act.04_ 丸井先輩と仁王先輩が喧嘩



正直、丸井先輩が本気で怒ったところなんて俺は一度も見たことが無かった。もちろんそれはカミナリオヤジの真田副部長を除く他の先輩にも当てはまることだろうけれど、丸井先輩は歳の離れた弟が二人もいるだけあって、怒鳴るいうよりも諭すとか、そういう言葉の方がしっくり来るような気がした。なんだかんだで俺が何かやらかしても真田副部長に説教をされる俺のフォロー役に回っていたのだ。まあそもそも論を言えば、俺が何かをする時は大抵丸井先輩や仁王先輩が絡んでいることが多いというのもあるのだけれど。
俺がこんな話を始めた理由というのも、まさに丸井先輩が、怒りを顕にしていたからで、俺を含めた他の部員も恐らく初めて見るその様子に、唖然と立ち尽くしていた。

「おい仁王! 今のボール走れば追いついただろうが!」
 
そんな台詞が飛べばどういう流れで丸井先輩が怒り出したかなんて一目瞭然だ。声のするコートの様子を恐る恐る伺うと、ネットの前に立つ丸井先輩と、ネット越しに相変わらずどこ吹く風なんて言った様子の仁王先輩。その態度が余計に丸井先輩の気に触れたらしい、先輩はラケットを地面に叩きつけて「良い加減にしろよ!」と仁王先輩の胸倉を掴みにかかった。
流石のこれには俺も驚いて、慌てて二人の間に割って入る。しかし真田副部長はおろか、他の先輩すら仲裁に入ろうとはせず、もはやこちらを見ていない。

「ま、まあまあ丸井先輩落ち着ちついてくださいよ」
「うるせえテメエは黙ってろい!」
「ちょ、仁王先輩も、なんとか」
「いちいち暑苦しい」
「ああ? なんだとテメエ!」
「先輩!」
 
恐らく仁王先輩が本気でボールを追わなかったのに腹を立てているのだろうが、そんなこと、真田副部長ならばともかく、丸井先輩が今まで怒ったことがあっただろうか。らしくないと俺は二人を無理やり引き剥がすと、丸井先輩はまるでお前は仁王の味方なのかとでも言うように鋭く俺を睨みつけた。

「なんだよ、そうやって手を抜くのがかっこいいとか思ってんのお前、ダッサ」
「お前さんこそ何熱くなっとんのじゃ馬鹿か」
「馬鹿はお前だろ。ボールひとつまともに追えねえやつが試合に勝てるわけねえ」
「俺は負けん」

どうだかな、仁王先輩の台詞に丸井先輩がすかさず答えて、俺は余計に表情を強張らせた。仁王先輩がぴくりと、そっぽへ向けていた顔を戻す。そろそろ仁王先輩からの暴言でも飛ぶか、と身構えて、二人の間に流れる沈黙に耐えられなくなった俺は、「丸井先輩らしくないですよ!」と再びその間に割り込んだ。しかしやはり俺の言葉は状況を打開する力なんぞ微塵も持ち合わせてはいない。
丸井先輩はやけに静かな声でお前忘れたのか、とつぶやいた。

「なにを、」
「俺達は関東大会で負けたんだよ。もう王者じゃない」
 
空気が余計にピンと張り詰めた。丸井先輩が怒った理由が、先輩達が見て見ぬ振りをした理由が、そこで分かった。

「幸村君が引き継いで守ってきた王者立海を、幸村君がいない間に他の奴らにもっていかれた」
 
仁王先輩は黙ったままだった。ただ、丸井先輩の言い分に納得しているようにも見えなくて、そのまましばらくの沈黙のあと、対照的に緊張感のない仁王先輩のため息。

「それを俺に言うんは間違いなんじゃないかのう」
「……は?」
「俺やなくて、参謀やら真田やら、そこにいる赤也にでも言ったらどうじゃ」
 
俺らが負けたんはこいつらのせいじゃろ、と。俺は何も言えなかった。ガツンと頭を殴られたような衝撃。一瞬にして頭の中にあの日のことが駆け巡った。負けた自分の不甲斐なさに、ぎりりと唇を噛みしめる。

「っお前よくもそんなこと!」
「事実じゃき」
「俺はテメエのそういう態度がずっと気に食わなかった」
「ほー気が合うのう、俺も馬鹿みたいに愛想振りまくお前さんのことが気に食わなかったぜよ」
「……っ」
「……」
「……ボールも追えねえ、チームメイトも馬鹿にする、そんならお前、」
 
丸井先輩の目は鋭くて、冷たくて、先輩が次にいう言葉を、俺はその時なんとなく悟ってしまった。

「お前部活、辞めろよ」
 
人の喧嘩なんて、しかも自分の親しい先輩同士の喧嘩なんて、見ていて気持ちいいものではないとか、そんなレベルを脱した瞬間だった。

「ちょ、丸井先輩流石にそれは」
「名案じゃな」
 
頭が真っ白になった。それからの仁王先輩は相変わらず淡白で、何事もなかったかのようにコートを出て行くと、部室に引っ込んでいった。

「……本当に仁王先輩がやめちゃったら、」
 
本当に仁王先輩がやめちゃったらどうしよう。
すがる思いで丸井先輩を見やると、先輩はじっと先程まで仁王先輩が立っていた場所を睨みつけていただけであった。それから俺が何を言っても言葉は返る来ることがなくて、いよいよ嫌な緊張感が俺を侵食し始めた時、再び部室の扉が開く音がする。中からはすっかり制服に着替え終えた仁王先輩が現れて、ふらふらと真田副部長の前まで行くと、退部届はなるべく早めに出すと、それだけ告げた。
コートを出て行く仁王先輩は相変わらず猫背で、そんなことはいつものことなのに、ジャージを着ていない先輩の丸まった背中は、俺にはいつもより何倍も小さく見えた。俺はたまらず仁王先輩を追いかけた。嘘だと思った。そんなに簡単にやめられるものではない。

「仁王先輩!」
「……なんじゃ、やかましい」
「部活やめるってウソですよね。ほら、いつもの、大げさなウソで、皆を驚かせて、」
「そんなんやってどうすんじゃ。部活の士気が下がるだけやろうが」
「……でも、だって、それなら」
「俺とブン太みたいんが一緒にいたら部に悪影響じゃ。どっちかが辞めるとしたら、どう考えても俺しかおらんし」

俺ももう飽きた。随分とさっぱりと先輩は言い切った。



仁王先輩の言った最後の言葉を、俺はどうしても信じることができなかった。飽きたなんて、そんなことを本気で言えるはずがない。確かに仁王先輩はサボり癖があるし、いつだって飄々として何かに熱くなることなんてないけれど、きっと、テニスだけは。そう、テニスだけはと、俺は信じたかった。

「赤也、何かあった?」
「……え」
 
日暮れ時の病室は、朱色に染まって、落ち着いた空気が窓からカーテンを揺らして滑り込んでくる。普段は部活帰りに全員で来ることが多い幸村部長の見舞いを、俺一人で来たことに部長はきっと驚いたに違いない。けれど俺の姿に部長は微笑んだだけで、何も言わなかった。どうしてこんな時に幸村部長のところへ来てしまったのか分からない。本当は心配などかけたくないのに。
ヘタをしたら今日のことを全て部長に喋ってしまいそうで、そんな自分を抑え込んで俺はまくしたてるように、英語のテストが酷かったとか、クラスの友人がどうだったとか、あれこれどうでも良いことを部長に話した。しかし幸村部長には、どうやら俺が何かに悩んでいるということを、お見通しだったみたいだ。

「また真田にでも怒られたのかい?」
「ち、違いますよ!」
「冗談だよ。殴られた跡はないし、何よりそういう時は、赤也は落ち込むというより拗ねているからね」
 
俺に言えないことかな、と部長は俺の顔を覗き込んだ。違う、本当は言いたいんだ。幸村部長に、きっと大丈夫だと言ってもらいたい。けれど、今それを部長に求めるのは果たして正しいことなのだろうか。

「ねえ赤也、もしかしたら俺に迷惑がかかるとか、何かそういう意味で遠慮をしているとしたら、……お前は何も分かってないね」
「どういう、」
「俺達はお前に迷惑なんてかけられっぱなしだよ。今更遠慮なんて意味がないと思わない?」
 
分かってはいたけれど、ちょっと辛辣なことを言われたなと思う。部長はそんな俺の様子もどこ吹く風と言った様子で、ずっと立ちっぱなしだった俺を近くの椅子に座らせれば、俺はいよいよだんまりを続けられなくなった。

「……実は、」
 
それから俺は今日会った丸井先輩と仁王先輩のことを簡単に話してみせた。部長は何故か話している最中にずっと笑いをこらえるようなそぶりをしていて、話し終わる頃にはついに噴き出したのだった。所謂、爆笑というやつだ。この話のどこが面白かったのか俺とても疑問。

「あははは、そんなことがあったの。ははは青春だねえ。俺も見たかったなあそのシーン、ははっ」

笑いすぎである。

「お、俺は真面目っすよ! もし仁王先輩が辞めちゃったら、」
「辞めないよ」
 
間髪を入れずに幸村部長の言葉が俺の声を遮った。その言葉だけはそれまでと違ってどうにも真面目なニュアンスだったので、俺はそこで言葉を止めた。どうしてそう断言できるのだろうか。幸村部長の横顔は、言葉通り、まったく心配していない風だった。

「……どうしてそんなこと分かるんすか」
 
丸井先輩ならまだしも、仁王先輩の場合、たとえテニスが好きでも自分の体裁のためだとか、そんな理由であっさり辞めてしまいそうな危うさがある。

「だってあいつらにはテニスしかないから」

もちろん俺も、きっとお前もね。幸村部長は笑った。
 
俺はその言葉を聞きながら手の中にできたいくつものマメを撫でて、そっと手を握りしめる。

「ブン太も、分かりにくいけど仁王だって、誰にも負けないくらい強くなる努力をしてる」

そんな事は、レギュラーの座を保ち続けていることを考えれば明白だ。

「仁王はサボりがちな性格だけれど、誰かになり切るなんて、そう簡単にできることじゃない。でもあいつは簡単にやってのけるだろ。努力なしでそんな事ができるわけがないんだ」
「……」
「だから、どんなに恰好が悪くたって、簡単に捨てれるものじゃないよ」

きゅっと、幸村部長はシーツを固く握りしめた。そう信じて疑わぬ目をしていた。

「それにね、ブン太は現状に苛立っているみたいだけど、その苛立ちっていうのは人によって現れ方が違うと思うよ」

俺は付け加えるように紡がれたその言葉の意味が、その時はどうにも理解ができなかった。問おうにも、部長は空気を切り替えるように明るい調子で別の話を持ち出したので、結局意味は聞けぬまま、その話は流れていく。

「それにしても、たかがこんな事で喧嘩するなんてあの二人も馬鹿だね」
「たかがじゃないッスよ」
 
自分はこんかい仲裁する側の人間であるけれど、丸井先輩の気持ちは痛いほど分かる。幸村部長がコートに立てない今、俺達は幸村部長の分の想いも背負ってコートに立っている。どんな事があっても負けてはいけない。

「たかが、だよ。俺からしたらね」

幸村部長は、壁に立てかけているラケットの方をぼんやりと見ているようだった。どこか寂しげに見えるその表情に、俺の言葉はどれも薄っぺらく思えて、何も言うことができなかった。

「確かにブン太の気持ちは分からなくはないし、責任を感じてくれているのはすごく伝わってくる。だけど、揉め事を起こさなければいけない事かい?」
「……」
「『全員』で勝たなかったら意味がない」
「……。はい」
「なんてね、どう。少しはわだかまりが消えたかな」
「す、すんません、……ええと、色々と」

深々と頭を下げる俺に、らしくないなあ、と笑い声が降ってくる。時刻を確認すると、一時間はここでこうして話していたようだ。元々長居をして部長の体に負担をかけるなと真田副部長には口を酸っぱくして言われてきていたから、俺は慌ただしく鞄を背負うと、もうそろそろ帰ることを告げた。幸村部長が、息を吐くように、そっと目を伏せる。

「そう」

こんな時、幸村部長はいつも少しだけ寂しそうに笑うのだった。


「ね、赤也」

それから、病室から出て行こうとする俺を、幸村部長は引き留めた。振り返った先は夕焼けが眩しくて、俺は、いつだったか、まだ幸村部長が病気にかかる前、毎日毎日、全員そろって部活でこんな時間まで練習に明け暮れて、最後には水すらも飲む気が起きないくらいにへとへとになった、そんな日のことを思い出した。幸村部長の表情は、その時と重なって、胸がぐっと詰まるような思いがする。

「もしも仁王が本当に辞めてしまって、ブン太がまだ拗ねているようだったら二人をここに連れてくると良いよ。俺がお灸をすえてあげる」



あれから、数日間、仁王先輩が部活に現れることはなかった。
元々ダブルスのパートナーで、部活では頻繁に一緒に練習をしていた柳生先輩はそわそわとどこか落ち着きがない様子で、まあ、それは当然と言えば当然だ。先輩は仁王先輩のクラスに顔を出しては部活に来るようにと声をかけているらしいが、現状を見れば、それが功を奏していないのは一目瞭然である。肝心の丸井先輩と言えば、仁王先輩と同じクラスであるから顔は合せているのだろうけれど、仁王先輩は殆ど教室にいる人ではないので、まるで関わりを持っていないのは何となく予想がついた。(そもそも喧嘩をする前だって、そこまで頻繁に話しているわけでもなさそうに見えた)
俺だって自分たちの繋がりを信じたいし、幸村部長の言葉を疑うわけではないけれど、このまま放っておいて仁王先輩は本当に戻ってくるのだろうか。早くしなければ、全国大会が始まってしまう。
俺はふらりと入り込んだ木陰から、なんとはなしにフェンスの向こう側を見やっていると、ふと、俺はあの銀髪を見た。

「仁王先輩!」
 
俺の遠慮なしの大声に、当の本人は珍しく一瞬だけ動揺したように見えて、びくりと肩を震わせていたようだった。しかし先輩の表情がすぐに気だるげなそれに変わると、相変わらずの猫背で、悠々とコートの中へと入ってきたのである。

「何でお前がここにいるんだよ」
 
すかさず突っかかりに行ったのは丸井先輩だった。退部届でも出しに来たのか。そういう小馬鹿にしたニュアンスに受け取れなくもない言い方である。またひと悶着あったら今度こそ先輩はテニスを捨ててしまう。そんな気がして、俺は無意識のうちに駆け寄っていたのだけれど、仁王先輩は、思いのほか冷静に、というよりケロリとした様子でこう言った。

「いや何かよう考えたら俺はテニスを辞める理由がないから」
「は?」
 
部員がざわついた。丸井先輩に続いて俺も「は?」と口をついて飛び出していた。仁王先輩に睨まれた。

「ま、この間の、確かに俺が悪かったような気がしなくもないんじゃけどなあ」
「お前が悪いんだよ」

あっけらかんとしたその態度に、すっかり毒気を抜かれてしまって、勢いが殊の外そがれてしまった丸井先輩は、半ばあきれたような口調でそう言った。仁王先輩の肩が大袈裟に竦められる。前からそうだったけれど、仁王先輩の所作はいつだってどこか、わざとらしい。

「俺はブン太にムカついたし、お前も俺にムカついたし、でもそれで何で俺が辞めなくちゃいかんのか、改めて考えると謎ぜよ。何かおかしくないかのう」
「……はあ?」

それは仁王先輩にやる気が感じられないから、丸井先輩が辞めろと言ったわけで、仁王先輩は何やらすごく自分勝手な理論を突き立てて丸井先輩を圧倒しているようだった。流石のこれには、丸井先輩は開いた口が塞がらないようで、しばらく呆けたように仁王先輩と相対していた。
それからどれ程経ったか。おもむろに丸井先輩の口が動く。それは喧嘩をしていたとは思えぬほど随分と怖々として、歯切れの悪いものだった。

「……それじゃあ、お前は、俺に辞めろって、……言いてえのかよ」
「いや?」
「……何なんだよお前、わけ分かんねえよ」
「お前さんの事はどうこう言わん。でも俺は辞めん。まあ、ブン太が辞めたいなら辞めればええよ」
「辞めねえよ」
 
先輩のその一言には色々なものが内包されているようだった。ぐっと何かを言いたげに仁王先輩を見据えている丸井先輩は、「じゃあ俺着替えてくる」みたいないつもの調子で部室へと消えていこうとする仁王先輩の背中に、ぼそりと、

「……やっぱりお前の中でそれぐらいデカいもんなんじゃねえか」

そんな言葉を零した。

「何の話じゃ」

きっと、幸村部長が言ったのはこういう事なのだろう。恰好が悪かろうが何だろうが、あっさり辞められるほど、仁王先輩の中では、俺達の中では、テニスが薄っぺらいものではないということだ。

「っ次はもうねえからな! 二度とあんな適当な事すんじゃねえ。また負けるぞ」
「じゃから俺は負けん」
「……絶対だぞ」
「お前さんもな」
「は、誰に言ってんだよ。当ったり前だろい」
 

さっさと着替えて来いよ、手で追い払うようなそぶりを見せた丸井先輩は、どうやらもう怒ってはいないようだった。
 
 
さて、問題が片付いたところで、今日は部活が終わったら今度は先輩たちと一緒に、幸村部長の見舞いにでも行こうか。



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