私達は中高大とずっと一緒に過ごして、当たり前のようにテニスを続けてきたけれど、私達の青春は決して楽しいだけではなくて、悲しいことも悔しいことも多くあった。その中で今でも色褪せず、鮮明に記憶に残っているのは、やはり中学三年の全国大会である。あの頃の私達は、それまでよりも、そしてきっとその後よりも、一番勝つことに執着していた。 私達は青学に敗れた。 もちろん、全力で戦い抜いて、ここまで頑張ってきたことに悔いはなかったし、準優勝のトロフィーも、私達は胸を張って受け取ることができた。 それでも―― その日、立海に帰って来た彼らは、自分達が今まで練習を積み重ねてきたテニスコートへ足を踏み入れた途端、まるで今まで堪えていたとばかりに、大声で泣いた。 この夏は二度と帰らない。 そんな彼らの後ろ姿を見て、噛み締めた唇は、涙で少しだけしょっぱかった。 |
懐かしい匂いを思い切り吸い込んで私がその暖簾をくぐると、ほわりと漂う湯気の中に、その人はいた。 ラーメン桑原は、以前に比べてだいぶ知名度も上がり、繁盛しているようだ。今は昼時ではないので、それまで混み合っているわけではないが、(わざとそういう時間を選んだのは私だ)ちらほらとここの良い評判は耳にするので、混み合う時間にはきっとてんてこ舞いなのだろう。 中へ一歩足を踏み入れると、奥からその人が顔を出した。 「いらっしゃ、…って、お前…!」 「元気そうで良かった。久しぶり、ジャッカル」 カウンターの席へ腰を下ろしながら「味噌ねー」と言うと、ジャッカルは戸惑いながら「味噌一丁」と呼びかけた。後ろからそれを復唱する声。どうやら彼のお父さんも、元気にやっているらしい。顔を出した彼のお父さんは、私の顔を見て時間が経つのは早いもんだと笑って言った。 「いきなりどうしたんだ。が来るのは珍しいな。しかも、こんな変な時間に。何かあったのか?」 「おやつだよ、おやつ」 「…ブン太みたいなこと言うなよ…」 壁にかかっている時計は、湯気で曇っており、少し見づらかったけれど、それは三時過ぎを示していた。確かに昼食にも夕食にもならない時間である。 私は彼の口からすんなりと丸井の名前が出てきたことに少しだけ驚きながら、差し出されたお冷を口に含んだ。 「冗談だよ。本当はジャッカルと話したくてさ」 わざと人が少ない時間を選んだのだと、私は彼を見上げた。彼の瞳はどこか不安気に揺れている。私には何が彼をそうさせているのか、わからなかった。 「ところでさ、ジャッカル」 「…何だ?」 「さっき、『お前が来るのは』って言ったでしょ。その言い方だと、他に誰かが来たりしてるの?」 「そういうところ、変わってねえなあお前」 「あはは」 彼は麺を引き上げながら私の質問に「まあなあ、」とどこか言いづらそうに、表情を曇らせた。先程の彼の不安気な瞳は、きっとここに原因があるのだろうと、私は彼が言葉を紡ぐのを待った。「…ブン太がさ」しばらくの沈黙ののち、ジャッカルの口からはやはりその名前が出された。 「あいつ、たまーにふらっと現れるんだよ。本当にたまに。半年に一回くらいだ」 「…そう」 「学生の時が信じらんねえくらい、ここに来るあいつは暗くてさ、黙ってラーメンだけ食って、またふらっと帰るんだよ」 あいつ、変わった。 寂しそうにそう呟いたジャッカルは、静かに目を伏せた。 私が以前、丸井に会った時も確かに面影はあったけれど、彼のあの元気な姿とは程遠かったように思う。綺麗に磨かれたテーブルを私はそっと撫でた。ジャッカルは相変わらず何事も丁寧であるし、まっすぐに自分の仕事を貫いているようだ。彼は変わらない。だからこそ、そんな丸井が心配で仕方がないのだろう。 「ブン太の奴、何を聞いても、まあちょっとなって、話そうとしないんだ」 「…」 「それから、ブン太の他にも、実は仁王がさ、」 「…仁王?」 思いもしなかった名前を耳にして、私は顔を上げた。ジャッカルの話曰く、仁王もごくたまに、丸井より頻度は少ないがここに現れるのだと言う。 「茶とか飲み物だけ頼んで、ぼーっとして、それで帰ってく。あいつの方がブン太よりまだ少しだけ喋るかもしれねえな。俺の話にはそれなりに答えるし、疲れたとか、軽くぼやいたり、それだけだけど…」 仁王はもともとそんなに口数は多くはないし、騒ぐような奴ではないけれど、やはり彼の姿もまた、ジャッカルには変わってしまったように見えたのだろう。ジャッカルはいつだって、他人の心配ばかりする奴だから、もしかしたら今の彼の一番の悩みはらしくない友人なのではないだろうか。 出来上がったらしいラーメンの器を目の前に出されて、私は手を合わせる。それは懐かしくて、優しい味がした。 「うまいか」 「さいっこーだよ」 にこりと笑った私に、ジャッカルはようやく安心したような微笑みを零した。私には、丸井や仁王がここに来る理由が、何と無く分かる気がした。私も、ついこの前までは彼らと同じだったのだから。 ジャッカルは言った。「皆が変わっちまったと思ったから、今日私が来て、あの時と何も変わっていなかったから、安心した」と。 「ちがうよ」 「え?」 「私は二人とも変わったんじゃないと思うな」 変わったのではなく、変わるのが怖いのではないだろうか。ジャッカルにそう告げると、彼は首を傾げた。これは私もつい最近きづいたことであった。 私達は皆、あの日に帰りたいと思っている。だから変わりたくなくて、誰にも変わって欲しくなくて。そうしているうちに、怖くなってしまった。成長していく周りに、年を重ねて体だけ成長していく自分に、いつまでも子供ではいられないと思う自分が、子供の頃の自分を閉じ込める。帰りたいあの日を記憶から消すように背伸びばかりして、上ばかり見て、大切なものをいくつも落としていることにも気づかなかった。 「本当に変わっちゃったならさ、ジャッカルのところには来ないよ」 「…」 「ジャッカルはさ、他の誰とも違って、例えばわがままを言っても責めないでしょう?しょうがないなって、黙って聞いてくれるでしょ?嫌がるなら詮索もしない。ただそばにいてくれる。だからきっと、二人はジャッカルに甘えに来るんだろうね」 丸井も仁王も、どこか似ているところがあるし。 彼らが、特に丸井があまり話さないのは多分、話せば余計にあの日に帰りたくなってしまうからではないだろうか。丸井にとって、ジャッカルはずっと一緒にいた相棒で、大きな存在だから。 ジャッカルは自分の手元をじっと見つめて、そうだといい、と小さく呟いた。そうだといい、ううんそうに決まっている。 「それでね、ジャッカル。私が今日訪ねてきた理由なんだけど」 「ああ、そうだったな」 「用事は二つ。一つはジャッカルに謝らなくちゃいけないこと」 そう言って、私は鞄からすっかり茶色く土で汚れてしまっている手紙を出すと、彼に差し出した。タイムカプセルに入っていた、過去の彼から、未来の彼に宛てた手紙だった。ジャッカルはしばらくそれが何かわかっていない様子だったが、誰からの手紙かを見るなり、ああ、と、懐かしさに目を細めていた。 「これ、確か中学の、」 「そう。ごめん、いろいろあって、10年過ぎてたし、タイムカプセルは私が一人で開けちゃったの。手紙の中身はみてないよ。ただ、それを、ジャッカルに返したくて」 「わざわざありがとな」 「それから二つ目」 私は彼に拳を突き出した。 「ねえ、ジャッカル。リベンジしようよ」 もう一度、皆でタイムカプセルを埋めよう。このまま終わりにしたら悲しいではないか。変わってしまったと、嘆いてあの日を懐古するだけなど、私達らしくもない。 あの日を取り戻そう。後ろばかり見るのではなく、未来にあの日の姿を見ようではないか。これからもずっと一緒にいれるように。 「また、皆と、」 「そうだよ。このままじゃ絶対後悔する。ううん、もう皆後悔しているはず。ジャッカルだって、」 「…俺だって、また皆で一緒に笑えたらって、」 「まだ間に合うよ」 実はあの日、私は幸村と真田にも協力を頼んでいた。皆がもう一度集まれるように、声をかけて欲しいと。私はジャッカルと仁王にまだ会っていなかったので、どうしても二人には一度声をかけたくて、残りの四人をあの二人に任せることにしたのだ。 「そうだよな、まだ、間に合うよな」 ジャッカルがそう力強く頷いて私を見たとき、不意に入り口の扉が開いた。その音に釣られてそちらを見れば、そこには仁王の姿があったのだ。「仁王…っ」声を上げた私に、彼は一瞬だけ体裁の悪そうな顔をして、それから踵を返して出て行ってしまったのである。彼の居場所はそこまで詳しく把握しているわけではなかったので、この機会を逃したくはない。私は慌てて立ち上がると、ジャッカルがそっと私の背中を押した。 「金はいいから、行けよ」 「ジャッカル、…ごめ、今度絶対払うから!」 「おう。また、会えるもんな」 バタバタと転びそうになりながら店から飛び出そうとした時、最後にジャッカルが私の名前を呼んだ。 「さ、お前、また来いよな」 振り返った先のジャッカルはもうこちらを見ていなかったけれど、 「特別に安くしてやるから、時間出来たら、絶対また来いよ」 そんなの、言われるまでもないと思った。 こんな温かくて素敵なお店を、私は他に知らないよ。 BACK ( その背を追いかけて // 140207 ) 更新とろくてすいません。次はお察しの通りラスボス仁王です。 |