「あああやってらんねえっつうの!」


タラリと背中を伝う汗に、ついに私の苛立ちが頂点に達した。喧しい蝉の鳴き声に割って入るようにして叫ばれた私の声は、空しくも1人きりの教室に溶け込む。私はそれから鞄に入れていたタオルで乱暴に首を拭うと、それを力任せに机のまだ真っ白に近い数学のプリントに叩き付けた。

そもそもおかしい話だ。私立の癖にクーラーをけちっていやがるなんて。そして更におかしいのは、あの脳みそ空っぽの丸井がこの数学の補習に呼ばれていないということだ。暑い事や補習プリントが難しい事にも腹が立つが、丸井に負けた事が何よりムカつく。


「だあああの赤毛次会ったら丸刈りじゃああ」
「…荒れとるのう」
「――なっ!?」


突然耳に飛び込んできたその聞き覚えのある声に、私はバランスを取りながら座っていた椅子からひっくり返った。ガターン、と派手な音が響く。頭を打ってグラグラと揺れる視界に、例の立海ジャージを着た仁王の姿が映った。


「いっだだだ」
「大丈夫か」
「大丈夫に見えるかコノヤロー。ただでさえ苛ついてんのに余計に怒りメーター上がったわ」
「そらすまんのー」


棒読みも甚だしかった。申し訳ないなんて微塵も思ってない事がありありと分かる。どうしてコイツがここにいるのかという疑問は今は捨て置くことにし、私は倒れたまま、仁王を睨み続けていると、何を思ったか、彼はため息を零した。彼の視線の先を辿れば、そこには倒れた拍子にめくれ上がったスカート。パンツが見えているわけではないが、なかなかに際どい位置だった。


「――何見てんだ、このエロペテン師」
「お前さんが自主的に見せたんじゃろ。俺は見たくなかった」
「ふふん、とか言って私の美脚に釘付けとかそういう」


私はそのまま足を組んで、帰宅部ならではの白い肌を奴に拝ませてやる。といってもムカつく事に仁王も肌は白くて綺麗だが。


「やめんしゃい。仮にも女じゃ、後悔するぞ」
「は、後悔?」
「つまり、」


そこで言葉を切った仁王の手がスッと伸びてきた。そうかと思えば、その指が私の晒された太股をなぞる。びくりと心臓が跳ねて、私は飛び起きた。間髪を入れずに目の前で飄々としている馬鹿にパンチを繰り出す。しかし、かなり動揺していた事もあって、それはいとも簡単に避けられた。


「ふふふざけんな!何しやがる!」
「だから後悔するっちゅうたろうが」
「実演すんなハゲ!」
「ハゲとらん」


バクバクとうるさい心臓を押さえ付けて、仁王に背を向ける。よくもあんな事ができるな。流石、無駄な美貌で数々の女子を泣かせてきただけはある。…関係ないか?
そんな事より、これ以上仁王といたら私の気が変になりそうなので、サッサと出て行けと窓の外を見つめたまま、そう告げた。
それから、私は近くの机の上にどかりと腰を下ろす。数学のプリントの存在なんて、その時には最早頭の片隅にすらなかった。

私はそれから仁王に背を向けたままであったが、待てども彼からは一向に出て行く気配が伺えない。


「ほら、早く行けってば。つか部活は」
「暑くて逃げ出してきた」
「選手がこうじゃ、王者立海もここまでだな」
「何とでも良いんしゃい」


何故か愉快そうに言ったと思えば、それから仁王はなんと私が乗る机に、私に背を向けるように座ったのである。とん、と背を預けられ、再びどきんと体が強張る。


「ちょ、何」
「ここが涼しいからもうちょいここにおる」
「背中くっつけたら暑いし、離れろ」
「それはできない相談じゃあ」


くあ、と後ろであくびの声が聞こえた。確かに外よりは涼しいかもしれないが、ここにいられてはかなり困る。それに何故私に密着するんだ。余計に暑いじゃないか。
仁王に触れている背中が、夏の暑さとはまた違う熱を帯びていく。何でこんな奴に緊張しているんだ。
…ていうかこんな事するとか仁王、私の事好きなんじゃね?
ふとそんな自惚れた考えが頭を過ぎった。まさかまさか、とは思ったものの、一度意識してしまうと気になって仕方がない。私は試しにちらりと仁王を伺って見るものの、奴のポーカーフェースから心を読むのは至難の技だ。


「あー…のさ、」
「なん」
「好きでもない子にこういう事しない方が良いんじゃないの?」
「ぶふっ」


探りを入れようとしたら笑われた。背中を丸めて、クスクスと笑い出す仁王に苛立ちが増す。私は何がおかしいのか問うと、彼はひとしきり笑い終えてから、口を開いた。


「『俺はお前が好きじゃから問題ないじゃろ』とか言われるの期待しとるん?」
「っちが、」
「俺がお前さんを好きかどうか気になるクチか」


見事に図星を突かれて、ぐっと私は言葉に詰まる。しかしここで黙ったら奴の問い掛けに肯定しているようなものだ。それも癪なので、私は首を激しく振ってやる。


「誰が!私はアンタみたいな、駆け引きしたり回りくどい事する奴は御免だね。仁王よりも直球勝負の男にグッとくるもんだっての」
「ほーお」
「何、何か文句、」


そこまで言いかけて私は言葉を飲み込んだ。振り返った目の前には仁王の顔があったのである。想像以上に至近距離だったために、私は小さく悲鳴をあげた。


「そら残念なり。俺はが好きなんじゃがなあ」
「は…っ」
「好きじゃ」
「…」
「どうじゃ、結構直球勝負だと思わん?」
「…っ」


まるで惚れたかと言わんばかりの表情だった。ちなみにそんな顔にも、普段からは想像もできないほどの真面目な声に、不覚にもときめきかけた。いやときめいた。


「ほれ、なんとか言いんしゃい。好きなんか、嫌いなんか――のう、


そんな風に耳元で囁かれたら、もうそれこそ黙るしかなかった。


コイツは分かっている。私が仁王に惚れてしまった事を――いや、私が最初から、もっと前から仁王に恋をしていたという事を。



Alea jacta est
(賽は投げられた)


( 「もうあとには引けない」あの時の彼もそう言った // 130305 )
実は幸村の話を書くのが苦手なので、仁王でごまかそうとする。
ちゃんと祝ってはいるつもりなんだ。おめでとう幸村。