ことんと教科書を揃えるのと同時に隣の席の椅子が引かれた。遅れて四限目の終了を告げるチャイムが鳴って、廊下が一気に騒がしくなる。今日も購買戦争に乗り込むつもりなのか、他の生徒に混ざって赤い髪が教室を飛び出していったのが私の視界の端に映ったけど、意識をそちらに移し切るよりも早く、同じく少し早めに切り上げられた授業に席を空けた隣の席の主に代わるように、仁王がそこへ腰を掛けた。

「なんじゃ、今日はやけに大荷物やのう」

片腕を放り出して机にしなだれかかる仁王はついでのように私の顔と、それから横にかかっているカラフルな紙袋達の方を一瞥した。すました顔で「旅にでも出るんか」とわざとにしても粗雑な冗談を口にするものだから、たちまち彼のポーカーフェースが胡散臭く見える。
袋の中身はお菓子や欲しかった手帳、文房具が詰まっているだけだ。だけ、と言うには私の胸を躍らせるものばかりだし、もちろんどれも旅立つために必要な代物ではない。つまるところ私の誕生日プレゼントというやつだった。それは仁王自身も当然分かっているだろう。

「仁王は?」
「うん?」
「私に先立つものはないの」

彼の目の前で手のひらをぱっと開いて「十四歳からの旅立ちっすよ」と私はプレゼントを催促してみる。ちょっと格好が悪く思えたけれど、仁王が自ら私のそばに来たということは何かしら期待しても良いと言うことだろう。それでも、沈黙はしばらく続いた。今日に至っては丸井も音沙汰がないけれど、まさかまじで私の誕生日を忘れていたのだろうかと不安になりかけたとき、切れ長の目が少しだけ見開かれて、彼の視線は教室の扉の方へ移っていた。「あれ」と顎でしゃくられた先には、購買から帰ってきたらしい丸井の姿がある。どこか満足気にちょっとだけ大股で、ぽーいと足を投げ出すみたいに彼の一歩が丁度教室に踏み込む瞬間だった。

「あれやる」
「え、あれって、丸井?」
「そう」
「いやあ、あれはいらないかな」
「うん?」

自分の名前が上がったのが聞こえたのか、はたまた視線を感じたからか、彼もこちらの様子に気づいて、足を宙に留めたまま器用にぴたりと止まった。「おかえり」と手を振ると、仁王も真似してゆらりと手を持ち上げた。たちまち丸井はきゅ、と表情を引き締めて、うん、と大袈裟なくらい頷く。彼のこんな顔はあんまり見ない。ほんの束の間、まるでこれから何かに挑みに行くみたいな、強張った顔をした。バランスを崩したか彼の腕の中からパンの袋が一つぽろっと零れる。おいおい。

「なんかあったのかな丸井」
「さあ」
「とか言って笑ってる仁王」
「お前さんの顔が笑えるもんでな」
「は、ぶつよ」

机にしまいかけていた教科書がばこんといい音を鳴らした。仁王が右腕でそれをかろうじてかわしたのを見て、心の中でチッと舌打ちをする。薄く笑う仁王の口元を摘み上げてやりたかったけど、その前に丸井は「なんの話」と何事もなかったみたいに横までやって来たので、誕生日の話、と簡潔に答えた。ピクリと丸井の肩が揺れた。
私は丸井の腕の中のやっぱり今にも零れ落ちそうなパンを一つ取り上げる。生クリームとフルーツがたっぷり挟まれたサンドイッチに、太りそうだと内心思ったけど、きっと彼らはハードを極めたことばかりやっているからこんなのカロリーを取ったうちに入らないんじゃないかと思う。

「仁王がさ、誕生日プレゼントに丸井をくれるって」
「は?」
「でも丸井もらっても困るし、このサンドイッチもらっていい? っていうか君私の誕生日知ってた?」

知らないっすよね、はいはい。答えを聞くのも悲しく思えて、続く言葉もしらんぷりをした。そもそも知っていても、特別何かする必要はないと思われていそうだ。なんたって私達は普段から、お互い、すれ違いざまにどついてみたり、お昼を横取りしてみたり、小学生みたいなやりとりばかりしている。改まって何かをプレゼントをするのも、気恥ずかしく感じるかもしれない。
だけど、向かいにいた丸井は、いや、と口を開いたので、あれ、もしかして知ってたの? と私は伏せかけた視線を持ち上げた。彼は何かを言いかけたり、やっぱりやめてみたり、そんなふうに口をぱくぱくさせていた。

「知っとるって」

仁王が代弁したけど、そうされなくともどうやらそのようであることは分かる。まあいいやそれなら話は早い。丁度お昼もないからこのサンドイッチを譲ってくれるだけで良い。

「まあ、どうせもらえるなら幻のホワイトドーナツ? あれ食べたかったけど」
「ドーナツ?」
「ほら、駅前にあるじゃん。朝五時から並ばないと買えないってやつ」
「あー、あったのうそんな店」

お一人様二つまで、とか言う張り紙が扉の前に大きく張り出されている駅前のドーナツ屋は、限定品目当てでなくとも、よく長い列が出来ているのを見かけた。帰りがけに通ると甘い匂いがお腹を空かせるのである。それでも並ぶ体力はなくて、結局一度も食べたことはなかったけれど。
丸井の了承を得てはいなかったけれどサンドイッチの袋を破きながら仁王にドーナツ屋の話をすると、彼はあまり興味がなさそうに相槌を打った。彼はもとより食にあまり執着していないようだから、丸井に話した方が盛り上がるかもしれない。彼が一度席に戻ってから、多分持参した弁当の袋か何かを持ってきて私の向かいに腰を落ち着けたところで、私は彼へぱちんと手を合わせた。

「んじゃまあ、丸井さんお昼ゴチになります」
「はい、ちょい待ち」
「んあ」

ぱすん。顔に紙袋がぶつけられる。状況を認識するよりも早く、加えて「はぴば」と短い言葉に、ハッとした。まさか……! そんなふうに私はその袋をやけに慎重に触れた。中身は少し重い。紙袋をやおらずらして向かいの丸井へ目をやると、彼は明後日の方を向いてむしゃむしゃといつの間にか私のサンドイッチを食べていた。いや正しくは私のではないけれど。先程の反応と合わせて考えるとそれが照れ隠しであることが分かって、何だか私まで胸がくすぐったくなる。

「……誕生日のっすか」
「はぴばって言っただろい」
「さんくす」
「……おー」
「中身を聞いてよろしいか」
「マグカップです」

ぶふー、と仁王が吹き出して机に顔を伏せた。「何で笑うの」「なんか面白い」「そうかよ」かしこまったやり取りに私もまた、というか案の定恥ずかしくなって、気を紛らわす意味も兼ねて今度は仁王の足を狙って踵を落としたけれど、本当にどこに目がついているのか、彼はサッとそれをかわしてしまう。的外れなところへ落ちた足は、机を大きく揺らして私のペットボトルをぐらつかせていた。
箱の中のマグカップは黒猫の絵が描かれた真っ白なものだった。黒い尻尾のところが持ち手になっていて、こんなかわいいカップを丸井が選んだのだと思うとちょっと笑ってしまう。「ナイスセンスだろい」と丸井が言ったので私は「大事に使うね」と箱を撫でた。

「あとさあ」
「なに?」
「あと、お前昼ないんだろい」
「え、ああうん」
「ついでに、これもやるよ」

さっきより心持ち乱暴に、丸井が突き出した紙袋のロゴには見覚えがあった。真っ白なドーナツマークと、その真ん中に書かれているいつだって読めない英語の名前(本当に英語かも分からない)。「お、それ」と仁王が顔を上げたところで確信を得た。やっぱりそうだよ。ついさっき話題に上がった伝説のホワイトドーナツのお店の袋である。袋の中から甘い匂いが溢れてきているような気がして、背中がそわっとした。食いしん坊の丸井が、何故これを、とか、どうやって、とか、聞きたいことは色々あるけど、口よりも視線が何度も袋と丸井を忙しく行ったり来たりしていた。

「……なんだよその顔」
「いやだってこれ、……まさか袋だけで中身は別物とか」
「ちゃんと中身も『Proche』のドーナツだっつうの」
「ぷろーしゅ、……って読むんだそれ」

どう作っているのか、白いドーナツの生地に更にホワイトチョコがたくさんかかっていて、頭がくらくらするくらいとびきり甘いと噂のそのドーナツは競争率が高い。「一体どうしたの」と問うと、彼は「貰った」と、それだけ。誰にって聞いても、貰ったって、だからなんでどうして。それにしたってあの丸井がこんな価値の高いものを自分で食べずに私に譲るなんて。だって中身にはきちんと真っ白なドーナツがふたつ、入っている。お一人様ふたつまでの限定品が、きちんとふたつだ。それなのに最早あまり興味がなくなったみたいに大きなあくびをして、丸井は自分のパンをもりもり食べている。

「俺それ食ったことあるし」
「え、そうなの」
「そうなの。美味かったけどまあリピートはしなくてもいっかなーって思ってたところにそれ貰って、お前が食べたがってたの思い出してさ」
「タイミング良くの誕生日じゃしなあ」
「そうだなすげえナイスタイミング」

何だかふわふわした理由だなとは思ったが面倒だから追求はやめた。挑発的な仁王の台詞を早口で受け流して丸井は新しいパンの袋を開けた。ばりばり、とちょっとわざとらしくも思える乱暴な音が会話を途切れさせる。私は袋に手を突っ込んで、だけど触れるのは丁寧にドーナツを拾い上げると大きな口で齧り付いた。ホワイトチョコが口いっぱいに広がって、「ひええ」とやけに高い声が出る。甘い、美味い。これは予想以上だ。

「丸井にドーナツを譲った人に感謝だな」
「そうだなー」
「ほんとに丸井は食べなくて良いの?」
「欲しいって言って、お前それくれんの」
「あげないけど」
「いーよ。大事に食ってくれ」
「丸井が優しい」
「丸井はいつも優しいです」

ぽかぽかとした午後は私達の思考を柔くしていく。丸井の言葉に軽く笑って、適当に同意の言葉を並べていると、不意に「ブン太と仁王はいるか」と騒がしい昼休みの教室の中でもよく通る声が耳に入った。隣で頭を伏せていた仁王が返事の代わりに小さく手を持ち上げて、丸井もまた声の方へ振り返る。教室をぐるりと見回していた真田君は、いつも通りいかめしい顔をしている。以前、どうしていつも怒った顔をしてるの? と聞いたらそれが元々の顔だとそばにいた仁王が耳打ちをした。本当に怒ると眉間にもっとしわが寄るらしい。みたことはないけど、あれより怖くなるって心臓が縮んじゃうよ。
丸井と仁王は、ちょっと行ってくると気だるげに告げて席を立ち上がった。こうして彼らが部活の連絡をしているところを見ることは少なくなかった。たまに見かける練習も多分どの部活よりもハードだし、その上休み時間だってこうやって部活のことばかりで大変そうだなと思っていると、視界の端で白い何かがひらりと舞ったのが分かった。

「あれ、丸井何か落ちたよ」
「は?」
「なんか紙っていうか、レシート、」
「ん、レシー……あ!?」
「へ」

釣り銭を受け取る時にレシートごと握りしめたみたいに不恰好に皺の寄ったそれをすくい上げた私に、丸井は素っ頓狂な声を上げた。彼の手が素早く私の手の中からレシートをひったくって、手が空を掴んだまま、私は唖然と丸井へ視線をやると、彼はたちまち頬を赤くした。

「違う!」
「まだなにも言ってないけど」

ちらりと見えたレシートにはProcheの文字と、今日の朝早くにドーナツをふたつ買ったことが記されていた。当然私に譲られたこのドーナツのレシートだということは考えるまでもなく分かる。ただ、それを何故丸井が持っていたのかという話で、もしかしてこのドーナツをくれた人がレシートを袋にいれたままだったのかなとも考えたけれど、丸井の反応と言い、現実的に考えてそれはない。
貰ったと口では言っていたが本当はわざわざ買ってきてくれたのでは、と脳裏によぎる考えに、私は脇のドーナツの袋を見遣った。

「丸井、」
「違くて、これはなんつうか、」

あーとかうーとか唸る丸井を他所に、「何をしている」と急かすような真田の声が二人を呼んで、終いには彼はバツが悪そうに私から視線を逸らした。「別に隠さなくても良いのに」とはぽつりと口にはしたものの、多分改まってこれを私にプレゼントするのが気恥ずかしかったんだろうなとこっそり思う。

「これはお前のために買ったわけじゃなくて、たまたまだからマジで」
「ほう? たまたま朝早くから行列に並んだんか」
「そうだよ!」
「貰ったのでは」
「貰ったんだよ!」
「……めちゃくちゃだよ丸井」

なかったことにするみたいに、ぎゅ、とポケットに押し込まれたレシートはきっともう日の目を見ることはなさそうだ。まあ恥ずかしいのは分かったけど、そんなに全否定しなくても、と思う。
ほんとただの気まぐれだからな。友達だし、なんかしてやろうって、でも毎回こんなことしてもらえると思うな。調子のんじゃねえぞ。丸井はまくしたてるように言って、ぎゅるんと踵を返した。それから足早に真田の元へ行ってしまう。そんな彼の背を仁王は見遣ってから、私の方を少しだけ振り返って、「かなり前からお前さんの好物リサーチしとったぞあいつ」と言った。それは苦労をかけたと思う。

「誕生日にそんなに情熱をかける奴だとは思わなかったよ」
「俺もぜよ」
「そう」
「そんなんしとるの今まで見たことない」

そうなの? と首を傾げた私に、何だかおかしそうに仁王は「おめでとさん」と言った。お誕生日が、という意味だけにはどうにも聞こえなかった。今までに丸井は誕生日にこんなに一生懸命になってくれたことはなくて、多分きっとそれは私だけで。内包されている意味の一つが脳裏にちらついた時、私もカッと顔が熱くなるのが分かった。

「……えええ」






それから最後にもう一つ。
家に帰ってから友人達からのプレゼントの中に見覚えのない箱があった。中には洒落た髪飾り。それが銀髪のあいつからだということは、すぐに分かった。



( リハビリその2 // 151031 )
おそまつさま。