10月20日ええと、確か火曜日、だっけ。天気は晴れ、でも夕方から少し雨が降るかもしれないって話を聞いた。 ついこの間全国大会が終わったばかりで、俺の気分はまだまだ夏のつもりだったけど、窓の外の景色は今ではすっかり秋めいている。グラウンドも、テニスコートも、太陽に照付けられて白く光って、思わず眩しいって目を細める感覚はもうそんなに覚えなくなった。なんか、少し寂しいなって思う。 さて、全国大会後、俺達三年は部活を引退した。だけど、そんな俺達の日常がどんな風になったかと言えば、実は然程、というよりちっとも変わりを見せてはいなかったのだ。なんでも来月の頭からU17日本代表選抜のテニス合宿があるらしくって、引退したはずの三年も含めて、俺達テニス部はそこに招待されていた。そうなったら、いくら引退したからって、コートから離れるわけにもいかない。 だから俺の日常は部活を引退したって名目を背負ってるってこと以外は、何も変わってない。 俺自身も、本当、何にも。 12日前
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飾り気のないその真っ白な封筒は、律儀にU17日本代表選抜合宿に招待された部員の人数分あった。自分の名前の書かれた封筒をぼんやり眺めながら、今朝コンビニで買ったサンドイッチを俺は頬張る。 「楽しみッスよね」 目の前の椅子が引かれて、そこに誰かが腰を下ろす。視界に入った足元の上履きの学年カラーは俺のものとは違う。俺の知り合いの後輩の中で、三年の教室に堂々と入って来た上に、誰のかも知らぬ席を勝手に使う奴なんて、この切原赤也くらいのものだと思う。彼は最近はいつもこうやって昼休みにはこの教室に飯を食いに来るのだった。別に構わないのだけれど、何故かと以前に理由を聞いたら、「だって何か寂しいじゃないスかー」なんて冗談混じりの返事が返されて、俺は何が寂しいんだろうと思った。何も変わってないのに。 彼は俺に向かい合うように椅子を逆に座って、購買で買ってきたらしい菓子パンを目の前に広げた。彼の視線は俺の手元の封筒へ。「それ、U17のでしょ先輩、楽しみッスね」赤也がばりばりとパンの袋を開ける。菓子パンの甘い匂い。 「ん、まあな」 「ところで仁王先輩は」 「知らね、俺に聞くなよ」 「じゃあ誰に聞くんですか」 「仁王のことは仁王に聞くのが一番だろい」 「…俺のことからかってるんスか」 「まあ一応」 「…」 隠しもしないで答えた俺に、赤也が渋い顔をしたので、思わずふっと笑った。そもそもの話、仁王の場所なんて、把握している奴なんてきっといない。誰かに聞くのが間違いなのだ。気づいたらいつのまにかいなくなっているのだから。そのうち帰ってくるだろ、と適当なことを言うと、赤也も別段用があったわけじゃないみたいなので、すぐに話題は合宿のそれへと戻って行った。 「あっ、合宿中って、授業とかどうなるんスかねえ。まさかテニス三昧とか、」 「んなわけねえだろい。確か勉強できる施設が備わってるって聞いたぜ。きちんとスケジュールにも授業が組み込まれてるとか」 「デスヨネー」 授業がなくなるなんて、こいつはどこまで考えが甘いのだろう。高校ならともかく、中学は義務教育の名の下にあるのだから、授業という概念がなくなるはずがない。 俺は投げるようにその手紙を放り出すと、赤也は躊躇いがちに「あんまりノリ気っぽくないッスね」と言うとパンを食べる手を止めた。別に、ノリ気じゃないわけではないのだが。 「…あ、先輩、確か彼女いましたよね。まさか、その人を置いてくのが気がかり、みたいな」 「…はあ?彼女って誰だよ」 「誰って、いるじゃないですかー。ええと、ほら、なんて言いましたっけ先輩とか言う…あっ、あの一番前の席の、痛ッ」 「ばっ、指差すんじゃねえっつうの!」 「やっぱ彼女なんだ」 「ちが、」 じゃあ何なんスかー、とでも言いたげな赤也の顔に、俺は「まだただのクラスメイトだよ!」と答えた。やけに声に力が入ってしまった気がする。赤也が、まだ、という部分に反応した。そんなことよりも、今の会話を誰かに聞かれていやしないかとひやひやした。 あれは約3ヶ月前の球技大会の日、は俺に告白まがいのことをした。そして俺もした。だけど俺達が付き合い始めることはなく、現在進行形で良いお友達状態だ。その理由はただ一つ。付き合うのはお互いになんか体裁が悪かったから。そもそも流れが良くなかったのだ。彼女はサッカーでゴールを決めたら、俺は野球でホームランをとったら、きちんと告白してやると前約束をした。漫画の中ならきっとゴールもホームランも大成功してめでたくカップル成立の流れなんだろうが、現実は甘くなかった。どちらも失敗したわけだ。だから両思いであることは知っているのに、可笑しな前約束をしたせいで格好がつかなくなって俺達の関係は硬直したのである。 最前列の席で、女子とけらけらと笑い合っているを一瞥してから、俺は赤也へ視線を戻した。 「何スか今の話。ホームランしたら告白?冗談スよね」 「マジだよ」 「今このタイミングで笑ったら殴りますか」 「殴る」 「じゃあ別のタイミングで笑います」 「ま、彼女じゃろうがそうでなかろうが、何も言わずに合宿に行くんはも傷つくんやないかのう」 「うわ先輩」 「…仁王、お前いつ戻ってきた」 いつの間にか俺の隣の席に腰をかけていた仁王は、頬杖をついて口元に緩く弧を描いた。さていつでしょう、とそういうことらしい。別にいつだって良いけど。でも俺はこいつのこういう顔が嫌いだ。まあ彼はこういう人をおちょくったような顔をしていない時の方が少ないけれど。 俺がわざわざあからさまに嫌な顔をしたのが見えなかったのか、彼はそのまま会話に溶け込むように「言わんの?」と視線だけへ移した。「え、ていうか合宿のこと言ってもないんスか」とさらに赤也。うるせえよ、とは思ったが、彼の意見はもっともな気がして俺は封筒をじっと見つめた。 「なんつうか、あー…やっぱ言った方が良いよな」 「むしろ何で言わないんスか」 「いやまあタイミングとか、こう、あるじゃん」 「こんな直前になってくるともはやタイミングとか言ってる場合じゃない気もしますけど」 そんなことは言われなくとも俺だって十分に分かっていた。だけど、初めの絶好のタイミングを逃したらもうどうしようもないだろう。そうやってずるずるしているうちに日数は迫りに迫っていた。もはやタイミングを語るほどの時期でないなら、いっそ言わずに合宿に行った方が、なんというか、スマートなんじゃないかと。 「えーでも先輩きっと黙って行かれたら嫌なんじゃないスか」 「つうか俺あいつの彼氏でもないし、合宿の話しして『あっそ、行ってらー』とか流されたら俺はきっと立ち直れない気がする」 「じゃあ彼氏になればいいじゃないスか」 「なれたら苦労しねえよ」 「…丸井先輩ってこんな女々しかったでしたっけ」 「恋する乙女じゃからな」 「丸井先輩男ッスけど」 好き勝手言いやがってと思いながら俺は反論しなかった。というかできなかった。女々しいことは自分でもよく理解していたからだ。女の子は恋すると可愛くなるとか女の子らしさに磨きがかかるとかいうけど、男にはいらないオプションである。机の上にゴンと頭を打ち付けた俺は、どうしてあの時ホームランを打たなかったんだろうと、自分を責めた。肝心な時に格好がつかない俺である。いっそのこと、ホームランとかゴールとか、そんな約束なんて気にせずにここは男らしく告白すれば良いのだろうけど、どういうわけか、いざ告白しようとする時ばかり、俺達はすこぶるタイミングが悪かった。もちろん、合宿の話をする時も然りである。だからこそ現状に至るわけだ。 「それならもう空気作りとか気にせずに目が合った瞬間にでも告白したら良いんじゃないッスか」 「そりゃ良いのう」 「お前ら簡単に言うな」 「そりゃ言いますよ。両思いって分かってんなら何も怖くないじゃないスか」 「…じゃあそれで?晴れて彼女ができたとして、一番初めに言うことが合宿に行くから早速だけどしばらく会えないって?それってずるくね?」 「でも合宿に行ってる間にが誰かに取られちゃったらどうするんじゃ」 「取り返す」 「合宿のことを言うのもまごついとるお前さんが?」 「…な、だ、大丈夫だっつうの」 「ほーう」 「…大丈夫」 勝手に萎んでいく言葉に、俺は益々自信が吸い取られていく気がした。テニスの時ならば、――もっと他のことならば、「だって俺は天才だし」、の一言が当然のように出てくるはずなのに、彼女のことになるといつだってさっきまであった自信が、全部萎んでいく気がした。 ああ、3ヶ月前と俺は何も変わってない。 なっさけね。 10日前
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嫌な噂を聞いた。 なんでも、近々テニス部の選手が、日本代表選抜を決める合宿に行ってしまうのだという。 噂は友達から聞いたものだけれど、その友達を含め、テニス部のファンクラブの女の子は皆、情報のネットワークが幅広い。選手しか知り得ないようなものまで、いつの間にか手にしているくらいだ。そしてそれは友達を経由して私の耳にもすぐに入ってきた。 皆は、どういうわけか、私と丸井が付き合っているのだと勘違いをしていたようで、合宿の情報が入るなり私の元へ飛んできて詳細を尋ねられた。だけど、私だって、その時に初めて話を聞いたものだから、詳細なんて知るはずもない。そもそも丸井となんて付き合ってない。 「付き合ってないってどういうことよ」 「どうもこうもないですが」 「だって、夏休みに入る前の、確か、球技大会の日だったか、あんた達が保健室でいちゃついていたのを見た人がいるって聞いたわよ」 それは、昼休みに入ったすぐ後のことだ。我が物顔で私の隣の男子の席に腰を下ろした友人は、開口一番にそんなことを言った。 今日はお弁当を持ってきていないので、食堂に行くか、購買戦争の余り物を集りに行くか。そもそも授業が昼休みに少し食い込んでいたので、購買戦争云々よりも前に購買に余り物があるかも怪しい。すぐに食料の調達に行きたいのだけれど、彼女はどうにも開放してくれなさそうだ。 「ていうか酷くいかがわしく聞こえる噂だなあ」 「これ嘘なの?」 「保健室にいたのは本当だけどいちゃついてはないって」 「質問変えるわ。あんた達って付き合わないの」 彼女の表情はやけに神妙で、はぐらかすことを許さぬようなそれだった。私はしばらく押し黙っていたのだけれど、どうせきちんとした答えを聞くまで引き下がらないのだろうと、私は「あのね」と口を開いた。正直なところ、結構真面目に付き合いたいとは思っているわけなんですね、私は。それでもどうして付き合わないのって言われると、お付き合いを申し出るためのタイミングの神様に見放されていると言えば良いのだろうか。 私と丸井は、球技大会で両思いの事実を知ったけれど、そこであったあれやこれやの失敗で、告白のタイミングを逃してしまった。それからと言うもの、私達は「次のテストで100点を取ったら告白する」「次の体育の50メートル走でタイムが一位だったら告白する」なんてやり取りを繰り返し続けた。それでも未だに告白していないのはつまり、そういうことである。どんなに自信があるものを賭けに選んでも、例えば運悪く苦手な分野が出たために100点には届かなかったり、足を怪我していつもよりタイムが遅くなったりととにかく私はすこぶるタイミングと運が悪い。 「話を聞いてたらバカバカしくなってきた」 「残念ながら私もそう思うんだぜ」 「もう告白してるも同然じゃん、付き合いなよ」 「これはもうお互いムキになってるんだよ」 そうやって、初めこそ漫画みたいな劇的な告白を求めてみたものの、今では、普段だったら「絶対」にできるってことを賭けていて、だけどそれなのに、約束の前だとその「絶対」もいなくなってしまう。まるで運命とやらにまでお似合いじゃないよって言われてるみたいで、だからこのままこのやり取りなしで告白するのは悔しいって言うか。苦笑する私に、友人は私の後ろへと視線を逸らした。きっと丸井を見ているのだろう。 「気持ちは分かったけど」 「うん」 「あんたさあ、このまま丸井が合宿に行って離れちゃったら、後で、捕まえとけば良かったってきっと後悔すると思うよ」 「…でも、私に合宿のこと話してくれないってことは、丸井の中で、私は別に言う必要もないくらいの存在なのかなって、気もするよ」 それに、もしかしたら合宿のことを話さないのは、私のことが重荷になっているからかもしれない。実際、丸井の口から合宿のことを話されたら、私は何て言っていいか分からなくなってしまうだろう。頑張って、とか、笑顔で送り出せば良いのだろうか。彼の心の負担になるような顔しかできないような気がする。私が少しでも暗い顔をしたら、きっと丸井は、言わなきゃよかったなって、それがどんな意味であったにせよ、そう思うはずだ。 鞄の中から財布を取り出すと、私は立ち上がった。お昼買ってくるね。友人からは曖昧な返事が返されて、私は逃げるように教室を飛び出した。 「後悔する、ね」 後悔なら、とっくにしている。 逃げた先の購買には、案の定余り物すら残っていなかった。「ごめんなさいねえ」という購買のおばさんの声を後ろに聞きながら、私の流れ着く先は自動販売機しかない。しようがないのでここで少しでも腹に溜まりそうな飲み物を買おう。もうすっかり昼の混み合う時間帯から外れた現在では、自動販売機の前には誰もいなかった。四台立ち並ぶ自動販売機をうろうろと眺めながら私はひと唸り。 この中じゃあ中にゼリーが入っている炭酸か、コーンポタージュか。いや、寒いこの時期だったらやっぱり選ぶべきは、 「ポタージュ」 「え」 「俺ならこっち」 後ろから伸びた手がポタージュ缶のボタンを押した。がこん、と下から缶の落ちる音。振り返ると、そこにはたくさんのパンが詰められた袋を持った丸井の姿があって、彼はポタージュを下から取り出すと私の頬に押し当てた。冷えていた頬がじわ、と温かくなる。 「お前、昼は」 「え、あー…買いそびれたからこれで誤魔化そうかと」 「ふうん」 丸井はガムを膨らましてポタージュと私を交互に見てから自分の持っていた袋を私の前に広げて見せた。これはと、問う前に「好きなの選べよ」と丸井。 「えっ」 「いーから」 「でも、」 「はーやーくー」 がささ、と丸井が袋を揺らして私を急かした。彼が人よりたくさん食べるのはよく知っているし、部活をやっていないならまだしも、彼はまだあのハードな練習漬けの部活にきちんと参加している。 それでも、彼の好意は無下にできなくて、そろりと袋へ手を伸ばした。 「じゃあ、この苺のやつ、」 「一個で良いのか」 「うん、ポタージュもあるし。あ、お金を」 「いらないいらない」 「なんだと丸井イケメンか」 「はは、知ってる」 彼も飲み物を探しに来たのか、販売機を見上げながらそう答えて笑った。彼のこういう戯けた時の顔が私は好きだ。だからずっとこうやって隣にいたいなとは思うのだが、パンも調達できたし、飲み物も買えたので、もう私がここにいる必要はなくなってしまった。なんとなく彼の傍を離れがたく思ったが、無言でそばにいるのも変かと思い、私は一歩後ろに足を引く。 「ってそういうの好きなの」 「…えっ」 突然かけられた言葉に私は肩を震わせた。動かした足を元に戻して、そういうの?と言葉を繰り返す。彼は販売機を見上げたまま、私の手の中の菓子パンを指で差した。こういう味ってことだろうか。まあ、パンはどちらかと言えばごはんぽいものより菓子パン系が好きではある。特にクリームとかが入った、あまいやつ。 「そうだけど、何で」 「いやー見かけによらず趣味が女子っぽいなあってよ」 「はあ、どういう意味かねそれは」 「ジョーダンだよ」 「ジョーダンかよ」 拗ねるなよ、と丸井の手が私の頬に伸びた。抓られて、痛いから離せと身を捩ってはいたけど、そんなもの建前だった。こうやって丸井に抓られることはあっても、痛かったことなんてちっともないし、何だか雰囲気が優しいから。だから、彼とのこんな風なスキンシップが好きだったり、する。 そうして彼はすぐに私から手を離すと私の手のパンへと視線を移した。 「んじゃまあとりあえず、はこういうパン好きなのな、覚えとく」 「いや、覚えてどうすんの」 「どうって、どうもしねえけど、お前のことなら覚えといて損はねえだろい」 ずきゅん。たちまち顔が沸騰するみたいに熱くなったのが分かった。丸井ってたまにこうやってさらりとかっこいいことを言うからずるいのだ。きっとこんなことを言ってくれるのは私にだけ、そう自惚れたいけど、もし他の女の子にも同じようなことを言っていたらどうしようという不安がいつも付いて回った。無自覚イケメン程怖いものはない。いや、丸井は自分がイケメンなことは重々承知なんだけど、発言に関しては、こんくらい誰だって言うだろいとかいうスタンスで誰も言わないようなかっこいい台詞を吐いちゃったりする。だから丸井に一瞬で恋に落ちた女の子は数知れず。まあ私もその中の一人と言えばそうなんだけど。 もし、私がきちんと想いを告げぬまま、丸井が合宿に行ってしまったら、丸井は合宿先で出会った別の子に、例えば好意を寄せられたとして、その子を好きになったり、…してしまうのだろうか。 「…あのさ、丸井、私ね」 告白しておけば良かったなんて、そんな風にだけは絶対に後悔したくない。ぎゅ、とスカートの裾を握りしめると私は心臓を落ち着けるように目を瞑って息を吸った。体裁とか、場所とかムードとか、そんなもん今更なんだ。今言ってしまえ。 「あの、私、丸井の、テニス頑張ってる姿とか、優しいとことか、けっ…結構好きなんだけ、っていねえし!」 顔を上げた先にいつの間にか丸井の姿はなく、ごうごうと稼働している音を響かせる自動販売機が立っているだけだった。私は自動販売機に頭を打ち付けた。ふざっけんなしね丸井。盛り上がりを見せていた感情は見る見る冷めていき、ぼんやり足元を見つめていると、不意に隣でもう耐えきれませんみたいな、吹き出す声が聞こえた。頭をくつけたまま、声の方を見やるとそこにいたのは見覚えのあるもじゃもじゃとした頭の少年だ。君は、確か。 「あっ二年の切原ッス。丸井先輩の後輩で」 「存じております」 「丸井先輩なら奥の自販機見に行きましたよ」 「…さようでござるか」 切原君のことはよく知っている。時折クラスに来て丸井や仁王と話しているところを見かけるし、テニス部を見学しに行く時にも、コートに彼の姿はよく目に入っていた。彼は丸井が見に行ったというもう一つの自販機がある奥の曲がり角の方を一瞥して、私がそれに力なく答えるなり、慌てて口元を押さえて今にも笑いださんとするそれを我慢しようとしているようだった。おい我慢するならもう少しちゃんと我慢しろよ。 「時に、貴様見ていたな」 「ぶふっ…すんませ、結構初めからずっと見てたッス」 「正直なところは大変結構だがその素直さは時に乙女心を傷つける」 「先輩達が全然『付き合えない』理由がようやく今分かった気がします」 「それは良かった。私はちっとも良くないけどな」 今なら空気も裂けます、なんて視線を切原君へ向けると、彼はにやける口元を急にぴんと伸ばして、困ったように眉尻を下げた。「あー、なんつうか、タイミング合うといいッスね」と。それな、と言いたいところだが、さっきも言ったけれどタイミングと場所とかムードとかそろそろそんなことを言ってる場合ではない気がするのだ。 「私思うんだ」 「はい?」 「タイミングが合うの待ってたら多分、私、気づいたら墓の中いそうだなって」 「否定できねえ」 持っていたポタージュは少し冷めかけていた。私はそれを開くと一気にぐいぐいと喉へ流し込んでいく。冷めたと言っても中はやっぱり熱かった。喉を火傷したかもとか思いながら、熱さがするすると身体の中を落ちていくのを感じる。私は中身の空になった缶を近くのゴミ箱に放り投げると、それは珍しく綺麗に目標の場所に収まって、切原君がやる気のない声で「お見事ー」と言った。ありがとう。 「ところで、運命って言うのは運を天に任せるんじゃなくてさ、自分で勝ち取るもんだと思わないかい切原君」 「え、はあ、…そうッスね」 「だから私は決めたよ。運命を勝ち取りに行くわ。このまま運が私か丸井に傾くのを待ってたら後悔しそうだ」 「先輩って」 「うん」 「丸井先輩よりはるかに男前ッスね」 「何を言う。丸井はやる時はやるし、男の中の男っすよ後輩君」 「なんか最後に惚気られた」 そんなやり取りをしているうちに、後ろから「あれ、赤也じゃん」と、そんな声。 あ、丸井帰ってきた。 6日前
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結局、俺は合宿当日の今日まで、に何も言わなかった。それは文字通り、告白も、合宿のことも、何も。噂では合宿のことは、いつの間にかテニス部でない奴にも話が広まっているらしかったので、もしかしたらもとっくに知っていたのかもしれない。それでも特に彼女から合宿についてのことを聞かれなかったのはもしかしたら、やっぱり聞くほどのことではなかったとか、そういうことなんだろうか。…やめよ自分で言って悲しくなってきた。11月早朝の寒さまでもが胸の傷にしみるような気がした。 まだ薄暗さを残すこの時間、集合場所の学校には既にバスが停められていた。早く来たものから荷物をバスへ積み込む手筈で、遅れてくると周りに迷惑がかかることを、昨日幸村君が赤也に釘を刺していたから、今日ばかりは寝坊常習犯の赤也も、時刻通りに姿を現した。 赤也は、荷物を積み込むなり俺のところへやってきた。彼の聞きたいことはなんとなく分かって、進展ならなんもねえぞ、と素直に答えると、赤也はひどく面食らった顔をした。 「本当に何も?」 「んー」 「先輩からも何にも?」 「は、が何?」 「だって、先輩が、」 赤也の言葉を遮るように、バスのエンジンがかかる音が重なった。真田が話している俺達を諌めて、バスに乗り込むように促す。とりあえず続きは中で聞くから。俺はバスのステップに足をかけたところで、一番後ろに並んでいた幸村君が、あれ?と校舎の方を見やった。釣られてそちらへ目をやる。誰かが走って来るのが見えた。 「そのバス、待ったああああ!」 暗がりの中、こちらへ全速力で駆けてくるのはだった。何でお前が!と思わず言葉を漏らす横で、幸村君が「あれってブン太の彼女だよね」とか言っている。「いや、まだ彼女じゃないみたいッスよ」「へえー」そんな和やかな会話ののち、幸村君は俺をバスから押しのけて、代わりに自分がバスへ乗り込んだ。見上げる先の幸村君は柔らかく微笑んでいる。 「まだ出発まで時間あるよ」 そう、幸村君が俺の背中を押した。 は俺の前までやってくると、息を切らしながら何度も間に合って良かったと言葉を漏らした。膝に手をついて、もう身体を起こすのも辛いとでも言うくらいだった。運動音痴なのはよく知っているから、きっとここまでずっと走ってくるのは大変だったに違いない。俺が彼女の肩へ手を置くと、が顔を上げた。 「まさか、合宿の日付が今日だって、…おっ、思わなかったの!…友達に昨日、よる、きいて、それで、朝も、ね、ねぼうした!」 「お、おう、落ち着け」 やっぱり、合宿のことを知っていたのだなと思った。しどろもどろの彼女は、半ば泣きそうな顔をしていたけれど、必死に涙を堪えているようだった。それを見たら、もしかしたら合宿のことをきちんと知らせなかった俺を怒っているのかもしれないなんて、俺はもう何も言えなくなった。 しばらくして彼女は、呼吸を整えると両手を俺に開いて見せた。「見て」その手はマメだらけで、とても痛そうだ。数日前は、こんな風になっていなかったはずだが。 「お前これ、」 「ホームラン、打ちました」 「え?」 「これぞサヨナラホームランだね」 彼女はぼろぼろになった手を誇らしげに握りしめて、にっかりと笑った。の話によれば、野球部の連中に頼み込んで、毎日空いている時間にボールを投げてもらい彼女がホームランを打つまでバッティングの練習をしていたと言うのだ。野球部の奴らに途中で投げ出されそうになるくらいセンスがないと言われたとはそれさえけ自慢げだった。 「でも昨日ようやく打てたの、ホームラン。ほんとだよ。もう何百回振ったかは分からないけど」 「すげえけど、どうしてそんなこと、」 「どうして?決まってるじゃん」 「…まさか」 「丸井に告白するためだよ」 どきりと、心臓がはねた。 彼女の瞳は今までに見たどんな時よりも俺をまっすぐに捉えていて、怖くなるくらい、綺麗だ。 「今までこういうジンクス信じてやってきたけどさ、今思うと逃げてただけなのかなって。告白できるようなお膳立てが欲しくて、そんな運命来るの待ってたけど、」 グッと握りこぶしを俺へ突き出す。 「やっぱり待ちきれないから無理やり運命掴んでやった」 運動ができないくせに、手がこんな風になるまでボールを打ち続けた彼女に、俺は自分がものすごく情けなく感じた。告白のタイミングだとか、黙っていく方がスマートだとか、全部言い訳だ。自分の口からへ言葉を伝えるのが怖かっただけなのだ。「だから言わせて」白い息が空に溶けていく。 「私は、丸井ブン太が好きだ」 その言葉を聞いた瞬間、今まで臆病に手をこまねいていた自分が嘘みたいに思えるくらい、彼女を全部奪ってしまいたくなって、の腕を引くと強く腕の中におさめた。彼女の呼吸がすぐ近くに感じられて、そっと俺の名前を呼ぶ声が、鼓膜を震わせる。 「丸井…」 「好き、俺もお前のこと好き」 「…ん」 「、お前の彼氏にして」 「…ほんと、丸井は合宿のことも言ってくれないし、肝心なところで三振する馬鹿野郎だけど」 「…う」 「でも、良いよ。しょうがないから、彼氏にしてあげる」 「おう」 ふっと笑うと、顔を上げたの頬に俺は手を滑らせた。さっきまでの威勢が嘘みたいに、彼女は突然閉口して、驚きを映した丸い瞳が俺を見上げた。 「あの日のリベンジでキスしていい」 「え!?」 球技大会の日、結局キスし損ねたから。このまま合宿に行ったらきっと心残りで頑張れないかも、と俺が意地悪く言うと、は慌てて俺の胸を押し返して離れていった。せっかく良い雰囲気だったのに、名残惜しく思って、すっかり行き場のなくなった手を俺はポケットに押し込んだ。彼女は耳まで真っ赤にして一言「ノーリベンジで」。ノーリベンジだと。何だノーリベンジって。 「に、日本代表になれたら良いよ」 「お前俺が代表になれないと思って言ってんだろい」 「ま、まさか」 「…」 「…」 「…分かった。よーしじゃあ後悔すんじゃねえぞ」 俺はをもう一度引っ張ると、額にキスを落とした。「今はこれで我慢しといてやる」カッと頬を染めたは素早くパンチを繰り出したけど、俺はそれを華麗に避けて見せると、反撃を喰らう前にとバスの方へ走り出した。 「つうわけで行ってきまーす」 「ちょ…っだあああもう、行ってらっしゃい!」 乱暴な見送りを背中に受け止めながら俺は口元を緩める。そんな俺がふと見上げた先のバスは暖房が効いているはずなのに、窓が全開で、中からは皆の顔がこちらを覗いていた。 ――絶対これは後で冷やかされるやつである。 0日前
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(「はい、もしもし、」) 『あっ、もしもし、、元気にしてるか?俺、日本代表になったぜ』 青春ストライカーズ2 (「え、…マジか!」『マジマジー』) ( 青春ストライカーズの続き! // 150319 ) とっても遅くなりましたが、青春ストライカーズの続きのお話になります。青春ストライカーズの方は結局くっついたのか微妙な感じで終わったので、今回はばっちりくっついた貰いました。いつもとは違う感じで、視点をころころ変えて書いてみましたがいかがでしたでしょうか。久しぶりのちゃんとした短編だったので、感覚を忘れ気味だったのですけれども、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。 それから、U17が11月の何日からスタートしたのか調べた限りでは分からなかったので、とりあえずこの話の中では今年のカレンダーで11月1日の日曜からにさせていただきました。 リクエストありがとうございました! リクエスト : 紅葉さん |