私がお店を飛び出した時には外はもうすっかり日も傾いており、夕闇が空を覆いかけていた。そんな中、仁王雅治はまるで逃げるように早足で私から離れて行った。
「仁王君は、変わっていませんでしたよ」
不意に以前聞いた柳生の言葉が思い出されて、私は自分の足の速度を緩める。私はきっと仁王が私に会えばこうするだろうと、心の何処かで分かっていた。だって彼は他人が自分の中に入り込むことを嫌うのだから。彼は、かつては仲間だと笑いあった私に、私達に向き合ってくれるだろうか。


「っ仁王、待って!」


私の声は、今でもあの時と同じ様にまだ彼に届くだろうか。


変わらないもの、ひとつ





私にの声に仁王は少しの反応も見せずに人混みへするすると消えるように進んでいく。このままでは本当に見失ってしまう。何度名前を呼んでも振り返らない彼の足が自ら止まることはないだろうと小さく舌打ちをすると、私は人をかき分けてやっとの事で飛びつくように仁王の腕を捕まえたのだった。それで仁王も観念するだろうと思われた。しかし、それはすぐさま振り払われ、鋭い彼の視線が私を突き刺さる。


「しつこいんじゃけど、どちらさんですか」


彼のそんな台詞を聞いた途端、カッと頭に血が上ったのが分かった。気づけば私は右手を振り上げて彼の頬に平手を食らわしていたのだ。「詐欺師のくせに見え透いた嘘ついてんじゃないわよ」仁王はしばらく私から視線を外していたけれど、ため息を零してようやくこちらを見ると、「再会して早々、随分な挨拶じゃなあ」と至極面倒臭そうな声を上げた。それはこちらの台詞だ。私を見るなり逃げ出して、挙句他人の振りとはいかがなものか。


「そんで、一体何の用かのう。俺も忙しいんじゃけど」
「そうは見えないけど」
「ハッ、昔話でもしに来たか」
「そうだよ」
「くだらん」


彼はやはりまともに取り合ってくれそうになく、吐き捨てるようにそう言うと、踵を返して再び歩き出した。「ちょ、待っ」仁王は止まらない。昔から彼は他の皆のようにあからさまに友情だとか、仲良しであることだとか、そういうものを出すことを好いてはいなかったが、…それでも、
遠ざかって行く背中を、私はどうにもそのまま見ていることはできなくて、鞄から手紙を取り出すと、それを高く掲げた。「仁王雅治!」彼がちらりと振り返る。


「これ、何だ!」


私の掲げたそれは、ジャッカルに渡したものと同じようにすっかり茶色く土で汚れている。察しの良い彼は、どうやらそれが何かすぐに分かったようで、ぎょっと目を見開いた。仁王がその態度なら、私はこれを今ここで読んでやろう、大声で!
脅すように言ってその手紙を開けると私は大きく息を吸った。


「『十年後の自分へ』」
「なっ、お前さん…!」


周りの人が何事かとこちらへ視線を配り始める。その中で案の定彼は慌てて引き返してくるのが見えた。私は彼に手の中の手紙をひったくられそうになった瞬間、それを彼に見えるように裏返して見せる。


「ごめん、嘘」


それは仁王の手紙ではなく、私の手紙だったのだ。もとより自分以外の手紙を開けるつもりなど毛頭ない。過去の自分が、未来の自分へ、不安も希望も託したその手紙を、勝手に読もうとは思えない。「卑怯なことをしてごめん。仁王のはこっち」詫びを入れて彼へ本物を渡せば、彼は体裁の悪そうな顔をしてから、それを受け取った。「最悪じゃ」
その後、仁王はどうやら折れたようで、話ができるように私達は近くの広場へと移動することになった。


「用件をさっさと言いんさい」


ベンチに腰を下ろした仁王は遠くの空を見つめていた。茜色の空のその先に一体彼は何を見ているのだろう。そこに、あの時の私達の姿はあるだろうか。
彼の横顔はとても寂しげで、私の胸を締め付けた。


「まず、その手紙の…タイムカプセルのこと、私が勝手に開けたの。ごめん」
「分かっとった」
「え?」
「とっくに誰かがそうしとるはずって、察しはついてたから、もうええ」
「仁王は、タイムカプセルを開ける日を覚えてたんだね」
「さあ、どうかのう」


自分の手の中の手紙をぼんやり眺めて、夕日にすかして、ひらひらと弄んでから、仁王が口を開いた。「タイムカプセルなんぞもうどうでもいい」


「嘘だよ」
「…」
「嘘だ」
「どうしてそう思う」
「だって、仁王だから」


私はそれだけを答えると、彼が隣で笑った。馬鹿馬鹿しい、そう言うように。


「ずっと一緒にいて、絆を深めた仲間だからか」
「そうだよ」
「おかしい奴。もうガキん頃とは違うんじゃ。まだ何も変わってないなんて夢見とるお前さんが羨ましいぜよ」
「ならなんで私から逃げたの、なんで時々ジャッカルのところに顔を出すの」


彼は答えなかった。夕焼けが私達を照らし、足元に影を作る。広場に設置されていたスピーカーから、5時を知らせる放送が流れ始めた。かすれたメロディは、今はとても色褪せて聴こえる。
ねえ、仁王。


「変わったなら、何故あの日から逃げるの」


立ち上がった仁王を引き止めるように、私は彼の背中にその疑問を投げかける。「そんなの、」小さかったけれど、確かに彼の声が私に届く。


「そんなの、変わったからじゃ」


変わったからこそ、過去と向き合うのが怖いのだと、もう戻れないあの日に、思いを馳せたくないのだと、仁王が表情をゆがませて私を振り返った。
違う、違うよ、仁王。仁王は何も変わってない。また皆とテニスがしたいでしょ。日が暮れるのも忘れて、テニスコート駆け回って、ヘトヘトになって。そうでしょう。


「きっとまた皆に会いたいって、寂しい気持ちになるからだよ」
「…」
「変わったから怖いんじゃない。あの日に焦がれる子供のままだと思っているから」


だってその顔、大人みたいに割り切れてる顔じゃないよ。



「不意にどうしようもなく悲しくなって、寂しくなって、そんな時にジャッカルのところに行くんじゃないの?」


自分はあの日に取り残された。あの時から止まったまま動けない。それでも自分の周りだけは時が進んでいく。
あの日に帰りたい。
皆に会いたい。
それでも――
大人の世界に足を踏み入れて、その中で自分は、…自分達はがむしゃらにもがいて、今日の自分を必死に守っている。あの日のように、プライドを守っていく王者はもうここにはいない。プライドなんてかなぐり捨てて、理不尽なことにも頭を上げて、心をすり減らして生きている。
そんな自分に、あの日に帰りたいと、あいつらとまた、仲間だと、王者立海だと名乗る資格などあるのだろうか。

そう、仁王は心の中でわだかまりを作っていた。


「だから大人のフリを続けた」
「資格なんて、関係ないよ」
「…」
「そんなこと言ったら、私だって資格なんてない。それに他の皆だって、きっとそう。それでも私達は確かに王者立海だった。最高で最強の仲間たちと戦い抜いてきた。それは変わらない。仲間でいるのに、資格なんている?例えどんな風に変わったって、一緒に戦ってきた欠けて欲しくない仲間の一人だ。」


そうでなければ、私は仁王に会いに来ないし、一番初めに突き放された時点で諦めている。
私はまっすぐに仁王を見つめ返すと、彼の瞳が揺れて、視線は足元に落とされた。


「ねえ仁王、昔みたいにさ、この先ずっと皆と一緒にいるなんて、やっぱりそんなことは無理だって、私だって分かってる。でもね、会わなくたって心で繋がってる仲間だってあるじゃない?私達、昔はそうだったでしょ」


幸村が入院して、学校でもテニスコートにも彼の姿を見ることはできなくて。でも私達はテニスコートに立つ時、いつだって幸村を思い出して、一緒に戦ってきた。戦うものがお互い違っていても、私達は心で繋がっていた。テニスで繋がっていた。


「忘れてなんか、いないでしょ、仁王」


彼の手を掴むと、私はその手を開かせた。仁王はどうして私がそんなことをしたのか分からないようだったが、私が彼の手にまめがたくさんあるのを見つけたとき、その手を握りしめた。「テニスやってる手、だね」赤也の言う通りだった。


「あんた達、生粋のテニス馬鹿だ」
「…別に、たまに気を紛らわせるためにやってるだけじゃ」
「仁王、」
「俺はもう、どうしていいか分からん。自分が何をしたいのか、何をしたら良いのか。俺はどこにいるのか、何が自分なのか」
「馬鹿だなあ…。本当の仁王なら、ここにいるじゃんか」
「…っ」


「心配しなくても私がちゃんと掴まえてるよ」笑って握りしめたままの手に力を込めると、しばらく詩の沈黙の後、彼からも、握り返されたのが分かった。「…もう見失わんように、離さなんで」うつむいたままの仁王には珍しく、そんな弱々しい言葉を零した。


「良いよ。あんた達を見守るのが、マネージャーの役目、だからね」


周りに戸惑って、焦りながらも、その中で皆に会いたいって、希望の光をそこに見ている。テニスがしたいって、心が訴えている。それが仁王で、それが私達だ。


「あのさ、私最近気づいたんだけど、もっときちんと周りをよく見れば変わらないものって案外すぐ近くにあったんだよ」



ほら、仁王、空を見て。



「あの日の夕焼けだよ」




BACK

( あの時のまま // 140210 )