シャワーから滴る水が、私の鼻の頭に落ちた。
合宿所の朝の大浴場というのは静かなもので、広々とした浴場に時折響く水の音に、途端に虚しくなった私は、その場にぺたんと座り込んだ。濡れたタイルからじわじわと服に染み込んでくる水も今となってはどうでも良い。というより、関係がないと言った方が正しいか。風呂掃除中に足を滑らせて湯の張られた大きな浴槽の中へ頭から突っ込んで行った私からしたら、今更気に留める程のことではないのだ。
こんな時に限って、着替えの服を忘れてくるし、携帯もない。携帯があったところで番長の連絡先を知っているわけではないから、大した解決にはならないけれど。これが夏だったら、服が乾く期待もしたかもしれぬが、11月ともなると、いつぞやのようにまた風邪を引いて幸村とか跡部とか、そこらへんに小言を言われるのが目に見えている。それから、服が冷えてめっちゃくちゃ寒い。あかんこのままじゃ凍える。

「これは強行突破しかないと思う人」

はぁい。
私一人分の声が、虚しく大浴場に響いた。はい、多数決の結果、強行突破に決まりました。そういうわけで、服の水を絞れるだけ絞るとデッキブラシを杖に、私はのそりと立ち上がる。幸いなことに、ここはタオルだけは馬鹿みたいに備えてあるので、(というか私がさっき持ってきた)それを服の上からぐるんぐるんと巻きつけることにした。さっきよりは寒くない。
大浴場から私の部屋まではそれなりに距離があるが、今は昼時なので、選手は全員食堂に集まっているはず。それを考えれば鈍足のと言えど駆け抜けられない距離ではない。浴場入り口の『湯』の暖簾から左右を伺って私は飛び出そうとする「よっしゃ今なら、」

「何してはるんですか」
行けなかった

声の先を見るとそこには携帯片手にこちらに歩いてくる財前の姿があって、言うまでもなく彼の瞳は冷ややかなそれだった。私が「何してるように見えますか」と問えば、「変質者の真似事ですか」とそれはもうもっともな意見が飛び出る。いや違いますけどね。見られてしまってはしようがないので、私は彼を大浴場の中へて招いた。彼はすかさず携帯をボタンを押しにかかる。ちょちょちょ。

「110番とかシャレにならないからね君ね」
「いや俺も知り合いが変質者とかシャレにならへんわ」
「でも私なら元々変じゃないか」
「それもそうでしたね」
我ながらこれは耳が痛い

とは言え私はこんなの言われ慣れてるからへっちゃらなのである。一先ず彼を大浴場の方へ引き入れると、相変わらず怪訝そうな顔をする彼を前にポイポイとタオルを外していった。彼はすぐに状況を察したらしい。普段なかなか崩さぬポーカーフェイスが、驚きの色を孕んで、それからサッと私から目を逸らした。「…痴女か」「違いますッ」

「大浴場でずぶ濡れって言ったら賢い君なら分かるでしょ」
「安っぽいAVみたいな」
「そんな言葉君から聞きたくなかった」
「ちゅうかあんた服透けてんねん」
「ほほう、財前もなかなか若いね」
「あんた如きで欲情できるなら誰も苦労せえへんけど」
「ごめんそれはどういう意味」

大浴場を掃除していたら浴槽の中に落ちてしまって、挙句替えの服もないのだという事情を話してやると、彼は心底面倒くさそうな顔をしてから一度だけ、はあ、と至極曖昧な返事を寄越した。いや、はあじゃなくて助けて欲しいのね。

「えーやって、絶対これ面倒いやん…」
「私の部屋へ洋服取りに行ってくれるだけで良いよ」
「…」

彼はしばらく頭を抑えて重い息を零していたけれど、何かを思い出したように着ていたジャージを私に投げつけた。「とりあえず目に悪い」彼は私のガラスの心を砕く天才であるようだ。それにしても借りるのはありがたいけど、下着までずぶ濡れの始末なので、このままではせっかくの黒ジャージが濡れてしまうが。

「…別にそんなん構へんけど」

それなら遠慮なく借りよう。彼の背後に回ると手早く濡れたシャツを脱ぎ捨てて上からジャージを羽織る。やはり男の子なだけあって、ジャージの袖が長かったし肩幅も当然違う。腕まくりをして、それからしっかり上までチャックを閉めたところで、財前がこちらへ振り返った。

「…はあ」
「どうかしたかい」
「この状況、なんや俺がめっちゃ怒られる感じやん。お約束かいな、ホンマ勘弁して」
「私に関わったのが運の尽きだね」
「ほんまにな」

ジャージには財前と書かれているから、私がこの格好で外へ出て行くこともできないだろう。私は別に構わないけれど、きっと財前が構う。私が誰かに会おうものならジャージの持ち主を聞かれるだろうし、そうなればあらぬ噂が広がってしまいそうで。あ、でも私がきちんと事情を説明するから大丈夫だよ。

「誤解を招く天才のあんたが喋るのが一番大丈夫やあらへんやん」
「それもそうだ」
「立海の人に見つかったらどないすんねん」
「それは私にもどうしようもないな」
「せやったらあんたはここから出たらあかん」

だったら財前が着替えを持ってきてくれる以外に方法はないだろう。彼も残された選択肢がそれしか残っていないことに、正直放送できないくらい嫌そうな顔を浮かべている。もしも私の部屋に入っていく財前の姿が誰かに、いや、運悪く立海の、それも幸村なんかに見られた日には一体どんな面倒な毎日が待っているんだかと、彼の目は私にそう言っていた。とは言え気持ちは分かるけれど、こうも全身から面倒臭がる気持ちがだだ漏れの人にも私は出会ったことがない。
「…まあしゃあないわな」しばらくすると、彼が腹をくくったようにそんな声を捻り出した。

「わああ神!財前神!二階の左から二つ目の部屋だから、分かるよね」
「…はあ」
「タンスの中にジャージとか適当に入ってるので。それから下着は隣のタンスに」
「は、ちょっとやっぱり無理やわ」
「どうして」
「どこに後輩に下着持って来させるマネージャーがおんねん」
「ここ」
「ザキ唱えんでほんま」
「すかさずザオリクで回復」

ドラクエなら私もやりこんでるよ、と答えると彼はもたげていた頭を上げてじとりと私を睨みつける。私からしたら何故そんな目を向けられたのか分からずに、肩をすくめる他なく、「財前?」彼の名前を呼ぶと、彼は私の腕を掴むと勢いよく私を後ろの壁に縫い止めたのだった。ぎり、と掴まれた腕が少し痛い。

「ん?ええと、これはアレだよね、最近Twitterで噂の、ほら、壁ドン」
「そうっすね」
「で、どうしたの」
「先輩ホンマ貞操観念もう少し養ったほうがええですよ」
「…うん?」
「今のこと言うとるの、わかっとりますか」

正直言って、あまり良くわからない。何故なら先に私の下着如きに欲情しないと言ったのは彼ではないか。限度があることはもちろん理解しているけれど、私の透ける下着をものともしない彼に、タンスの下着を見られることをいちいち恥ずかしがって何になると言うのだろう。
おかしなことを言っているわけでなくすごく道理に適ったことを言ったつもりだったが。
そう財前に言ってやると、彼はフッ、と顔を伏せてからそっと息を吐いた。彼が掴む腕の力はすっかり緩んでいる。

「番長さんでしたっけ?」
「財前?」
「先輩の失態チクってきますね」
「ぴいいええええ!?それは困るよ本当に困りますううう!」
「何でやねん、その方が服も持ってきてもらいやすいやろ」
「でも、だって、番長怖いし、…な、何でもしますからお許しをッ!」
「ほら言うてるそばからそれやん」
「へ」
「下着持って来いとか何でもするとか、」
「…!」

それは突然のことだった。私達の距離がなくなるように、財前がすっと自然に近づいて、私達の身体がぴたりと密着した。流石にこれには私も驚きを隠せず、息が止まる。彼の口元は私の耳に寄せられせ、呼吸の音が耳に張り付いて、私の頭を混乱させる。

「ほなら皆に言えんような恥ずかしいことさせたろか」

財前の低い声が鼓膜を震わせた。いつの間にか彼の手は私のジャージのチャックに掛かっている。じじ、とそれを下げる音に、心臓が跳ねた。どうした。どうしてこうなった。「…ちょっ、」その手を捕まえて財前を押し退けようとしたけれど、その前に彼がパッと私から手を離すと一歩後ろに下がって、口元に弧を描くと挑発するようなそんな表情で私を見ていた。

「冗談すわ」
「へ…」

思わず力が抜けて、私は背中の壁沿いにゆるゆるとへたり込む。


「ほなチクってきますね」


彼の後ろ姿は相変わらず飄々としていて、暖簾の向こうに消えていく財前に、私は何も言えないまま、唖然とするほかない。
目を閉じて耳を塞ぐ

(よし、今起こったことは全てなかったことにしよう)





( 立海マネジで財前との話 // 150217 )
久しぶりに立海マネジを書いたので、ヒロインのテンションがどんなだったか忘れかけていたのですけれどもとても楽しく書かせていただきました^^
リクエストありがとうございました!
リクエスト : ましろさん