カキーンと、乾いた音に続いて野球部の走れ走れ、という掛け声。
うっすらと目を開けた私は俯せのまま、顔だけを窓の外に向けた。こういう目覚めは嫌いじゃない。しかし清々しい気持ちにもなれなかった。私はポケットから携帯を探って時刻を確認すると、――5時30分。日暮れの早いこの時期には部活が終了してもおかしくない時間である。昼休みに忍び込んだ保健室は、保険医が不在で、1限サボるだけのつもりが、どうやら相当長い間眠りこけていたらしい。
だるい体をのそり、と起こすと、ぱたりと生温い水滴が手の甲に落ち着いた。涙だった。

途端に数時間前の仁王の顔が浮かんだ。
2月14日のバレンタイン今日、私は彼にフラれた。保健室にサボりに来たのもふて寝するためだった。


「未練がまし」


私の心を代弁するように、誰かの声が保健室に響いた。ここには私しかいないと思っていたから視界の端に映った赤い髪に、私はギョッとする。今更遅いのに、慌てて頬を滑り落ちる涙を拭った。


「いつから、」
「今さっき」


お前が起きたらへんから、と丸井は私が座るベッドの近くの椅子に腰を下ろした。しかしこちらを見るわけでもなく、彼もまた、窓から見える校庭を眺めていた。
一瞬、部活は?とも思ったがこの時期は3年は引退している事を思い出す。私は帰宅部だったからそういう感覚が抜けていた。


「あのさ、」
「うん」
「…やっぱ何でもね」
「何それ」


私は、枕元に置いていた仁王に渡すはずのチョコを、枕の下に押し込んだ。さっきの口振りから丸井は全てを知っていそうだったけれど、なんだか体裁が悪かった。私と丸井と、そして仁王はいつも一緒にいて、それこそ誰もが羨む仲良しっぷりだったのだ。そこに友情以外の別の感情なんて抱くべきではなかった。私と仁王だけじゃない、きっと丸井とさえぎくしゃくしてしまうと思った。


「何で渡さなかったんだよ」
「…え」
「見えてんぞ。今更隠す必要ねえよ」
「…あっ」



そちらを見ずに枕の下に押し込んだものだから、結局それは上手く隠れていなかった。呆れ顔の丸井がため息をつく。


が仁王を好きな事くらいずっと前から知ってた」
「…そう」
「馬鹿だな」


丸井が何に対してそう言ったのか分からなかったけれど、彼が乱暴に私の頭を撫でたから、何かが込み上げてきて、たまらなくなった私は泣いた。嗚咽を繰り返して、私は再び真っ白い布団に顔を押しつける。


「…に、おう何考えてるか、全然わかんなくて、たまにこわくなる、けど」
「うん」
「3人で馬鹿やるときは、たぶん、あいつ、本気で笑ってて、その顔とか、あと…本当に時々、優しい声になるのとか、すきで、すごく、すきで」
「うん」
「…でも、フラれた」


滲む視界で横にいる丸井を捉えると、そっかと彼は頷いた。やはり彼はこちらをちらりとも向かなかった。
唯一見える彼の背中は、いつにも増して、悲しそうに見えた。もしかしたら丸井は私の悲しみを一緒に背負ってくれているのだろうかと、疑問が浮かんだ。


「――仁王さ、もっと冷たくフれば良いのに、本当に申し訳なさそうに謝るから、友達だからって言うから、」


そんな顔で言われた「友達」の言葉が、余計に重く思えた。私達の間には心の距離などなかったけれど、代わりにどんな事があっても越えられない一線があったのだ。それは一生友達でいる分にはなんの差し障りもない、大切な「友達」という囲いだった。


「あんな顔されたら、こんなチョコ、渡せなくて。仁王が私のチョコ、食べれなくて、困ってるの想像したら、チョコ持って逃げてた」
「…お前の思い込みだろい、渡せば良かったのにな」
「良いよ、もう。私の初恋は終わった」


枕の下から渡せなかった箱を取り出すと、丸井の背中に押しつけた。「食べて」他の子からのでもう飽きてたら申し訳ないけど。
丸井なら食べてくれると思った。きっとそれから私も一緒になってチョコを口に放り込んで、それで私は吹っ切れるつもりだったのだ。しかし彼からは予想外の言葉を突き付けられた。「いらねえ」


「え」
「他の奴にあげようとしたのなんか、食いたくねえっつってんの」
「…ああ、そか…」


じゃあ私一人で食べる。もう自棄になって、綺麗にラッピングした包装をビリビリに破き始める。すると、丸井はようやくこちらを向いた。包装を開けきる前に、私から箱を取り上げて、保健室のゴミ箱に振りかぶる。
がこんと、それはまっすぐに飛び、廃棄された。私の恋心を丸ごと捨てられたみたいで、苛立ちとかやるせなさとか色々な感情が一気に溢れ出す。


「ま、るいのばかっ」
のが馬鹿だろい」
「なにをっ」
「未練がましいって何度言わせんだ。泣いてどうにかなんのかよ。俺がチョコ食って慰めて、お前それで良いのか。俺はごめんだ。俺はお前の未練一緒に食って消化してやる気なんて微塵もねえからな。いっそ捨てちまえそんなもん」
「…」


慰めの言葉くらいかけてくれればいいのに、なんて思わずキッと睨みつけるが、私はすぐに、それがお門違いなことを悟った。なんだか自分が情けなく思えて、口を閉じ、うつむく。すとんと、今度はベッドに腰を下ろした丸井は、しばらく何も言わなかった。私がごめんと謝れば、彼は窓の外から視線を外してゴミ箱の方を見た。丸井も小さく、謝った。私はなんだか疲れてしまって、だるさに任せてぼんやりと思考を巡らせる。ふと、ある言葉を思い出した。


「――初恋は実らないって、そういや前に誰かが言ってたな」


丸井の顔がこちらへ向きかけて、止まった。

そんな言葉、始めは下らないと笑い飛ばしていたのだ。私はそんな言い訳がましい迷信を並べて失恋した自分を慰めたくないと、自分こそ初恋を叶えるのだと、漫画みたいな恋をする事を夢見てた。
だけど、本当にそうなってしまった。


「こんな下らない理論、どこの偉い奴が考えたのかねえ」
「…ホントだな。初恋なんてさ、きっと叶う方が稀だ」
「…丸井、」


私の位置からでは丸井の表情が伺えない。彼の台詞に、私は首を傾げた。私の吐くそれよりも、何倍にも自嘲の色を含んだ言葉に、私は妙な不安を覚えて、何か言葉を発しようとした。しかし、丸井がそれを遮るように、何かを告げるための息を吸う。「丸井、どうしたの、」何か言わなければ、そう思って零れた台詞は、当然彼を黙らせる力なんて持ち合わせていない。

それから彼が私に告げた言葉は、やはり慰めでも、私への中傷でもなかった。


「…お前が好きだった俺もさ、その理論のレールに、見事乗っかったわけだ」


彼の言葉は、今までの中のどれよりも、私の心に、鋭く、深く、棘を突き刺していった。


それから彼は哀しげに笑って、立ち上がった。
私は、保健室を出て行く丸井を引き止める事も、その姿を見る事もできなかった。

ぱたん、と静かに閉められた扉が、知らぬ間に私達の間にできた壁の様に思える。
知らなかった。丸井が私を好きだったなんて。私はずっとアイツを大切な友達だと思っていて。しかしそれは私の一方的な思い込みだったわけだ。私とアイツの距離はこんなに遠かったっけ。
いや、私がそう嘆くのはおかしいことだ。丸井こそが、「丸井ブン太を友達と見ていた私」と距離を感じていたはず。

――ああ、そうか。きっと仁王もそう感じていたに違いない。

私達は、もう、元には戻れないのだ。
そう悟った私は、それから再び1人きりで静かに涙を流す。





過去形に変わったすべてはそれでも確かに存在した
( 一度知ってしまえば決して後戻りはできない )( 禁断の果実を忘れる術を知らぬ、追放された愚かな私達 )



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一応バレンタイン

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TITLE BY 47.様