投げやりな調子ではなかったが、音を空間に置き去りにするみたいに、放り投げるような言葉だった。彼はまるでがどう答えるかわかっていたようにも聞こえた。 「二人ともさ、律儀に聞いてやることないんだよ。そうやって甘やかすから、いつまでもこの人の自分勝手な行動が治らないんでしょ」 「菊地原くん……」 「大体、入院の期間だって最低2週間って話だったのに、無理言って1週間に早めてもらってるのに、これ以上わがままに付き合いきれないよ」 そうだったのか、と米屋は扉を見つめる。どうしてそこまでして、ここにいることを嫌がるのか、米屋には不思議で仕方がない。 菊地原の台詞にどこか突き放すような鋭さを感じたからか、自棄になったように「だから、悪かったってば」と少し怒気のはらんだの声が聞こえた。ばふ、と布団を叩いた音がする。 「もうしない、それでいいんでしょ。もうしないよ」 「信じられるわけないだろ。二回も脱走しといてさ。それでその理由も言わないとか」 「ーーそれは、」 「それは? 何、言ってみなよ」 「それは、……。どうせ、分からないから……いい。もうしないんだから関係ない」 「あっそう」 は頑固だから、一度言わないと決めたら、それを曲げることはないのだろう。それは風間隊のメンバーもよく理解しているはずた。「これじゃあ埒があかないから、もう行きましょうよ」と菊地原はうんざりしたように切り出した。そんな彼の言い方を歌川が諫めはしたが、きっと歌川自身も納得はいってないはずだ。説教の一つでもしたい気持ちはあるのだろうが、そうすることは状況をより悪くすることだと悟ってか、彼は菊地原を宥める以上のことはしなかった。 一方で菊地原はただ、腹が立って仕方がないのだろうと、米屋は思った。米屋自身もまた、そうだったからだ。が自分の行動を反省するしない以前に、何故自分を大切にしない行動ばかりするのか。 周りはを心配していることに、彼女はちゃんと気づいているのだろうか。 しばらくの沈黙の後、静かな声で風間が「また来る」と言った。一拍おいて、病室の扉が開いた。それに廊下にいた全員が顔を上げた。姿を見せた風間の瞳が米屋達を捉えて、僅かに目を見開く。 「お前達、いたのか」 「いましたよ、ずっと」 答えたのは菊地原だ。彼のサイドエフェクトが、米屋達の話声でも捕らえていたのだろう。それを聞いて、風間はそうか、それはタイミングが悪かったな、と言わんばかりに小さくため息を漏らした。それから続ける。 「今入ると、面倒だぞ」 そりゃあそうだ、と米屋は心の中で同意を示す。今の今まで叱られていたのを聞いていたのだから、彼女の機嫌ぐらい察することができる。 機嫌の悪いはまるで手負いのライオンのようで、そんな彼女に近づこうとする者はA級の中にだってなかなかいない。触らぬ神に祟りなし、を体現したような人間だ。 悪かったな、と言う割に少しの悪びれもなく風間は言って、米屋達の横を通り抜けた。きっと基地に戻るのだろう。ただ三上だけはこちらに軽く頭を下げて、それから風間の後に続く。別に彼らは何も悪いことをしたわけではないのだが、律儀だなと米屋は思う。のことで常に周りに迷惑をかけてしまうことと、形だけであっても彼女の代わりに詫びを入れることは彼等には当たり前のことでしかないのかもしれない。 風間隊の姿が廊下の向こうにすっかり見えなくなってから、出水と緑川が互いにばつの悪そうな顔を見合わせた。 「いずみん先輩、どうする?」 「どうするっつったって……なあ、米屋」 「まあ、せっかく来たのに引き返すのもナンだろ。のことが心配なのは事実だし」 「まあそーだけど……」 歯切れの悪い出水はしばらく病室の扉と風間達が消えた廊下を交互に見つめていた。「手負いのライオン」に関わりに行く気概がないのかもしれない。それから彼は不意に「売店で何か買うかあ」とため息混じりに言う。そういえば米屋達は見舞いの品を何も持って来ていなかった。 「プリンでも買って行けば少しはマシかもな」 「いずみん先輩に賛成。てか売店てどこ?」 「一階にあった」 「行こう」 「あ、んじゃ俺は病室の中で待ってるわ」 売店へ向かおうとする二人とは対照的に、米屋だけは病室の扉に手をかけていた。振り返る出水は「まじか」と名状し難い表情をする。まじ、という意味も込めて、米屋はなんてことなさそうにひらひらと右手を振る。すると、間を置いて「勇者だな」と言葉が返った。 米屋はを怖いと思ったことが一度もなかった。いや、正しくは彼女と兵刃を交える時を除き、だが。 たぶん、そこまで怒らせたことがないのかもしれない。たとえ彼女の機嫌が悪い場面に遭遇しても、楽観的な性格によるものなのか、米屋は刺のある言葉だってさらりとかわしてしまえるのだった。 売店への買い出しを出水と緑川に任せてしまうと、犬飼もまた、数歩先を歩き出した二人を追うように病室へ背を向けて歩みを進めようとしていた。米屋は、え、と声にもならないくらいの驚きを喉から漏らす。 てっきり彼もに会って行くものだとばかり思っていたから視線が犬飼の背中を追った。 「あの、入らないんスか」 犬飼が足を止める。振り返らぬまま、彼の頭が前に少し傾いた。 「うん。おれは帰るよ」 「なんで。わざわざ来たのに」 「十分元気そうだからね。それが分かれば」 わざわざ会わなくてもいいよ、と付け加えた犬飼に「はあ」と気の抜けた返事をする。犬飼がの怒りを怖がって、中に入ることを拒んでいるようには見えない。だいたい、彼はそういうときこそ喜んで首を突っ込んでいきそうな人間である。 「生存確認だよ、生存確認ー。いればいいんだ。そこにちゃんといたから、それで良いんだ」 「そりゃあ、ちゃんといるでしょうよ……」 いてくれなければ、困る。いや、正確には脱走したのでちゃんといたわけではないのだけれど。 彼が帰ったところで、米屋が困ることは何一つないが、黙って背中を見送るのも納得がいかなかった。それでも次の言葉が見つからず、手をかけていた扉の取っ手をひと撫ですると、犬飼が「おれはさ」と言葉を漏らす。 「が」 「……」 「いつか突然ボーダーからいなくなって、二度と会えなくなる、そんな日が来るんじゃないかなあって、思うんだよ。たまにね」 「それは、」 それは、どういう意味なのか、とは米屋は聞かない。 何故ならその思いは米屋の中にも僅かながらにも、確かにあったからだ。 が、いつか、なんの前触れもなく、そして誰に相談するわけでもなく、何かを決断して突然目の前から消えてしまうのではないか、そんな妙に輪郭のはっきりした思いが。 理由はわからない。だから、米屋は聞きたくなった。自分の中に見つからない答えがそこにある気がして。 「何でいきなりそんな話になるんですか。がいなくなるなんて話に」 「何故って、そりゃあ、不自然だからさ」 「不自然?」 「ほら、生きててさ、まるでぬるま湯に浸かってるみたいだなぁって、思ったことない? おれ達は毎日戦争をしてるのに、世界は平和だって。おれが言うのも、おかしな話だけど。でも、たぶん結構な人間が今が平和だって、そう思ってる。この世界に絶望して、死を覚悟してる奴こそ一握りだろうね」 「それが、どうと関係が?」 わざとらしくむつかしい顔をして話す犬飼に米屋が問うと、彼は一瞬拍子抜けしたような顔をしてから、笑った。 「はは、うん、まあ、関係ないね。ごめん、違うんだ。ここまで来るともはや不自然でもなんでもないし」 「はあ、」 「きっと皆そうだよ。それでいい。皆でぬるま湯に浸かっていれば」 犬飼は完全にこちらに向き直った。米屋ではなく、彼の後ろの、まるで扉の向こうにいる病室の中のと向かいあっているように見えた。「でも」 「……でもにはきっとそれができないんだろうなって」 犬飼の口調はひどく静かで、聞き逃してしまいそうなほどだった。ふと、米屋は自分が僅かに緊張しているのに気づいた。指の先が冷たかった。紛らわすように手を強く握りしめる。 自分で知りたがったくせに、まるで心の奥底にそっと鍵をかけてしまってあった触れたくない真実みたいなものを目の前で掘り返されてしまうなんじゃないかと、そんな感覚に襲われていた。得体の知れない不安が膨らんで行く気がして、誤魔化すように米屋は無理に笑っていた。 「よくわからないんすけど、だって平和がいいと思いますよ」 「思っていても、には平和って言葉が似合わないんだよ。もっと歪で、不安定な何かーー破壊とか、そういう言葉の方が合うだろ」 米屋は口をつぐんだ。 確かには平和という言葉が似合わない。性格とか、単純な話でだけではなく、もっと根っこにある真の性質みたいなものが、という意味で。彼女が平和を望んでいても、の本質が相入れない。多分、そう言う話だ。 「こんな世界とっていう女の子が一緒に存在していることが、おれには違和感しかないんだ」 まるで、平和ボケしているこの世界が、には場違いだとでも言うような口ぶりだった。 否定したい気持ちがわいたけれど、言葉は出なかった。犬飼の言葉に納得している自分がいたからだ。 「でもいるんだよ。あの子は、このぬるま湯の中に」 「犬飼先輩は、がいつか必ずいなくなるって思ってるんすね」 この、ぬるま湯の中から。米屋達が平和であろうとする、この場所から。 それは可能性の話ではなく、確実に。確信している話として。 米屋が問うと、犬飼は目を伏せた。「そうだね」 「彼女がいつまでこうやって平穏に酔い続けてくれるんだろう、って思うことはあるよ」 米屋の中にずっとあった彼女に対する不安は、犬飼と同じなのかもしれない。 言葉が見つからない米屋に、犬飼は一応言っておくとね、と口を開く。 「おれは、あの子みたいな歪な人間は嫌いじゃないんだ。それどころか割と気に入ってる」 それから優しく笑って、こう続けた。 「だから、さ。おれは今日もあの子がちゃんとここにいることに、ちょっと安心するんだよ」 病室の中は、妙な静寂が埋めていた。米屋が扉を開く音に、は振り向きもせず、窓の外を見つめたままだった。彼女の細い腕と足には包帯が巻かれ、顔には大きなガーゼがつけられていた。痛々しい姿に、どきりと嫌な緊張に身体を支配されそうになる。いつも見ていたからかけ離れた姿に思わずその場の空気に飲まれそうになりながら、米屋は努めていつも通りに振る舞えるように気を持ち直す。 彼女の視線の先に目をやる。ボーダーの基地を見ているのかと思って、そんなに任務がしたいのかよ、と茶化すように口を開いた。 はゆっくりとこちらに向き直る。それからしばらく、じろじろと米屋を確認してから、「手ぶらじゃん!」と声を発した。存外いつも通りな様子に、米屋は少しだけ拍子抜けする。 「……元気そうだな」 「いや、全然元気じゃないよ。骨いっぱい折れたし、風間さんにら怒られたし、友達からの見舞いの品はない」 「見舞いの品については今出水と緑川が売店でなんか買ってきてる」 「あの二人もいるの」 「おう」 「あと、二人だけ?」 「え?」 と、言うと? と尋ね返す米屋に、は扉の向こうを一瞥してから、ふうと息を吐いた。 「犬飼先輩もいたでしょ」 「なんだよ、知ってたのか」 「まあね」 「犬飼先輩なら帰ったよ」 「やっぱり。あの人、いつも入り口まで来て、帰るんだ」 は小さく息を吐く。 知っていたならば尚更、犬飼はに顔を見せるべきだと米屋は思った。心配してるよと、声をかけてやれば良いのに。米屋の思案を他所に、多分呆れてるんだろうな、とは感情の籠らない声で続けた。 呆れている? まさか。と米屋は心の中で呟いた。犬飼は、呆れている人間のために繰り返し見舞いに来る程、お人好しな性格ではない。 「別に、しようがない。私はボーダーに入った時からずっとそうで、とりわけ誰かに迷惑をかけてる。だから、多分入る気が失せるんだろうね」 「それは違うと思うけど、迷惑かけてる自覚はあるんだな」 「殴るよ」 「自分で言ったんだろ?」 米屋は近くの椅子をベッドのそばに引きずってくると、そこに腰を下ろした。空いた窓からは暖かな陽が差し込んでいる。 犬飼は心配しているんだぞ、と言おうとしたけれど、言ったところで彼女が信じるとも思えない。話題もないので、米屋は先程耳にした話を口にした。 「ところでさ、お前病院抜け出したらしいじゃん」 ぴくり、との肩が僅かに動いた。煩わしそうに、「あー……」と声を漏らして、目を伏せる。「お説教?」と。 「それはお前次第だろ」 「と、言うのは?」 「答えによるってこと。行きたい場所があったんじゃねえの?」 「別に」 「まあ、風間さん達に言わないくらいだから、俺にも言えねえのかもだけど」 基地、もしくは警戒区域の方になんかあるのか? と米屋が務めて静かな声で言う。は外を見つめたまま「どうして?」と答えた。 「ずっとそっちの方を見てるから」 「暇なんだよ。外くらいしか、見るものがない」 「へー、そう」 嘘くさ、と心の中でこぼす。 ぎし、と米屋はベッドに手をつくと、「、こっち見ろよ」と言った。わざとだと思うくらいに、ゆっくり振り返るは、すぐ近くに米屋の顔があっても顔色ひとつ変えずに、真っ直ぐに瞳を見つめ返している。まるで敵と腹の探り合いをするかのような鋭い気配がダダ漏れだ。これでは米屋の質問に肯定しているようなものである。 その姿に、米屋はやれやれと思って、軽く頭突きを喰らわすと、ゆっくり椅子に座り直した。「いだっ」と小さく声が上がる。 「な、は、何、どうして頭突かれたわけ!」 「いや、お前、嘘が下手だなあと思って」 「意味分かんないし!」 「分かるだろ。俺が言ったこと、図星なくせに」 「……む」 彼女はしばらく口をモゴモゴさせて何か言葉を取り出そうとしていたようだったが、何も出なかったのか観念したように、肩をすくめて見せた。初めに「警戒区域」と言ったのはカマをかけただけだったが、どうやら、アタリらしい。それから、たっぷりと間をあけてから、「風間さん達には言わないで」と、弱々しい声で呟いた。多分、怒られるからとか、そんな安直な理由だけではないのだろうが、そのほかの理由も判然とはしない。とりあえずは「言わねーよ」と、米屋は頷いた。 その言葉の真意を確認するように、米屋の瞳を覗き込んでから、は観念したように溜息をこぼして、言った。「実は、夢を見たの」と。 「内容は全然覚えてないけど、警戒区域で誰かに会った気がする。そう言う夢」 「誰か?」 「うん。顔はわからないよ。靄がかかったみたいに思い出せない。でも、夢の中で何度も会うの」 「それで?」 「その夢の内容が、私の足りない部分に、必要なところだと思う。ずっと探してた部分」 「その顔のわからない誰かがその鍵ってことか?」 「わからないけど、なんていうか、夢の場所に行けば何かわかる気がして」 には、欠けている記憶があるそうだ。第一次大規模侵攻があった時期のことをよく覚えていないと、以前に聞いたことがある。何も覚えていないから、ネイバーに対して恐怖も怒りも何もないのだと。自分は空っぽなんだと、よく他人事のように話した。 だから彼女は家族を亡くした三輪のようにネイバーを恨む気持ちが強くあるわけでも、悲しむわけでもなく、家族がいない事実をありのまま受け入れていた。 多分、その忘れてしまった記憶のことを言っているのだろうと思う。 「居ても立っても居られなかった。呼ばれてる気がして」 「だから、抜け出したのか」 「時間が経つとどんどんそれが分からなくなってきてる。そんなに大事な夢だったかなって。もう、今すでにそうなの。だから、すぐに行きたかった」 は深く息を吐き出す。もう、彼女が病院を抜け出すことはないのだろう。彼女の声色から諦めの色が滲んでいるように思える。米屋は「あのさ」と口を開いた。言葉を探しながら、続ける。 「俺はネイバーのせいで家族が死んだわけじゃねえし、記憶がなくなったりしたわけでもねえから、気持ちがわかるなんて無責任なことは言わないけどよ。なんつうかさ、居ても立っても居られなかったのは、わかる。でもさ、皆お前のこと心配してんだから、その気持ちは汲んでやれよな」 「うん……」 「風間隊も、出水も緑川も、俺もさ、今のお前を心配してるわけ。わかるか?」 「今の私……」 そうだ、今のを心配している。 何が欠けていようが、言うことを聞かない問題児だろうが、この平穏に不釣り合いだろうが、今ここにいるをだ。 「だからちゃんと休んで、早く治して、そんで模擬戦やろうぜ」 説教なんていう柄でもないので、米屋はなんでもないふうに早口にそう付け足して、自分の頭の後ろに腕を回した。扉の向こうから、ふと出水と緑川の話し声が近づいてくるのが聞こえたのもそのタイミングで、いつの間にかどこか重かった空気が薄らいだような気がした。 やわらかい日差しと一緒に窓風が緩やかに流れ込む。カーテンの揺れる音を聴き、ゆっくり空気を吸い込むとは、ようやく心から笑ったような気がした。 「わかったよ」 それと同時にバンと無遠慮に病室の扉が開いた。出水と緑川が顔を覗かせる。「見舞い、来たぞ」と出水。 「二人とも待ってたよ」 出水や緑川と話すを横目で見ながら、米屋は犬飼の言葉を思い出して、それから頭を振った。 やめよう、考えても仕方のないことだ。 「どうした米屋」 「いや、なんでもねーよ」 「今日もあの子がちゃんとここにいることに、ちょっと安心する」 ( 230702 ) |