いつも聞こえる、あの馬鹿みたいに幸せそうな声を今日は一度も耳にしていない。もう夏が来た事を知らせる蝉の鳴き声が割り込む、夏休み間近の浮ついた教室を私はぐるりと見回すと、女の子達といつも通り会話に花を咲かせている金色君を見つけたそのすぐ後に、自分の席で突っ伏す一氏を視界に捉えた。どうやら休みではないらしい。丁度彼に頼みたい事があったので、休みでない事に安堵した。 私は元気のない彼の席まで行くと、彼の机を軽く蹴飛ばす。がたりと揺れるそれと同時に、伏せられていた彼の頭も僅かに上がった。 「どしたん、金色君にコンビ解消しよとでも言われたんか」 流石に実際にそんな事が起こるはずはないと、言った自分でも分かっていたが、常に喧嘩腰の会話ばかりしてきた私達にとって、これくらいの憎まれ口は、挨拶程度のものだったので、私はニヤニヤと構えたまま彼の返答を待っていた。しばらくすると、彼は小さく呻いてから、ようやく顔を上げた。その表情は今にも泣きそうなものだったので、まさか図星だったのだろうかと、にやけていた口元がすっと真一文字に結ばれる。 この学校ではコンビ解消なんて洒落にならないし、ましてや、金色君にぞっこんなこいつの事となれば、死活問題になりかねない。普段なら金色君と喧嘩をしていても、しつこく声くらいはかけるハズなのに、それすらもできない程落ち込んでいるというのか。 ちらりと、三つ後ろの席で女の子達ときゃいきゃいと騒ぐ彼を確認してから、まさかな?と一氏によく分からない問い方をした。 「こ、…こはるが、小春が、俺の事しつこいて、」 「…いつもやん」 「嫌いやて、」 「ふんふん、それで?」 「うっとおしいから、しばらく近づかんといてって」 「ああ…」 ゆっくりと口を開いた一氏の言葉に、コンビを解散するわけではなかったのかと少しホッとした。いや、解散してくれても全然構わなかったのだが。そうすればS1グランプリで私が彼らを抜いて一番の座を得られるというのに。 今にも泣き出しそうな一氏をしらーっとした目つきで見つめて、いつもの事やんけと私は肩を竦めた。ただでさえこんな時期で暑いというのに、こいつのジメジメした雰囲気が教室の湿度を上げている気がしてならなかった。 「いつまでもうじうじしとると、『ふたうじ』になるで」 「は、どういう意味や」 また憎まれ口でも叩いてやれば彼が元気を取り戻すと思って、思いついた洒落を人差し指を立てながら得意げに話す。彼は訝しげに話に食いついてきた。 「分からんのかいな。ほれ、うじうじで、『うじ』が二つ。二氏やで、ウケる」 「ウケへんわボケ」 そんなしょうもないギャグ考えとるからいつまでも俺らに勝てへんのやと、彼が痛いところを突いてきたので、思わず頬をぷくりと膨らました。別に本当にこのネタが面白いと思って言ったわけではない。 「ちゅうか何やお前は、俺をディスりにでも来たんか。そないに暇ならネタの一つでも考えとれ」 「あ、そうや、ちゃうちゃう。頼みがあったんよ」 「頼み?」 「明日華月で、おわライブやるんやけど、そこで使う衣装が間に合いそうになくてな、ちょっと手伝って欲しいんよ。私、縫い物苦手で」 「は?自分の用意くらい自分でせえよ。だいたい俺は敵に手を貸すほど暇やない」 「…今暇そうやけど」 「心傷中」 一氏は話しているうちに、いつの間にかいつも通りの様子に戻っていたが、機嫌が悪い事には代わりがないので、いつもの三割増し程、口調が厳しい。おだてればやってくれそうな、いつもの手が通じなさそうなので、私は口を尖らせてそうかい、と背を向けて自分の席に戻って行った。 席についてから、私は渋々衣装の作成を進めながら、時折一氏の席へと目をやっていた。彼は相変わらず机に伏せたままであり、金色君の方をたまに気にするものの、声を掛けようかまごついているようだった。それが私には焦れったくもあり、別の意味で腹立たしくもあった。理由は簡単なことだった。 哀れなことに、私は、一氏ユウジに好意を寄せていたのだ。 衣装の縫い合わせは休み時間を費やすだけでは到底終わるようなものではなく、放課後にまで及んだ。放課後は教室の冷房が切られてしまうので、この蒸し暑い中の作業となる。たらりと首を伝う汗を制服で乱暴にぬぐい、小さくため息をこぼした。本番は明日だというのに、情けない。S1の準優勝が聞いて呆れる。 一氏に冷たくされた事もあってか、それとも奴の頭の中にはいつも以上に金色君しかいなかったからか、恐らく両方だろうが、それが蒸し暑さやゴールが見えない衣装の準備と相まって、余計に私を虚しくさせていた。 そうして机に額を付けて伏せているうちに、私はどうやら寝てしまっていたようだ。 それからどれくらい寝ていただろうか。気づいた時には、辺りは薄暗く、もう学校に残っているような時間ではなかった。 「しもた、やってもうたわあああ」 頭をおさえて、全く終わっていない作業へと視線を移せば、おかしな事に悩みの種であったはずのソレは、私の目の前にきちんと折りたたまれて置いてあるではないか。怪訝に思って広げてみると、なんとできあがっている。 「も、もしや、私には寝ながら裁縫ができるっちゅう特技が!?知らんかったあああ!」 「お前はホンマもんのアホか」 「はえ!?ふたうじ!」 「死なすど」 聞こえるはずがないその声に肩を震わせて振り返れば、そこにはスポーツドリンク片手に呆れ顔の一氏である。どうやら、これは彼がやってくれていたらしい。つまり、私は寝顔を見られた。ハッとして、頬をおさえると、彼は小馬鹿にしたように笑って、ずいぶん間抜けな面晒しとったで、と、女の子に対してはあんまりな言葉を寄越す。 「ひ、酷…!」 「はん、それよか、ほれ。脱水症状起こすで」 彼は持っていたペットボトルを投げた。それを危なげに受け取り、確かに喉が渇いていたと、ドリンクを口に含む。こんな中で寝ていたから当たり前であるが、制服も汗でぐっしょりだった。額の汗を手の甲で拭って、目の前の彼を一瞥した。まさか心配してくれたの、か。なんというか、一氏が優しい。いや、知っていたけれど。ツンツンしている癖に、変なところで世話焼きなのだ。きっと放っておけないのである。それにしてもちょっと優しすぎる気がするが。 「あ、…その、…お、おおきに」 「おん」 「えと、金色君とは、仲直りしたんか」 「してたらこんなとこにおらへんわ」 「そ、それもそうか…」 そこで会話が途切れて、妙な間が空いた。向こうは何とも思っていないようだが、私からしたら一氏の、朝との変貌ぶりにたじろいでしまう。もしかして、強く当たりすぎたか、と彼なりに申し訳なく思っての事だろうか。彼は金色君に言われなければそういうのには正直疎いと思い込んでいた。私はよくわからないタイミングで、もう一度礼を告げた。 「まあ、なんや…一人で頑張ってたみたいやし」 「お、おん」 言って恥ずかしくなったのか、彼はわしゃりと自分の頭をかくと、帰るでとそっけなく言い放った。私はそんな背中に、どうしてこんな事を言おうと思ったのか分からなかったが、気づけば彼の腕を掴んでいた。 「一氏、私のパートナーにならへんか」 あまりに突然だったように思う。彼は私の言葉にしばらく惚けたように目を丸くしていた。しかし、すぐに、はあ?みたいな顔になって、笑い出した。 「なんやお前、いきなり。このタイミングで引き抜きとか。それはお前と夫婦漫才でもやれてことか?でも俺には小春しかおらんし」 「それ夫婦やないやん。…やなくて!ちゃうねん、そういうのやなくて…!」 「いや、一回くらいは俺もお前とコントやってもオモロいとは思たけど、」 「そうやないあほう!」 思いの外、大きな声が出て、私自身も驚いた。一氏と漫才できるのも魅力的だ。そりゃ魅力的ではあるけれど、私が言いたいのはそういうことではない。 顔に熱が集中し、息も微かに震える。これが乙女かと、らしくないことを考えた。 「わ、私の、人生のパートナーになって下さい」 「ハハ、それ新しいネタか。まるでプロポー、」 「…」 「え、いやホンマか」 「ホンマや」 「…嘘やん」 「嘘ちゃう!」 スカートの裾をきゅっと握りしめて一氏をじっと見つめた。ただ告白しただけであるのに、視界がじわりと滲んで、今にも泣きそうな自分が信じられない。一氏も、信じられなさそうな顔をしていた。 「お、俺には小春がおるんや!」 「それ男や!」 「関係ない!」 「少しは女の子見てっ…こっち、見てえな…」 何たってこんな面倒な恋をしたんだろうと、今更思ってしまった。だんだんやるせなくなって、上げていた顔を下げる。私はただ、足元の靴を、じっと見つめて、ひゅっと息を吸った。「…一氏はそろそろ女の子見るべきや。それで…ちゃんと私を見て欲しい」と。 「んなこと言われても、なあ…」 困ったように、彼は頭をかいてバンダナを外したのが視界のはしに見えた。最後の押しと言うように、私は顔を上げると、彼は私をじっと見つめて、こう言った。 「かて最早女やないやん」 「お前しねよ」 やかましかったはずの蝉の声が急に、ぱたりと止んで、私を無性に虚しくさせた。 掛け違えた夏 (肝心な所で拍子抜けなユウジが好きです//130903) もどる |