それは突然の雨だった。
久々に部活のない休日だったのと、丁度家族も出掛けていたこともあって今日ばっかりは誰とも会わずに、俺はのんびりと家で過ごしていた。
昼間は空に雲ひとつない程の快晴で、霜月には似合わぬ陽気ぶりだった。そのくせ夕方には日が落ちるのと代わるようにどこからか厚ぼったい雨雲が現れて、今では大きな雨粒が空から激しく地面へと降り注いでいる。天気予報でそんなこと言ってたっけなあ、なんて思っているうちに、ついには雷までがごろごろと唸りを上げた。時刻は21時を回ったところで、ソファに横になって時計の秒針と雨の音をぼんやり聞いていた。こう雷が酷いとテレビをつける気になれない。
両親は今朝から弟達を連れて、神奈川を出て行った。知り合いから旅行のチケットを貰ったとかでその人達と二泊三日の旅行へ行くんだとか。昨晩宿泊先のチケットを見せびらかされたけれど、どうせ自分は学校を休めぬからと大して興味をもたなかったから行き先はよく知らない。弟達も外出を楽しみにしていたみたいだから、雨の影響を受けていないと良いけど。
充電も残り少ない携帯を開いたとき、心臓まで響くような雷鳴が空気を震わせて、部屋の明かりがちらついた。

「……テレビつけないで正解だわこれ」

内心ひやりとする。きっと弟達がいたら、怖がって俺の腹の上に飛び乗ってくるかもしれない。五人で暮らすこの家に一人取り残されて、雷の音にどきどきしてみて、しばらく真上のまあるい部屋の明かりを凝視していたけれど、存外むなしく思えてやめた。一人って思っていたより寂しいもんだ。そばのテーブルの上に置かれた出前のどんぶりの器を逆さになった視界から見上げていると、ぴんぽん、と湿っぽい空気の中に割り込んでくるみたいに無遠慮なチャイムが鳴った。インターホンを確認すると、画面にはよく見知った顔があって、俺はもう一度時刻を確認する。21時はとっくに過ぎている。しかもこんな雨の中だ。彼女は酷くやつれた顔で暗闇にぽつりと立っているものだから、胸がざわついて、気づけば俺の足は小走りに玄関へ向かっていた。

「どうした?」

の自宅はそういえば近所にあったか、と頭の片隅に思う。昨日学校で会った時にはやかましいくらい元気だったように思うけど。扉を開くと冷たい風と雨の匂いをつよく感じた。彼女はオレンジ色の枕を脇に抱えて、玄関の明かりが彼女の足元を照らすと、ゆっくりと顔を上げた。まるい……と雨に紛れてか細い声が俺の鼓膜を震わす。どきんと心臓が跳ねて、うんと絞り出すように頷いた。

「……きょう、家に泊めて欲しいの」
「……は?」

彼女の肩へ伸ばしかけていた手が止まり、なに? と問い直す。泊めて欲しいって、誰を、どこに。「私を泊めて」彼女が少し強めの口調になって、俺は本能的に後退した。扉を開けた瞬間に感じた湿っぽい空気ではなくなっている。嫌な予感がして、すばやく扉を閉めにかかると、彼女の枕が僅かな隙間に捻じ込まれた。えええまじかよなんだこの女!

「タンマタンマ」
「タンマ無し!」
「一瞬漂わせたセンチメンタルムードどうしたよ」
「見たか私の演技力」
「ていうか枕の押し売りなら間に合ってます!」
「違います枕ではなく私の押し売りだぜ一晩泊めてくれドンドコドン!」
「もっとタチ悪いわ全力でお引き取りしろ!」

こちら側に顔を出す枕を押し返していると、すぐ近くて、白い閃光が走ったのが扉の隙間からよく見えた。続けざまに地を揺らすような落雷に、扉の向こうのの力が弱まって、力の均衡が崩れた。ばたんと玄関か外界から閉ざされる。あ、閉まった。と思う間もなく、「まるい」と俺を呼ぶ声がして、もしかして雷が怖いのではないかと足元に出来た雨のシミへ視線を落とす。自宅に両親がいるはずだろうけど、もしかしたら何か事情があるのかもしれない。家に泊める泊めないは別として、こんな雨の中、女子を外に追い出すのって正直どうなんだろう。様々な思いが拮抗して、俺は再び雨の匂いを家の中に招き入れた。

「……話だけは聞くけど」

流石に激しい雨だけあって、傘はあっても彼女の服はなんとなく濡れていた。を中へ通した俺は適当なタオルを渡してやりながら、雷怖いの? と問うてみると、彼女はあっさり首を横に振った。あ、なんだ。

「つうか泊めて欲しいって、お前親は?」
「両親はユアペアレンツとバカンスだよ」
「あ、俺の家族っておまえの親と出かけたの」
「イエス」
「まじかーそりゃいないわけだなー……」

そもそも丸井家と家の親がいつの間に仲良くなったとか、見当もつかなかったけれど、ご近所さんだし、きっと商店街とかでよく顔を合わせていたに違いない。主婦のコミュ力って侮れない。
はどうやら靴下に水がしみていたらしくて、玄関でそれを脱いで素足で俺についてきた。来客用のスリッパがすぐに見つからなかったので(来客なんて滅多に来ないから多分奥にしまいこんでいる)、素足でいてもらうしかなかったけど、ちょっと申し訳なくなった。彼女もまた遠慮がちに歩いていた。彼女の遠慮をするタイミングがよくわからないなと正直思った。

うちに上げたのは良いとして、この天気である以上無闇に家電を使いたくはないので、を通したリビングはどうにも彼女との間をもたせてくれるような空間ではなかった。ソファに座らせて、そう言えば、そもそもうちに来た理由を聞いていなかったと彼女を一瞥する。はソファに体育座りをして冷えただろうつまさきを気にしていた。

「あ、寒い?」
「え、いや、」
「なんか持ってくる」
「大丈夫」
「ほんとに?」

一応暖房だけは入れているのだけれど、風邪をひかせてしまっては嫌なので、自分の着ていたパーカーを渡してやると、彼女はむずがゆそうな、妙な顔をした。しばらく俺とパーカーを交互に見ていたのだけれど、最後にはそれに腕を通した。余る袖口から細い指が覗く。「丸井って優しいんだね」むずむずした。「ったりまえだろい」って何とか返したけど、多分俺の顔はそういう顔はしていなかったと思う。寒いはずなのに、背中にじんわり汗が出てくるような気がして、視線はから外した。

「つうかそう言えば、こんな時間にどうしたのか聞いてなかった」
「ああ、そうだった。実はね、」
「おう」
「うちが浸水しまして」
「えっ、なに?」
「窓を開け放っつ寝ていたらいつの間にかベッド諸共雨に打たれて修行していたという、」
「浸水するまで起きないってどんだけ鈍感なんだよ」
「でも強くなった気がする」
「そうかよ」

自分の部屋は吹き込んだ雨によって大惨事を決め込み、自室のベッドは使えなくなったのだという。ちょうど両親は出かけているのだから、寝る場所がないならそちらを使えば良いと思うのだが、話によれば、両親の寝室の窓も大好評開放中だったので、同じ状態なんだとか。渋い顔をして語るから相当の被害なのだろう。
一向に雨脚が弱りそうにない外へふと視線をやって、ソファに体を預ける。この中でを外に追い出すことも酷に思えてきた。

「きちんと片付けはしてきたものの、両親が帰宅した時のことを思うと足が生まれたての子ヤギみたいな感じになったので、私を引き取ってくれそうなところに押し売りを」
「なるほど下らねえな……」

ため息をついた分だけ酸素を取り戻そうと、暖房の生ぬるい空気を肺に吸い込む。ポケットに押し込んでいた携帯の充電は相変わらずギリギリのままで、横で背中を丸くしてじっと動かないを盗み見てから、頭をかいた。何だかなあ、と思う。何だかなあ。テレビくらいついてたらって思うし、間が持たないならつけてしまおうかとも思ったけど、なんか今更感? という具合に俺を八方塞がりにしていた。
いつも彼女とはどんな話をしていたっけ、なんてたちまち記憶に靄がかかり始めてまるで役に立たない俺の思考回路は最早捨て置くことにした。それよりも泊まるとしたら彼女にはどこで寝れば良いだろうという方が問題だ。やはり母さんの布団でも出して、そこに寝てもらうのが良いだろうか。しかし俺の友人とは言え自分の布団に知らないうちに誰かが寝てるなんて気分は良くないかな。じゃあ俺のベッドを明け渡すか。いやいや……。母さんに連絡するのが手っ取り早いかとも思ったが年頃の男女が親もいないのに、という事態にあらぬ疑いをかけられても嫌なのでやはり黙っておくが吉か。
「雨、すごいね」悩んでいるうちに携帯の充電があっという間に底を尽きて、それと同時にの手が俺のシャツを引いた。雨戸へと叩きつけられているみたいに、ばちばちと雨が弾ける音がする。

「そうだな」
「うん」
「あのさ、」
「うん?」
「しりとりする?」

俺はバカかーい。何でしりとりだよ。
どこに寝せるとか、親への連絡とか雨とか、全部すっ飛ばして、俺はどういうわけかしりとりを提案していた。「え、なに……」とは零して、いやごもっともですとか思って恐縮していると、彼女は続けていった。「……構いませんが」あ、はい。

「じゃあせっかくだから負けたらなんかしよう」
「え、そんな全力でやんの……」
「しりとりやりたいってそっちが言い出したんだろ。文句言わないでよ」
「うん……」

もう何でも良いやと思った。話題の代わりになるものがあるなら、しりとりでもなんでもしよう。黙っていると妙に緊張して、変な気になりそうだ。相変わらず掴まれっぱなしの俺のシャツは、俺のぶかぶかジャージから覗く彼女の白くて細い指がゆるく握っている。そんなことにもどぎまぎしているくらいだけど、やんわり解くことも出来ずに、「しりとり」と声を出した彼女へ「りんご」と定番の言葉を返した。
それからだらだらと、雷と雨音の隙間に入り込むみたいに、謎のしりとりは続いた。彼女はいつの間にか母さんが出しっぱなしにしていたファッション誌を持ってきて俺の隣でめくっていた。大して面白くなさそうな横顔。「は、は……灰皿」と彼女が俺の足をぽんと叩く。しりとりだけだと味気ないので、俺も釣られて雑誌を覗き込んでいた。確かにあんまり面白くない。「ラムネ」の答えに、彼女は静かに雑誌を閉じた。眠そうに、もうおしまい、と、そう言っているみたいに。しりとりも終わりかと雑誌から身を引くと、彼女が、俺の肩にもたれながら、「ね、ね、……ね、……」と唱える。

「……ねむいな」

ただの独り言なのか、俺につなげた言葉だったのか、判然とはしなかった。彼女の長い髪がとろりと肩から垂れて顔にかかっていたので、それを掬い上げると、白い肌と一緒に彼女の瞳が俺を見上げて、どきりと、何だか良くないことをした気分になった。「なら、寝れば」咄嗟に俺もしりとりを続けた。判然としない、しりとり。

「場所、ありますかい」
「一応、色々考えたんだけど、……お前は俺の部屋使って良いよ」
「よっしゃ」

彼女は素足をそっとフローリングに落として、それから俺を見た。持参の枕を抱えたからもう寝るつもりなのかもしれない。あれ、俺自分の部屋汚くないっけ。あれもそれもちゃんとしまってある?
俺の返答も待たずに、がリビングから出て行った。それでも相変わらずそっとした遠慮がちな歩き方をしている。それを慌てて追いかけたけれど、俺の部屋はどうやら綺麗に片付けられていた。安心。
彼女は自分の枕と俺のそれを取り替えて、本当に使って良いの? と俺を見た。

「別にまあ、良いよ」
「やった!」

ベッドに飛び込んだに、やっぱり何だかなあという気になる。何だろう。彼女の横に腰掛けて退けられた枕を彼女の顔に投げた。痛っ、と短い悲鳴の後に、文句が飛ばされるだろうと、枕の下敷きにされた彼女の様子を伺っていると、その下からそろりと彼女の瞳が俺を捉える。「めっちゃ丸井の匂いする」特に深い意味もないのだろうが、けろりとした顔で言ってみせる彼女に、たちまち顔が熱くなるのが分かって、俺は再び枕を振り上げた。

「そ、ういうこと、お前はさあ……!」
「え、なに、え、」

間違いだったに違いない。こんな雨の降る夜中に、仲が良いとは言え女子を家に入れて挙句自分のベッドを貸すとか。何だかなあ以前の問題だ。ごろろ、と遠くの方で空が怒っている。
俺が何に怒っているのか分からない馬鹿なは、台詞に困った挙句、「次は丸井の番、『や』だよ」と唐突にしりとりの続きを強要した。ばっかじゃねえの。

「やっぱベッド貸すのやめた」
「ええええ!」
「ほら『た』で切り返してみろい」

もう俺もわけが分からなくなっていた。ただ何かにムキになっていることは確かだった。彼女の、『た』を唱える声が俺の部屋に満たされる。た、た、た。た?

「『た』ねえ。……ううう、うううん」
「はい負け」
「え」
「今最後に『ん』ついた。の負け」
「え、えええ!? 今のは違うよ! 悩んでたんだよ!」
「はいはいおしまいおしまい」
「ず、ずるいや、」
「ずるくない」

はい、負けたからなんかして。
彼女の顔の横に手を着くと、の唇がきゅ、と真一文字に結ばれた。

「な、何かって、」
「じゃあなんかちょうだい」
「私今あげられるもの持ってない、」
「へえ、俺はお前から今すぐ貰えるもの幾つか言えるけど」

力を入れたら、ぎ、とベッドが軋んだ。
そもそも、彼女には危機感というものが欠如しているのだろう。俺を困惑させたり苛立たせたりするのはきっとそのせいだ。シーツの上に散らばる髪ごとベッドに手を置く。

「ま、るい」
ってさ、俺以外の奴にもこういうことしちゃうの」
「へ」
「今日もし俺がいなかったらお前どうするつもりだったわけ」
「いや、それは」
「仁王のとことか行くの」
「ままままるいさんちょっとおちつこ、」

「お前のあまりの危機感の無さに落ち着けない」
「ワーオ……」
「何、襲って欲しいの」

ようやくそこでミジンコ程に成長した危機感がサイレンを鳴らしたらしい。頭に敷いていた自分の枕を盾に俺との間に滑り込ませたけれど、俺はそれを簡単に引き剥がしてしまう。頬を赤からめた彼女が俺を見上げていた。

「じゃあお望み通り襲っちゃうけど?」

ひ、と小さな悲鳴がして、俺は彼女の頬へ指を滑らせる。は目をつぶって、もはや観念したみたいなその顔に、顔を寄せた時だった。ぐうう、と空腹を告げる音に、俺はぴたりと動きを止める。下にいるが別の意味で顔を赤くしながら両手で顔を覆った。

「……ごめん。そういえば私夕飯食べてなかったでした……」
「……左様で、」


とりあえず夕飯を食べることになった。





(突然の大雨。開け放した窓が原因で部屋が水没。枕1つ持って君んちへ行く)



( 何か書きたかったので // 151122 )
需要やら時間やらあれば頑張って続き書きます。