scene06_渡邊オサム |
普段は笑い溢れるこの教室も、廊下も、放課後の日の暮れた時間にはすっかり静まり返って、昼間では感じぬ夜の顔になる。我が四天宝寺は自他ともにどこもかしこも、学校らしからぬ学校と有名だけれど、夜には不気味さを醸すところはしっかり学校であった。 夏のべたつく空気の中、廊下には自分の足音一つのみで、私はその音にすらビクつきながら暗い廊下を突き進む。 「…こんなことになるなら、財前に怖い話なんて聞かなきゃ良かった」 今更ながらに部活中に好奇心で財前に怖い話をするようにとせびった自分大層恨めしく思う。 私が忘れ物に気づいたのは、部活が終わった直後のことであった。帰り支度をしている最中に、ふと同じクラスである白石と明日の宿題についての話題になって、そこで私は宿題に必要なノートを教室に忘れてきたことを思い出したのである。 私の所属するテニス部は、他の部活よりも活動時間が長く、部活が終わる頃には、いくら夏と言えど、すっかり日も暮れて、夕闇が校舎を不気味な色に浮かび上がらせていた。そんな校舎に戻ることに完全にビビる私を見兼ねてか、白石は付き添おうかと気を利かせてくれたものの、皆の披露具合はマネージャーである私がよく知っている。私は自分の心を奮い立たせて皆を先に帰らせたのである。 間違った選択はしていない、と思う。けれどやはり誰かしらについてきて貰いたかったこともまた事実。 ああ、そうだ、こんな時こそユウジ達のコントでも思い出して気持ちを明るくすれば良いのだ。…なんて、いかん、何にも思い出せない。 今更戻ることもできないし、いくも地獄帰るも地獄の体現か。 廊下の先がすっかり闇に溶け込んで不気味さを放つ、あそこに今から行かねばならぬ。きっと向こうからみたらここも同じくらい暗いのだろうが。「…そうしてを見た者は誰もいなかったのだった。完、なーんて」そんな洒落にならない言葉で自分を奮い立たせた私は前に進、「お前こんな時間までなにしとるん、」「ぎゃああああ」「ぎゃああああ」 それは一瞬の事だった。後ろの気配に向かって咄嗟に回し蹴りを食らわした私は、確かに足に何かを捉えた。 「お、おま、…ちょおいまええとこに入った、」 その声には聞き覚えがあった。というよりつい先程聞いた気がする。私は完全に腰を抜かしてしゃがみ込んで、なんとか後ろを振り返る。 「お、…お、お、おさ、…おっさん…」 「コラアアア」 「オサムちゃん…」 ださださのチューリップハットに、だるっだるの上着を着る男など、私の知り合いには一人しかいない。 私の蹴りが決まったであろう腹をさすりながら険しい顔をしていたのはテニス部の顧問であるオサムちゃんであった。彼はしばらくお腹の痛みに悶絶していたが、痛みが和らいでくると、よろよろとした動きで腕時計を見る。再びこんな時間にどうした、と。 「もしや忘れ物か?」 「…教室にノートを」 「夏のこないな時間にお約束なやっちゃなぁ」 「オサムちゃんは見回り当番とか」 「まあ、そんなとこやな」 白石達に頼めないなら、初めからオサムちゃんに頼めば良かったのか。しかし彼のあまりの頼りなさに完全に私の勘定から外れていた。 それにしても日常が顔面に突進するような勢いで帰って来たような、そんな展開についていけぬ放心状態だ。 「お、どうした、ぽかんとして。そない怖かったんか」 「うん、めっちゃ怖かった」 「オサムちゃんがついてったろか」 「どうしよう。初めてオサムちゃんがイケメンに見えたんだけど。きっともう二度とないよ。拝んどこう」 「ついて行かんで」 「やだあああオサムちゃんんんやだああああ」 「…あー分かった、分かった!オサムちゃんついってったるて!」 オサムちゃんは困ったように頭をかくと、しゃがんで私と目線を合わせると、わしゃわしゃと私の頭を撫でて、ほらよーしよーし泣いたらあかんでー、なんて完全に子供扱いである。骨張った指がやけに心地が良い。 「んじゃ、立ちや。行くで」 「いや、それが腰を抜かしてしまいましてね」 「…」 「オサムちゃんおんぶ」 「老体は労わるもんやで…」 大人とは都合の良し悪しで自分の年齢操作を行うのでとてもずるいと思う。おっさんなんて言ったら怒るくせに、こんな時ばかり老体だなんだと。私はこんな大人にはならない。 口を尖らせておんぶおんぶと足をばたつかせると、しばらく渋い顔をしていたオサムちゃんは、ついに私に背中を明け渡したのだった。 オサムちゃんの背中の乗り心地は悪くはなかった。ひょろっとした先生だと思っていたので、思いのほかしっかりした背中に私はぎゅ、としがみつく。 「オサムちゃんて、タバコ臭いね」 「オサムちゃんみたいなアダルトな大人は皆そんな匂いすんねん。ええ男のステータスやで」 「頭痛が痛いって言うくらい恥ずかしいよオサムちゃん」 「今んはボケや」 「そっかー、あんまり面白くないね」 「はっきり言いよるなあ」 傷ついたと言う割りに、オサムちゃんはからから笑っていた。背中から伝わるその笑い声は妙に心地が良い。 校舎は相変わらず真っ暗で不気味なはずなのに、今ではすっかり怖さも消え失せて、私は呑気に足をぶらつかせる。先程までは微塵も耳に入らなかった蝉の鳴き声が耳に届いた。 「ミーンミンミン」 「乗ってる側は呑気やなぁ」 「オサムちゃんがいるからもう怖くないしね」 「そらぁ良かったなあ」 当然だけれど、私達はそのまま無事に目的地の教室に辿り着くことができた。ノートもばっちり回収して、やっぱりオサムちゃんに背負われたまま来た道を引き返す。オサムちゃんは時折全然面白くないギャグを言って私を笑わせようとしていたけれど、私は微塵も笑わずに、ただただあんまり面白くないねと答えた。 それでもオサムちゃんはくだらない話をすることをやめなかった。 それは笑ってもらいたいからとか、そんな理由ではなくて、そんなことよりもとりあえず私が怖がっていないかを確認するように、沈黙を避けるように、私に気を遣って話をしているようだった。「ねえ、オサムちゃん」 「何やー?」 「オサムちゃんは優しいから競馬さえやめたらいいお嫁さんになるね」 「何でやねん」 「ボケてないよ」 「反応に困るわ」 そう答えるオサムちゃんは、やっぱり笑っていて、前からちゃんと分かっていたことだけれど、オサムちゃんは優しいなあと、思うのである。 空けていく弱さ (オサムちゃんとならお化けなんて怖くないよ) (誰にでも優しいオサムちゃんを//140818) もどる |