『伝えたい言葉』




…―
コン。



どこからか小さくノックをするような音がした。


反射的に読んでいた雑誌から目を離し、リョーマは寝ころんだままベッドの上から6畳の自室をぐるりと見渡す。

電源の消えたテレビ、煌々と光るシーリングライト、窓辺のカーテン、雑然とテニス雑誌や終業式のプリント類が散らばった勉強机、半開きのドアの向こうにも人の気配はない。
床にはラケットとテニスボールが入ったスポーツバッグが所構わず無造作に置いてあるだけで、特に変わった様子はなかった。



「?」



音の正体がわからないままリョーマは首を傾げた。


気のせいだったのか。


特に深く考えることもなく、読みかけのテニス雑誌の続きのページを捲ろうと、自分のベッドに視線を戻す。



「!わっ!」



同時に、使い古したテニスボールが飛び跳ねながらベッドの下を転がり出て、それを追いかけて灰色の猫が勢いよく飛び出した。



「カルピンか。驚かすなよ。」



リョーマはやれやれと溜め息をつきながら、テニスボールにじゃれ付く愛猫を抱き上げて頭を撫でた。


カルピンは毛の長い尻尾を左右にゆらゆらと揺らしながら個性的な鳴き声をあげ、リョーマのことなどお構いなしに蒼い眼は夢中でテニスボールを追いかけている。
結局、10秒も経たないうちに自らリョーマの腕からクルリと飛び降りると、再びテニスボールを追いかけて走って行ってしまった。

主人によく似て自由気ままなヒマラヤンである。



…―
コン。



カルビンが出て行ったドアを眺めていたリョーマの背後から、先程と同じ何かがぶつかる音がして、リョーマは音のした方向を振り返った。

音がしたのはドアとは正反対の方向道路に面した窓側。


てっきり先程の音はカルビンが追いかけているボールが壁に当たった音だと思っていたリョーマは、不思議に思いながら窓のカーテンを開けた。

窓ガラスを開けると、12月の肌寒い風が部屋の中に吹き込みリョーマの黒髪を揺らす。
開けた窓の下を小石がコロコロと屋根をつたって転がり落ちていくのが見えた。

見えなくなった小石のその先の、すっかり暗くなった外を、リョーマは目を凝らすように覗きこんだ。



何やってんの?」



暗がりの中に立ちすくむ人影を見つけて、リョーマは一瞬見間違えかと目を疑ったが、再度その姿を確認すると驚きを通り越して呆れた声を掛けた。

ニット帽とマフラーで顔は見えなかったが、普段見慣れたその姿から誰かは容易に想像できる。
はコートの中で小さくなりながら寒そうに手を擦り合わせていたが、リョーマが窓から顔を出すと嬉しそうに手を左右に振った。



「まったく。」



いつからそこに居たのだろうか。

窓を閉めながらのことを考えた。
こんな時間に1人で会いに来る事が、どれだけ人を心配させるかはわかっていないとリョーマは思う。



「おいおい、どーこ行くんだ、リョーマ?」

「別にちょっとファンタ買ってくるだけ。」



リョーマは上着を手に取ると階段を駆け降り、廊下ですれ違った暇そうな父親にそれだけ言い残すと、ジャケットを羽織りながら足早に玄関を飛び出した。









街中にあるとはいえ自宅の隣が寺なだけあって、リョーマの自宅前の道路は街灯も少なく人通りもあまりない。
その代わり、冬の冷たさで澄んだ空気が透き通るような夜空を覆い、静かで美しい月夜が際立っていた。

リョーマが玄関先の門を出ると、石垣にもたれ掛っていたはパッと顔を上げ、寒さで紅潮した頬を緩ませリョーマの元へ駆け寄って来る。
の白いマフラーが彼女の後を追うようにふわりと揺れた。



「ごめんね。こんな時間に。」



遠慮がちに詫びの言葉を口にしながら、がリョーマの顔を覗きこむように首を傾げると、ニット帽からはみ出した髪が華奢な肩から梳くように流れる。
門灯に照らされて、真っ直ぐ射抜くようなの瞳がリョーマを見ていた。

会話をする時は相手から目を逸らさずに話すの癖。

リョーマは面映ゆげに視線を逸らした。



1人?」



その場を紛らわすように、咄嗟にリョーマの口を突いたのはそんな質問だった。

ひっそりとした夜道には2人の他にすれ違う人もいない。
に聞くまでもないのに、リョーマはぶっつけに自分の気になることを聞く口下手な自分を恨んだ。



「あ、うん。1人で来たかったからこっそり抜け出してきちゃった。」



出し抜けの問いには一瞬驚いたように目を見開いたが、リョーマの視線を追うように辺りを見回しながら、努めて明るく答えた。


やっぱり、そうじゃないかとは思ってたけど。


予想通りの答えにリョーマは思わず溜め息をついた。



………。」

リョーマ、怒ってる?」



頭を抱えたリョーマの態度に、は沈んだような弱々しい声で問いかけた。


こんな時間に親に見つからないよう家を抜け出して勝手に会いに来たこと。



きっとリョーマは怒っている。


リョーマを困らせたくて来た訳ではないのに。
でも、どうしても。

今日中に逢って伝えたい言葉があったから。



ごめんなさい。」



迷惑だったよね


リョーマにとって自分は特別でない。それだけの存在。

自分が悪いのは分かっているのに行き場をなくした心は悲しくて。
泣くまいと必死に堪えるにも関わらずの視界は涙で滲んだ。


その様子を見て、リョーマはもう一度、別の意味で溜め息をついた。



「呆れてるけどさ、別に怒ってるわけじゃないし。」



ふとコートの袖からはみ出していたの手に、暖かいものが触れる。
涙を拭って顔を上げれば、いつもの生意気そうな顔に小さく笑みを浮かべたリョーマがの手を掴んでいた。

その表情に、は不思議そうに目を丸くしながらリョーマを見返した。



「りょ、リョーマ?」

「ファンタ買うの、付き合ってよ。」




嬉しかったから。


どんな理由であれ、新学期が始まるまで会えないと思っていたがわざわざ会いに来てくれたことは。

そうしたらこのまま帰すのが嫌になった。
でも素直にそう言うようなガラじゃないし。


リョーマはそれ以上は何も言わずに、寒さで冷たくなったの手を包み込むように握りながら、その手を引いて月夜の下を歩きだした。









「ねぇ、何飲みたい?」

「えっ!?なんでもいいよ。でも私、お金持ってきてないよ?」

「いいよ、俺の奢りだし。はい。」



の返事を聞くより先にリョーマが投げ渡した熱いココアの缶を落とさないように、は慌てて手を出して受け取めた。
両手に納まったそれは小さいけれど、悴んだ指先にはスチール缶に詰まった温かさがゆっくりと広がっていく。



「ぁありがと。」



勝手に押しかけた上に奢ってもらうなんて申し訳ないと思ったが、リョーマの優しさが嬉しくて、は素直に好意に甘えて自動販売機前に立つリョーマの後ろ姿に礼を述べた。


リョーマは無愛想で、生意気で、クールな人だと周りは言うけれど、本当は優しい人だとは思う。
ただちょっと負けず嫌いだから、自分のそんなところを人に見られるのが嫌で大っぴらにはしないけど。


リョーマは前屈みになって自動販売機の取り出し口からお気に入りの炭酸飲料を取り出すと、道路を挟んで向こう側にある公園へと足を向けた。



「何?さっきから俺の顔ばっかり見て。」

「!な、なんでもない。」

「ふーん。ならいいけど。」



ぼんやりとリョーマの仕草に見入っていたは、首を左右に振って急いで赤い顔をマフラーに埋めた。
その様子にリョーマは内心満足しながら、誰もいない小さな公園に行くと入口近くにあった木製のベンチに腰掛け、 無言のまま後を着いて来たもそのまま隣にストンと腰を下ろす。



「それで?」

「?」



リョーマにもらった缶を開けてしまうのが惜しくなって、それを手で弄りながら公園の遊具を眺めていたはリョーマの言わんとすることが分からずに小首を傾げた。
リョーマは缶の蓋に手を掛けながら、ネコのような大きく好奇心に満ちた目でを見つめていた。



「こんな時間にわざわざ何しに来たわけ?」

「あっ!うん。えっとね。」



リョーマの缶の蓋の飲み口から炭酸の抜ける音がして、リョーマはそれを飲みながら横目での様子を窺う。
は言葉を濁しながら、ぎこちなく手元でくるくる回していたスチール缶に視線を落とした。

何か言いたげに口を開いてはまた閉じる。
そんなことを何回か繰り返した後、意を決したようには顔を上げた。



「あのね、」



いざ面と向かって言うとなると、やっぱり照れくさくて。
は緊張で早打つ心臓の音と頬が赤くなるのを感じながら、真っ直ぐにリョーマの瞳を見つめた。



でと。」

「?」


「誕生日。

 おめでとう。 リョーマ。」



そう言うとはギュッとニット帽の端を掴んで深く被りながら、恥ずかしさや照れくささを必死に隠すように微笑んだ。


の笑った顔。
好きだったから。


不覚にもその笑顔に見入ったまま、リョーマは驚いた表情で固まって、手の中の炭酸飲料の缶がバランスを崩して少し傾いた。



ああそうか。

 今日は、



夕方に偶然桃先輩に会って聞いたの、とは照れたままの顔で下を向いて呟いた。


髪を掻き上げる仕草、俯いた長い睫毛、その様子はまるでスローモーションのようにリョーマの目に映った。
はにかんだその表情に、仕草に、声に、初めて感じる感情が自分の内側に溢れてくる。


そうだ、自分も。
に伝えたいことがあったはず。



でも言葉に出して言うのは、苦手なんだよね。




サンキュ。でもさ、足りないんだけど。」

「足りないって何が?」



緊張の糸が切れ安心しきっていたは驚いて顔を上げると、キョトンとした表情でリョーマの方を振り向いた。
夜の公園の静かな暗がりの中で、リョーマは意地悪そうな表情の口元に微笑を浮かべてを見つめながら「今日何の日か知ってる?」と言って、少し開いた2人の距離を近づける。



「?リョーマの誕生日。」

「残念、ハズレ。」

「え?」



「じゃあ何なの?」と、が疑問の声を上げるより一瞬早く、リョーマの手がのコートの肩を掴んで彼女を引き寄せた。
ふと柔らかい何かが唇に触れて、甘いジュースの香りが広がる。


同じ目線の高さから。

小さなキス。

伝えたい言葉を詰め込んで。



Merry Christmas.



ゆっくりと離れたリョーマの唇から発せられた言葉を聞いてもなお、はまだ状況を把握できていないように呆然とリョーマを見つめていた。
彼女のあまりにも驚いて声も出ない様子が先程の自分と重なるようで、可笑しくなる。



「クリスマスプレゼント、確かにもらったから。」

「っ!」



それだけ言うと、リョーマは缶に僅かに残ったジュースを一気に飲み干し立ち上がり、 大きく体を伸ばし白い息を吐いた。
胸のつかえが取れたみたいに感じる。

静かなままのにチラリと視線を移せば、は耳の先まで赤い顔を両手で顔を覆って頬を膨らませながら、月明かりに潤んだ瞳で恨めしそうにリョーマを見ていた。



伝えたい言葉は。

無事、彼女に届いたらしい。



「まだまだだね。」



余裕の表情でリョーマは小さく笑うと、座ったままのに手を差し伸べる。


聖夜の熱に酔ってしまいそう。
ずっと恋焦がれていた、その手を取って、ぎゅっと握り返す。


寒い夜空の下、ゆっくりとがリョーマの隣を歩きだすのを、淡く輝く満月だけが見ていた。



( きゅんきゅんです // )
木漏れ日の家の向日葵さんからいただきました!
すすす、すばらしすぎる!!文章が素敵でもう涙が…ありがとうございました!