はカカオでできている。

一時期そんな噂がまことしやかに流れるほど、彼女という人間は常に板チョコレートばかりを口にしていた。だから彼女はいつも甘い匂いがしたし、きっと噛み付いたらチョコレートの味がするのだと思う。俺は大真面目にそう信じている。
そんなカカオの彼女はよく校舎の隅に置かれたベンチにいた。どこからか入り込んでくる野良猫をあやしながら、チョコレートを齧っている姿をこの三年間、もう俺は飽きるほど見ている。猫といるのが、一番楽なんだって。仁王も同じこと言いそう。仁王に似ていると言えば、地に足がついていないところも、よく似ていた。たぶん、彼女の世界にはチョコレートと猫しかいなくて、人間の喧騒はぜんぶ風の音ぐらいにしか思ってない。以前そう言ってみたら、彼女は否定もせずにただ笑っていた。
そうして今日も例に漏れず、春の気配のするやわらかな午後の空気にチョコレートの香りをかき混ぜて、彼女はそこにいる。

「やあ丸井君、調子はどう」
「絶好調」

だぼっとした水色のセーターから、の白い指が覗く。右手は板チョコレート、左手は膝の上で寝転ぶ猫のお腹にふわふわと当てられて、俺に気づくと丸まった背中が少しだけ伸びた。お昼は食べたの? と彼女。ベンチの隣に腰を下ろしながらそういうお前は、と問い返すと、彼女はチョコレートを案の定チラつかせた。現在進行形で昼食中らしい。
ケーキをホールで食う俺が言うのもナンだけれど、こんな生活をしていたら彼女は早死にすると思う。どうせ言っても聞かないので、俺は言葉を飲み込み肩をすくめて日向に黙って当てられていると、真っ白な猫の一匹が俺の膝の上にひょいと飛び乗った。その鼻は俺が手に持っていた包みを探り当てたようだ。の丸い瞳もこちらへ向く。

「その猫、丸井君に懐いてるよね」
「そんなことねえだろ」
「あるよ。だって彼女、私の膝に乗ったことないもの」
「ふうん」
「ところで、それはなに?」

それ、とは包みのことだろう。その質問に同意するように、膝の白猫がにゃあ、と俺を見上げた。何だと思う? 小洒落たラッピングに包まれているのはマドレーヌで、それを指で弾くと、の瞳の奥の光がしぼんだようだった。もともと大した興味はなかったようで、あっさりとわからんなあ、と間延びした声が生ぬるい風に溶けていく。やっぱり、どうでも良さそう。

「……。もっと興味持てっつうの」
「んー……」
「今日は何の日か考えた方が分かりやすいかも」
「三月十四日?」
「そう」
「うううん」

彼女の指がチョコレートの銀紙をめくる。ぺりぺりと銀紙がむけるとたちまち甘い匂い。小さな口がチョコレートをくわえて、ぱきん、と板が割れる。真っ白でやわらかそうな指がチョコレートを摘むところとか、チョコレートを舌の上で転がして飲み込む喉の動きとか、がチョコレートを口にする姿はとても綺麗だ。何だか変な話だが、俺はその姿にひどく惹かれた。

「あっわかりました丸井先生」
「はい、さん」
「三月十四日は数学の先生のお誕生日」
「え、なにそうなの」
「うん。先生の車のナンバープレートが三一四なんだ。前にそんな風の噂が吹いていた」
「へー吹いてたんだ」
「たぶん。でも、どうやらこの話とは関係ないみたいね」
「うん」

チョコレートが好きなくせに、カカオでできているくせに、真っ先にホワイトデーが出てこないなんてな。どんな頭してんだろうと思う。あ、猫とチョコレートしか頭にはいないのか。このままでは答えは出ない気がして、ホワイトデーだろい、ホワイトデー、と俺はさっさと包みを彼女の膝の上に載せた。チョコレートを齧る彼女の手が止まって、目が少しだけ見開かれた。太陽に照らされて瞳の色が俺には茶色く映る。アーモンドみたいだ、と思った。俺がそういうことばかり考えているからじゃなくて、たぶん、皆そう思う気がする。彼女は本当にお菓子でできていて、きっとかじると甘いんだ。
しばらく彼女の視線が包みに落ち着いていたけれど、俺に返ってきたのは訝しげな表情だけだった。その予想はしていたし、彼女の言いたいことも分かっている。だって俺は彼女からバレンタインのチョコレートを貰っていない。

「丸井君、ホワイトデーとはバレンタインのお返しの日だよ」
「知ってる」
「私は君にチョコレートはあげてないはずだけど」
「だから」
「どういうこと」
「これはお前に対する当て付けかな」
「ほう」

チョコレートをくれなかった当て付け。の、お返し。つまり仕"返し"。俺が繰り返すと、彼女はもう一度頷いてふうん、ありがとうと、とんちんかんな台詞を返した。俺の言っている意味が分かっているのだろうか。いや、たぶん分かっていないか。予想よりも幾分もは俺の言葉を気にも留めぬようなけろりとした顔でいるから、俺は何だかなあとやるせない。何だかなあ。
期待はしていなかったけれど、丸井ブン太はのチョコレートを期待していた、つまり? という等式が僅かにでも彼女の頭に浮かべば良いと思った。とはいえ丁度ひと月前の2月14日、毎日チョコレートを携帯しているに、ひとかけらだってそれをもらえなかった時点で、こうなることは決まりきっていたではないか。
でも、この学校の男子の中じゃあ誰よりもと仲が良い自信があるのに。

「そんなにチョコが欲しかったの?」
「うん?」
「だって今丸井君すごい不細工な顔してる」
「失礼だなお前。せめて渋い顔って言えよ。学校一イケメン捕まえといてよ」
「いやいや私が思うに学校一イケメンは幸村君かな」
「うん、まあその名を出されると俺も黙らざるを得ないけどさ」
「丸井君の稀に見る慎ましさ」
「丸井君はいつも慎ましいだろ」
「冗談うまいね」
「お前ってホント失礼な」

2月14日にチョコレートがもらえなくたって、何も言わずに今日まで過ごしてきた(今、嫌味は言ってしまったが)。催促なんて少しもしなかったし、何も貰えなかったけど俺はにホワイトデーのマドレーヌまで用意した。慎ましい以外の何者でもない。それなのに、くそ、少しくらい悪びれろ。とか、文句を言いつつも俺はがこういう色めいた行事に興味がないことは百も承知で、だからたとえ彼女が俺に好意を持っていたとしても、きっとひと月前の俺の手には彼女のチョコレートはなかったのだと思うのだ。だから期待するだけナンセンス。割り切るしかないことはわかっている……というのは半分俺の希望。
俺が黙りこくるとしばらくの間の後ふいに、欲しかった? がもう一度聞くので、俺は今度こそはっきり頷いた。欲しかった。

「ごめんね」

にゃーん。俺の返事の代わりのように膝の白猫が鳴いて気が抜ける。お前が返事すんな。彼女は相変わらず隣でチョコレートをかじっていた。じゃあひとかけらあげようか、とかならないあたり流石である。
……結局くれねえのな。苦笑というか、ため息というか、最早どちら分からないくらいの声を漏らすと、彼女がおもむろにブレザーのポケットを探った。

「……んー、んん、よしじゃあこれをあげよう」
「何これ、スティックココア?」
「私のイチオシ森永のココアじゃよ」
「バンホーテンって書いてあるけど」
「私のイチオシのバンホーテンのココアじゃよ」

うわ適当言ってるやつー、と俺はあえて口には出さなかったけれど、どうやら視線でわかったらしくが、そんな目で見ないでと、腕で自分の顔を覆った。バカみたいだ。
バカみたいだけど、ちょっとだけ嬉しかった。

「夜眠れない時に飲むと良いよ。ミルクに混ぜて。火傷には気をつけてね。猫舌なんでしょう」
「そんなこと一言も言った覚えねーし、つうか俺のことも猫かなんかだと思ってる?」

俺の台詞にはきょとんと俺を見つめたけれど、すぐに、あはは、似てるかもと口元を緩めた。まんまるだけどちょっとつり目とか、髪が思った以上にふわふわで柔らかいところとか。冗談で言ったのに細くて白い指が俺と猫の共通点を数え始めて、それから、ふいに彼女の手が俺の髪に伸びた。息を呑む。ふわふわ、と優しく俺の髪を撫でて、梳いて、まるで本当に猫にでもなった気分だ。こいつらはいつもこんなふうに彼女から愛を受けている。だけど、だけど所詮は猫か、と思ったらひどく白けて、俺の頭に伸びる腕を掠め取って遮ると彼女の首に唇を寄せた。突然不安定になった膝の上から、猫が慌てて逃げていく。
俺は彼女の匂いに埋もれた。チョコレートとは違う、甘く酔いそうな香り。でもチョコレートよりうんと惹かれる。舌を這わせるとの身体が小さく跳ねたから、俺は彼女の耳元でそっと口を開いた。

「俺が猫なら、はこんなことしても猫に噛まれてるくらいに思うの」
「……丸井君」
「うん」

俺の名前を唱えると、一瞬だけど、の震えた息がもう落ち着いていた。俺に捕らえられていた手が、再び俺の頭に辿り着いて、さらりとら髪を撫でる。

「あのね」
「なに」
「チョコレートは猫には毒なんだよ」
「……ふうん、だから?」
「だから本当に猫だと思ってたらココアは渡さないよ」

そういうことじゃねーよ。と思ったけど、言うだけ無駄なので、彼女の鎖骨へ額を当ててぐりぐり押した。痛い、と彼女の手が俺の頭をぽこんと叩いたけど俺はやめない。あーもー傷付けば良いのか自惚れて良いのかわっかんねーよー。だいたい、俺が言うことではないけれど、こんなことされても動じないの図太さ。いや、むしろ俺ってアウトオブ眼中なんじゃね? とか思う。辛い。

「ちなみに、さっきから丸井君顔が不細工だから言うけど、」
「……おいだから不細工って言うな」
「どうでも良い人にも私のココアはあげないの。不細工でも」
「……そりゃどーもっつうか、人の話聞いてんの」
「聞いてるよ」

そうして俺は顔を上げようとしたら、頭を撫でる彼女の手が頭を抑えて俺は動けなかった。あれ。顔は上げないで、とが言う。どうしてか聞いてはみても答えをくれないので、俺は無理やり顔を上げると、すぐそばに耳まで赤い彼女の顔があって、視線が絡むなりパッとそっぽを向いた。……顔上げないでって言ったのに、丸井君こそ人の話聞いてない。とのくぐもった声が、顔を覆う手の下から漏れる。え、まさか照れてんの。まさかまさか。てっきりアウトオブ眼中なんだと。まさか。……えええ。

「……うわあ」
「なにうわあって、」
「うわあ顔真っ赤……」
「言わなくていいよ、もうあっち行って」
「なあ、キスしてもいい?」
「あっち行ってってば」
「嫌だけど」

飄々と答えてやると、俺は逃げ出そうとする彼女の腕を引き寄せたのだった。

たとえバレンタインが貰えなくとも、持ち合わせのスティックココアが出てきても、彼女が人の話を聞かなくとも、きっとこの顔を見たのは世界中の男の中でもたぶんこの俺だけで、その顔はひどく愛しくて、そう思ったら俺はぜんぶどうでも良くなった。

中のココアと猫背の






( ホワイトデーです // 160315 )
久しぶりに短編を書いて迷走。demo tanoshi katta!