ベートーベンの肖像画の目が動くとか、西棟の一番端にある階段は上る時と下りる時で段数が違うとか、どこの学校にも怪談話のひとつやふたつはあるものだ。それは我が氷帝学園でも例外ではない。氷帝は、歴史のある学校とは言え、あの跡部先輩が入学してからと言うもの、大学部から幼稚舎まで全ての校舎が改築や増築によって、まるで新設校のようにぴかぴかに生まれ変わり、正直、一見怪談話などには無縁にも見える。しかし、実はこの学園にも一つだけ、そういう類の噂話があるのだった。 普段吹奏楽部なんかが楽器を運ぶ時に利用する貨物用のエレベーターの中に取り付けられた鏡は黄泉に繋がる入り口だという、何処かで聞いたような噂話だ。貨物用のエレベーターは、荷物の運搬以外にも、生徒の利用は許可されているのだけれど、設置された場所が棟の隅なので不便だからか、はたまたそんな噂がちらほらと流れているせいか、利用する生徒はまるでいなかった。 ちなみに私はといえば、怖いもの見たさに、わざわざ放課後の日暮れ時に例のエレベーターの前までやってくる程のオカルト好きである。放課後の予定など一つもない帰宅部にだからこそなし得る我ながら馬鹿らしい暇の潰し方だ。どきまぎと好奇心と恐怖心が拮抗する心臓を押さえつけながら、エレベーターのボタンを押すと、扉は思いのほかすぐに、ごうんと音を立てて開いた。しかし私の足がエレベーターの中へと進む前に、鏡に映る自分の背後のそれに、私は思わず腰を抜かしたのだったのである。 「っ、キノコオオオオ!!キノ、キノコオオ!!」 誰もいるはずがないと思い込んでいた自分の背には凄く凄く見覚えのある頭が見えて、私は素早く後ろへ振り返ると、そこには不機嫌そうな日吉の姿があった。彼にやかましいとでも言いたげに鋭く睨みつけられてしまえば、私はもう何も言えなくなってしまうのだけれど、何にせよキノコじゃなくて良かった。違う、幽霊じゃなくて良かった。 ボタンから手を離していたエレベーターが、使わないなら閉まりますよとばかりに後ろでがしゃんと扉を閉じる音がした。 「び、びっくりしたじゃないか。てっきり本当に黄泉からの使者が現れたのかと」 「…何だ、お前も鏡を見に来たのか」 日吉は確か部活があったはずだろうに、鏡を見るためにわざわざ来たのかと、テニスウェアではなく、すっかり制服を着ている日吉の姿をまじまじと見つめた。話を聞くと、彼は部活はとっくに終わり、どうやら部室の鍵を職員室に届けた帰りだという。なるほど、もうそんな時刻か。 「ふうん、ということは日吉も怪談好きなのか。意外だなあ」 「…」 「何、別に恥じることじゃないよ」 「そんなこと言ってないだろ」 「でも知られたくなかったーって顔してる」 そう言えば、クラスでよく本を読んでいるけれど、あれはきっとそういう内容の本なのだろう。やけに真剣に読みふけっている上に、カバーをきっちりつけているものだから、もしや顔に似合わずエロ本かと勝手にわくわくしていたが、どうやらそれは外れらしい。 「良いじゃんオカルト。面白いじゃん」 「フン、その割りに半泣きだったけどな」 「は、泣いてないよ」 目尻に溜まっていた涙(じゃないけど)を慌てて手の甲で拭うと、意味のわからない強がりを示した。日吉はと言えば、人の弱いところをつくのが楽しいらしくて、口角を上げて笑っている。 「いいや、泣いていたな」 「幽霊に会えたんだと涙がフライングを決め込んだだけだよ。いや泣いてないけどほんと」 「もう少しまともな嘘をつくんだな」 「嘘じゃないってば」 「じゃあ来いよ」 しばらく口論が続くかと思えば、日吉はあっさりとその流れを断ち切って、エレベーターの前へと進み出た。ほら、と顎でしゃくって、私を中へと促す。 「いや、遠慮奉り申しあげるよ」 「お前会話のそこここに教養のなさが滲み出てるな」 「古典苦手なんだよ。遠慮するって言ったつもりなんだけど」 「なんだ怖いのか」 「そりゃ怖いよ、いやでも泣いてはないけどな」 「ここまでくると嘘も清々しいぞお前」 ああ言えばこう言う奴とは日吉のことを言うのだな、と思った。もしかしたら彼も私に対して似たようなことを考えているかもしれない。どうでも良いけど。今度から日吉のことをこう言う奴って呼んでやろう。もはや大元がなんだかさっぱりだけれども。 というか、逆に日吉は幽霊が怖くないのだろうか。本当は怖いけど見たいと言うのが人間の心理と言うものではないのか。 「あながち間違いではないな。だが俺は違う」 「分かった人間じゃないのか」 「…。良いことを教えてやる」 「え、何」 「お前と話すと疲れる」 ばたん、エレベーターが日吉だけを連れて閉じてしまった。四階、五階、彼を乗せた箱はどうやら上に向かっているらしい。 何て悲しい会話の幕引きだろう。遠くでカラスが鳴いている。それからあとはよくわからない鳥の声もして、それらが相まって私の遣る瀬無さを助長させた。 「なんだよ、日吉なんて不思議の世界に連れて行かれちゃえ」 私は口を尖らせて勢いのままエレベーターの扉を軽く蹴飛ばすと、そこに上履きの足跡がちゃっかり残った。このぴかぴかの校舎に何てことをとすぐに制服の袖でそれを拭きにかかって、見ていた人がいないかと辺りを見回す。私はありんこメンタル チキンハートなのである。 そのままどれくらい時間が過ぎただろう。ぼんやり再び目の前の扉が開くのを待っていたのであるが、だんだん日吉の事が心配に思えて、エレベーターの扉に向かって、さっきのは嘘だようと声をかける。 「日吉に神のご加護を、アーメン」 十字を切ったら何だか縁起が悪く思えて、もう一度「嘘だよオオオ!」と、今度は強く扉を叩いた。後から考えると我ながら馬鹿なのかなと思った。私の頭に住み着いたイメージの日吉が教養のなさが滲み出ていると爆笑していた。 心配せずとも、エレベーターで帰ってこないとなれば、おそらく、彼は一番上の階に辿り着いてそこからエレベーターではなく階段なんかで下りてくるつもりなのだろう。 「いやでも本当に不思議の世界に連れて行かれたらどうしよう、私のせいだろうか。いやまさか」 けれど普通ならば、せっかくだし、上の階までいったらまた下まで帰ってくるんじゃないの?うわあどうしよう。くだらない想像を繰り広げているうちに、待ち望んでいたエレベーターが扉を開いた。しかし中にいたのは日吉ではなくあの有名な跡部先輩だった。 「まじかよ」私の、おそらく名状し難い表情に、奇妙な巡り合わせで対峙した跡部先輩もそんな顔をした。 「…俺様に何か用か」 私なんざ見ず知らずだろうに、何も言わずに横を通り過ぎて行ってしまわなかったのは跡部先輩の優しさなのだろう。 私はよろよろ跡部先輩へと近寄ると、先輩の腕をがっちりと掴んだ。確かこの人は日吉の部活の先輩だったはずだ。あのう、跡部先輩。 「…日吉が不思議の世界に連れて行かれちゃったら、先輩のインサイトで日吉を探してくれますか、ぐすん」 「お前何下らない事言ってるんだ恥ずかしいからやめろ」 「え、あ、日吉生きてた!」 「勝手に殺すな」 跡部先輩が答えるよりも前に、すぐ後ろで日吉の声がした。彼は相変わらず私を馬鹿にしたような表情で、私を跡部先輩から引き剥がす。俺のクラスメイトがご迷惑をかけましたとぴちっとした謝り方をしたので、私もつられて頭を下げた。「私のクラスメイトがご迷惑をかけました」日吉は女の子に手を出さない奴だと思っていたのだが、今回ばかりは蹴っ飛ばされた。 「お忙しいところ引き止めてしまったようですいません。こいついつもこうなんです。俺からよく言っておきます」 「オカンか」 「…よく分からねえが、下校時刻が迫ってる。早く帰れ」 「はい」 日吉だけきりりと答えてしまうと私の腕を引いて、結局私達は教室へと戻って行った。日吉の話によると、エレベーターが開いた先にちょうど先輩達がいて、話し込んでいたと言う。さしずめその間に別の階から跡部先輩が乗ったのではないかと。 「いやあ、日吉が死んだと思ったら私のありんこメンタルズタボロだよ」 「俺があっさりとやられるわけないだろう」 「そういうのフラグって言うんだよ日吉」 「フン、そんなに心配なら今度はお前もついてくるか?」 「遠慮奉り申しあげるよ」 すっかり誰もいなくなった教室で、私は帰りの支度をしながら(日吉は既に終わっていた)そんなやりとりをしていた。今回日吉の乗ったエレベーターでは何も起こらなかったらしい。まあ、跡部先輩も普通におりてきたしな。それにしても跡部先輩には後でもう一度きちんと謝りに行こうか。怖いから日吉も連れて。 「ああ、そうだ。ビビりのお前には俺がとっておきの怪談話を聞かせてやる」 「それは聞こう」 人が怖がる姿が本当に面白いのか、珍しく嬉々とした様子で日吉が言うので、いつもはクールな彼もこういう姿はきちんと同い年に見えるなあと、ちょっとばかし親近感を覚える。 私は怖い話を聞く分にはまったく抵抗はないので、のりのりでそれに頷くと、日吉があからさまに不服そうな顔をしていた。 「怖くて夜眠れなくなっても俺は知らないぞ」 「そうしたら日吉に電話かけても良いかい」 「好きにしろ。どちらにしろ出てやらないからな」 本当にああ言えばこう言う奴だなあと思った。マジでイタ電かけてやろうかな。 (プルルルル) (…) 「…もしもし」 『あ、日吉?』 やっぱり眠れないからイタ電したよ ( そうして翌朝日吉にキレられる // 140915 ) 私がはまっていたアプリを落としてくださって一緒に冒険の旅?笑 に出たのがきっかけで今ではもうすっかり仲良しさんだと私は勝手に思っています。<○><○>カッ 遅くなってごめんなさい。しっちゃかめっちゃかですが、暇つぶしになれば! リクエスト : ツバキちゃん |