scene01_白石蔵ノ介 |
じわじわと騒がしい蝉の声と夏の緑の匂い、それから突き抜けるような青空にぐんと両腕を伸ばしたくなる季節。それも全国大会が幕を閉じれば一気に終盤に近づいたように思われて、微かに胸に寂しさが残る。 それでもテニスだらけの毎日も、ようやく一区切りついたわけで、せっかくの夏休みであるし、部活も誰かとの予定もない今日は、ちょっと隣町まで足を伸ばしてカブリエルの餌を買いに行こうかとか、どうせなら良い包帯もあれば買っておこうかとか、俺は自分なりの無駄のないスケジュールを立てていたつもりだったのだ。 「母 危篤 三ノ二 マデ 救援求ム」 …のだけれど。 それは出かける直前に届いたそんなふざけたメールによってまさしく無駄になってしまうのである。 「追伸 勉強道具忘不可」 こんな内容がつけたされていれば、だいたいどんな内容で呼び出されたかは予想がつくけれど、それにしてもなぜ漢文。 「まあ、こんな事やろうと思ったけど」 がらがらと扉を開れば、教室からは、すうっと冷気が廊下へと流れ込んだ。流石に寒さを感じるレベルである。夏休みの空っぽの教室には案の定、数学のプリントをあちこちに散らかして頭を抱えたがいて、俺と目が合うなり「おー」と間延びした声を上げて、なんだかこちらまで気が抜けるような気がした。落ちているプリントは手付かずか、やりかけばかりだ。どれもこれもあと一週間後に終わる夏休みの課題である。 「俺、今日久々のフリーやったんやけどなあ」 「知ってる。だから呼んだのよーん」 「オサムちゃんの入れ知恵やな…」 「ふふん」 「ああ、あと、さっきのメール、漢文違てるで。忘不可やなくて、不可忘や」 助動詞は動詞の上に来るんやで。 そんな指摘をしながら俺は冷房の温度を確認すると18度なんて馬鹿げた数字が表示されていて、それだけで鳥肌が立つ思いがした。こういう無駄が地球温暖化を促進させるのである。エコは大事やと10度温度を上げてやると、後ろから消しゴムが飛んだ。痛。 「漢文の話すんな冷房上げんな」 「俺帰るで」 「えええやだあ!」 ばったばったと足をばたつかせる姿に凄く既視感。ああ、金ちゃんか。どうにも自分の周りには放っておけない人間が集まるものである。頼られると断れないタチがそうしているのだろうか。 ひとまず床に落ちたプリントを拾うように彼女に言って、しぶしぶしゃがみ込んだのを確認すると、俺は彼女の隣の席を引いた。 「宿題の手伝いのために呼んだんやろ。何が終わってないん」 「…あと数学だけ」 「せやけどあのメールみたら国語もミスだらけで不安になるな」 「こっ国語はちゃんと調べながらやったから大丈夫なんだよ」 「それならええけど」 俺が笑うと、は少し膨れて、それからようやくプリントにペンを走らせた。自分も鞄から同じ課題を出して、彼女の手が止まるたびに自分の解いたそれと照らし合わせて解説をしていく。もっともっとだらけると思えば、彼女は思いのほか真面目に取り組み続けて、それからどれくらい経っただろう。かりかりと彼女の走らせるペンの音になんだか心地よさを覚え始め、ちょうど昼すぎに差し掛かった時、ふと彼女が俺の顔を見上げた。 「ん、何や?」 「白石ってお昼で帰っちゃいますか」 「何でそう思うん」 「お昼ご飯持ってきてないでしょ」 「持って来とるけど」 「は、持って来てんの?!」 何を驚いたのか、彼女は声を裏返してそんな声を上げた。塩おにぎりと、朝飯で余っていた魚と、漬物と、それから後は適当に。俺は鞄から弁当を取り出して見せると、しかも手作りかよ、と彼女は半ば呆れ気味だった。かく言う自分はお弁当を持って来ているのだろうか。このペースでは多分、残りを片付けるのは夕方までかかってしまいそうだが。 「私は夏蜜柑持って来てるから」 「夏蜜柑って、…それだけかいな」 「もち。夏蜜柑はビタミンCもたくさんだし、疲労回復にも良いし」 「せやけど、それだけじゃあかんやろ」 彼女は鞄の中から綺麗な橙の夏蜜柑を三つ、ごろごろと取り出して、何処に持っていたのか小型のナイフで皮を器用に剥いてみせた。 それから冷房がついているにも関わらず彼女は窓を開けて、さらさらと入り込んでくる夏の空気を吸いながら、それに豪快にかぶりつく。ぱたた、と汁が滴ったのだけれど、彼女はあまり気にしていないようだった。ぺろりと舌を出してその顔が凄く幼く見える。彼女があまりに自由奔放過ぎるので、俺も何かを言う気にはどうにもならなかった。ただ、美味しそうに食べるもんやなあと、それくらい。 「それだけや足りひんと思うから、俺のお弁当も食べてええで」 柑橘の匂いがここまで届く。弁当を開けながら俺はにそう言うと、彼女は俺とその弁当を交互に見て、それから少しだけ眉を潜めた。「白石っていつもそうだよねえ」トーンの落ちたつまらなさそうな声。 「白石って偽善者って、よく言われない?」 「…。ない、と思うけどなあ」 「あ、そう」 あ、そうて。 わざわざ学校まで手伝いに来た人に随分なことを言う割に、あっさりしているものだ。 偽善者。もやもやとその言葉が頭の中で反芻した。彼女は何がいいたいのだろう。 「私、家のクーラーぶっ壊れたからわざわざ暑い中学校まで宿題やりに来たんだ」 「…ああ、せやったん」 「白石は私に呼ばれたくらいでわざわざ制服来てこの炎天下で学校まで来て」 「嫌やったら帰るけど」 「お弁当まで用意してるし」 「…」 自分なりに彼女を助けたいと色々と考えて来たつもりだったのだけれど、こう言われてしまうと何だか気分が悪い。机に広がる数学のテキストも、雑然と置かれた自分と彼女のプリントも、鉛筆も消しゴムも、途端に白けて見えた。 そんな俺の様子を見兼ねてか、わざとらしく明るい調子で彼女は言った。 「言っとくけど別に駄目だって言ってるわけじゃないよ。そうやって人に尽くすのって、簡単にできることじゃないし、嫌でもそうしないといけない場面ってきっと世の中たくさんある」 「悪いんやけど、が何が言いたいんか分からんわ」 「でも白石っていつもそう。いつも自分が遠慮して、相手のことばっかり」 ふざけた口調が途端に消えて、丸い瞳がまっすぐに俺を見つめていた。 「私はもっと白石が貪欲になってるとこを見たい」 どきりとした。野生的な色を秘めた彼女の瞳は、全てを見透かしているような、そんな視線を俺に向けていた。 「自分には負けてまうけど、俺かて一応年相応には貪欲なつもりなんやけどなあ」 「嘘だね」 「嘘て…」 「テニスしてる時の白石って、やっぱり自分を殺してるように見える。まあ、それでも怖いくらい勝ちに執着してる時は、唯一生きてるように見えたけど」 ……勝つこと。勝つこと。 確かに、それだけは自分が何にも囚われずに、唯一貪欲に求めていけるものだったのかもしれない。それももう、全国大会4位と言う形で、終わってしまったけれど。 「白石は頑張り過ぎなのかもね」 「いっこあげるよ」と彼女はまるまるとした夏蜜柑を放った。やけにゆっくりとそれはゆるやかな弧を描いて俺の手に落ちる。蜜柑の橙が、差し込む太陽の光にきらきらと眩しい。 何だかつい数日前にあった全国大会が遠い昔のように感じられた。俺はざらりとした夏蜜柑を撫でる。 「テニスボールっぽくない?」 手の中でどしりと存在感を放つそれは、重さも色も形も、そういう意味ではどうにもテニスボールとは頷きづらかったけれど、彼女がそう言った意味は、気持ちは、なんとなく分かるような気がした。「…せやな」俺は小さく笑った。「ねえ白石」 「わがままは言ったもん勝ち。今の白石も好きだけど、私はもっと自由な白石が見たいかも」 「…」 「…」 「」 「あは、なーんてね。冗談!」 あまり深く考えすぎないでよ、とからから笑う彼女がとても眩しい。 すとんと、ずっとずっと奥に引っかかっていた何かが落ちたような気がして、俺は夏蜜柑をそっと握りしめた。 テニスだけじゃない。常にしゃんとしていなくちゃいけないとか、頼られていることはいいことだから裏切ってはけないとか。 ああ、やっぱり、自分は肩に力を入れ過ぎていたのかもしれない。 椅子の背もたれに身体を預けると、顔に注ぐ太陽の光に目を細めてホッと息をついた。 「…眩しなあ」 「ん?」 「夏蜜柑がテニスボールなら、きっとは太陽やなあ」 「はは、なあにそれ」 夏蜜柑の陰にて (息抜きも必要って奴やな) (ちょっと頑張りすぎる白石君と//140915) もどる |