act.03_ 狸の皮を数える幸村




全国大会の開幕まであと数日。
初戦など正直手を抜いていても勝てる自信はあるけれど、ここに来て俺達の練習が生ぬるくなることは当然なかった。恐らく、関東大会如きでつまずいてしまった事が、余計にそうさせていた。しかし日に日に多くなる練習量に音を上げる者も少なくはなく、まあレギュラー自体にそういう奴は出ないにしても、夏真っ盛りのこの炎天の下、朝から晩まで、毎日毎日練習を繰り返していれば、弱音を吐きたくなる気持ちは少しわかる。
たまには違う練習メニューだとか、気分転換になることでもしないとやっていられなので、柳に試しに声をかけてみると、

「ほう、ならば間食を減らすトレーニングでも始めようか」
 
なんて末恐ろしいことを提案されたので、俺は結構ですと首を振った。
そんな俺に比べて真田はと言えば、弱る姿をちらりとも見せぬし、あまりにストイックである。そんな彼を感心も通り越して呆れも混じる心持で俺は眺めていると、「おはよーございまーす」と締まりのない声で部室の扉が開いて、現れたのはレギュラーの中ではもっとも遅い登場の赤也だった。しかし順番的には最後であるものの、珍しくきちんと朝練の時刻には間に合っているので、真田の怒鳴り声が飛ぶことはない。

「いつもこのくらいの時間に来れると良いな、赤也」
「でへへ、ウィッス」
「……」

柳の言葉に、赤也は妙ににやついた顔で返事をしたので、柳の動きがぴたりと停止した。多分、赤也の顔の意味を考えているのだろう。
部室に現れた時から、なんだかふわふわとしているなあとは思っていたが、ここまでいかにもご機嫌ですといった調子でにやつかれてしまえば、流石に気づかない人間はいない。こいつはよくもまあこんなに感情が表情に出る奴だよなあと、俺はたまたま隣にいた仁王と顔を見合わせた。

「随分ご機嫌だね」
 
部室のパイプ椅子に腰を掛けて、部誌にさらさらと何かを書き込んでいた幸村君がふと顔を上げた。
赤也の機嫌が良い時は、テニス関係かゲーム関係である事が多い。
でへへ聞いちゃいます? などと気味の悪い笑みを浮かべる赤也は大層ウザいだろうに、うんうんとめげずに聞いてあげている幸村君は面倒見が良いというか何というか、流石だなと思った。なあ、ジャッカル。

「実は今度田舎のばーちゃん家に行くんですけど、そのばーちゃんいつもすっげー小遣いくれるんで、すっげーすっげー楽しみなんですよ」
「お前最低だな」
「その顔はご機嫌っちゅうよりいやらしい顔だったんじゃな」
「ていうか『すっげーすっげー』ってバカみたいだぞお前」
「お、おい、二人とも、そこらへんにしておけよ」

もっと純粋な気持ちでばあちゃん家に遊びに行ってやれなのかよ。思ったことを仁王とそのまま口に出していると、ジャッカルが俯いた赤也を見兼ねてか、俺達の間にやんわりと入り込んできた。
まさかこれぐらいで赤也が泣くとは到底思っていないし、ただ膨れているだけだろうけれど、柳生ですら俺達へ呆れの視線を注いでいるので、とりあえず黙ることにした。相変わらず足元をじっと見つめたままの赤也が、もにょもにょと何かを言い始める。

「……だってポケモンのオメガルビー買えるから」

小遣いで買えるか不安だったから、なんて、それは舞い上がっていた理由であった。凄く幼稚だなと思った。

「馬鹿か、男なら黙ってアルファサファイヤだろい」
「丸井君いい加減にしてください」
「いやこいつからかうと面白くて」
「すいません、あまりに自分とは無縁の低レベルな会話だったので、からかっているように見えませんでした」
「お前もたいがい毒舌だよな」

そんなやり取りを繰り広げる横で、幸村君は「それで、いくらもらえるの?」と赤也に声をかけた。幸村君なりに赤也に気を遣ったのかもしれない。

「いや、それは分からないッスけど……まあ、この間は一万円くらい貰ったんで」
「へーえ」
「『また』貰えるといいのう」
「仁王はすぐそういう意地悪を言うなあ」
 
幸村君がそうして仁王を諌めたが、彼はピヨーなんていつもの不可解な台詞を吐いただけだった。幸村君反省してねえぞこいつ。まあ、俺がいえたことではないんだろうけど。それでも、もしも本当に小遣いが貰えなかったら、赤也はどうするつもりなのだろう。一人、ポケモンができなくていじける赤也ってのも爆笑ものだけれど、部活でそんな態度を取られるのも至極めんどくさいことは容易に想像ができる。

「まあ、確かにあまり期待はしない方が良いぞ」
「柳先輩まで!」
「意地悪ではない。ただ、お前のしている事は捕らぬ狸の皮算用だ」
「俺、狸なんて捕ってないッス!」
「お前ってほんっとに馬鹿だな」
 
先輩は頭が痛いよ。これには流石の柳も驚きを隠せなかったらしく、意味はそのままなのだがな、とでも言いたげに肩を竦めた。その中で、幸村君は、なにやらロッカーから雑誌を取り出す。「ようし」それを広げるなりその前に赤也を手招いた。

「俺が取らぬ狸の皮算用の意味を例え話を交えて教えてあげるよ」
「幸村、部活の時間が」
「少しの間だけだよ。皆も気分転換したそうだったし。ねえブン太」
「……お、おう」

真田はどうにも納得がいっていないようだったけれど、幸村君が白だと言えばそれが黒でも白くなるのが立海のテニス部という奴である。というのも、多少横暴であっても、結果論から見ると幸村君が間違ったことを言ったことがなかったからであるからなのだけれど。
真田は、皆が幸村君の周りに集まる中、一人遠慮がちに輪の外側から様子をうかがっていた。俺はそれを見てこっそり苦笑する。その時、これなんだけどね、幸村君が合宿施設の載ったページを開いた。

「随分と安いな」
「だろ? こんなに宿舎代が安いなら、合宿をやって朝から晩までみっちり練習するのもいいなあって思うんだよ」

幸村君の指したその施設は、わりあい新しく建てられたばかりで、外にはテニスコートが何面もあるという。その割に、存外学生には良心的な値段であり、さらに近場にあるときた。確かに合宿をやっても良いのではないかという気にはなる。

「この近さならば、バスを頼まずとも電車で行けるな」
「うん、だから、」
「すいません、部長ちょっと良いっスか」
 
突然赤也が幸村君と柳の間に割り込んだ。

「さっきからただの合宿の相談にしか聞こえないんスけど、」
「そうだけど」
「そうだけどって、狸の皮を剥ぐ話は」
「剥がねえよ」
「『捕らぬ狸の皮算用』ですよ、切原君」
 
そういえば、自然な流れで合宿の話になったからすっかり忘れていたけれど、ことわざの話をしていたんだっけ。幸村君も、そういえばそうだったね、なんておどけて笑って、雑誌を閉じた。いつもは大人びているけれど、彼がこういう表情をするときは、やっぱり同い年なのだなあと思う。

「ふふ、つまりね、交通手段を何にするとか、合宿のお金はどれくらい集金しようかとか、まだ施設を予約できていないのにそういう話をするのは意味がないよって、そういうこと」
「はあ、」
「こうやって、きちんとそれが得られるかわからないのに、得られた後のことばっかり考えることを捕らぬ狸の皮算用っていうんだよ」
 
幸村君の丁寧な解説に、俺は、これでまた一つ赤也も成長したな、微々たる成長だけど、と思いながら感慨深げに頷いた。隣の仁王が俺を一瞥して馬鹿じゃねえのみたいな顔をした。確かにちょっと馬鹿っぽかった。
それから赤也は幸村君の話を聞いて、しばらく黙り込んでしまったのだけれど、おもむろに情けない顔になって、

「……貰えなかったらどうしよう」
 
と、そんなことを言った。いや、それは知らん。

「まあ、期待はほどほどにしておけば良いんだよ」
「つうか、赤也のことはともかくとして、」
 
はい、話も決着がつきましたね、と俺は無理やり話題の切れ目を作ると、さっきの雑誌をもう一度開いた。だって俺合宿行きたい。

「これそんなに遠くねえし、安いし、最近同じ練習ばっかでだれてきてる奴もいるから良い気分転換になるんじゃねえの?」
「だれてるのはブン太じゃないのー?」
「ぐ、俺以外にもほら、いるし。ジ、ジャッカルとか」
「俺かよ」
 
はいはい、お前の十八番な。黙っていいよ。
どうせ、元々は毎日部活づけで、それ以外予定がなくてある意味では暇だったのだから、(というか、部活だらけで、むしろ別の予定を入れる暇がなかった)皆予定が空いていないということはないだろう。
今すぐここに電話をかけて、さっさと宿舎ゲットしちゃおうって。

「しかし予定的には問題がないとは言え、いくらなんでも急ではないのか?」
「えーやろうってば。な、幸村君。お願い! カモンゴーサイン!」
 
俺がぐいっと幸村君に詰め寄ると、彼は、少し困ったようににこりと微笑んだ。「合宿はやっても構わないんだけど」じゃあ行こう。柳電話だ!

「この施設、電話をかけたら昨日の時点で受付を閉め切ってたよ」

 
皮算用以前の問題だった。



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