幸村の温かい手が好きだった。「泣かないで」と、そう言って私の頭を撫でる彼の手はどこまでも優しさに溢れて、いつだって私の心を励ましてくれた。 彼の背中は頼もしかった。私達は誰一人として、幸村について行くことに迷いを持つ者はいなかった。 全員分の喜びや悲しみを背負う彼は、紛れもなく私達の部長だった。 |
「か?」 ああ、この声を聞くのはいつ振りだろう。とても懐かしい声が、私を呼んだ。幸村の家を尋ねに来た私はインターホンへ伸ばしかけた手を止めて、後ろを振り返る。そこにいたのは真田だった。彼は片手に紙袋を提げて、ちょっと散歩にでも出てきたような、そんなラフな格好をしていた。そう言えば真田と幸村は家が近いから、届け物でもしに来たのだろう。私がここにいることにそれなりに驚いているようで彼は一体どうしたんだと私のそばへやって来た。この口ぶりからすると、やはり幼馴染だけあって彼は頻繁に幸村と会っているに違いない。 「幸村に、話したいことがあって」 「そうか」 「真田は?」 「俺は母に頼まれて幸村のところに土産をな」 紙袋を見せた真田に、私はああ、と頷いた。なんだかとても不思議な感覚だった。彼との間に、皆と会う時に必ず感じていた距離や、緊張が、全く感じられなかったのである。 …そうだ。真田弦一郎とは元々そういう男だった。彼の中では何年経とうが、私も、他の皆も一生変わることのない大切な仲間であることはきっと揺るがないのだろう。ふ、と小さく笑って目を伏せると真田は「何故笑う」と首をかしげた。 「真田は変わらないなあと思って」 「どういう意味だ」 「そのままだよ。褒め言葉」 変わらないことが、どう褒め言葉になるのか、彼にはどうやらわからなかったようだけれど、そうであるから彼は「変わらなかった」のだと思う。 「だから私は真田の言葉を待ってたのかもしれない」ぽつりと呟いた言葉に、彼は怪訝そうだ。私はずっと彼に叱ってほしかった。「何をしているのだ」と。「泣いている暇があるのなら自分で歩き出せ」と。相変わらずむむ、と眉にしわを寄せている彼は私の言葉の意図が汲めないのだろう。いいよ、あんたはそのままで。 ねえ、真田。 「私は学生の頃、毎日毎日真田にたくさん叱られて、それに腹を立てて真田に突っかかって、そんな子供染みたことをしていたけどね、私はきっと真田に甘えてたんだと思うよ。叱ってくれる人がいることが、嬉しかったんだなって、今なら思うの」 「…そうか」 「叱ってくれてありがとう」 「そのようなことを言われたのは初めてだ」 「皆言わないだけだよ」 丸井も赤也も、それから仁王も、彼らは素直ではないから、うるさいと思いながらも真田の言葉に支えられたり背中を押されたり、甘えていたことは心の何処かで気づいているはずだ。私はそんなことを考えていると、幸村家の玄関が開いた。「あれ?」中からは幸村が顔を出して私と真田を交互に見てから「君達だったのかあ」と苦笑を零した。どうやら家の前で話し声が聞こえるので何かと思ったらしい。私の姿にやはり少なからず驚いていた幸村は、いつまでもその場に突っ立っていた私達を家の中へ通した。 もしかしたら私は幸村の家に入るのは初めてかもしれない。中に通されてから、私は綺麗に整頓された部屋を眺めながらそんなことを思った。なんだかんだでいつも遊びに押しかけていたのは赤也や丸井の家であったし、幸村は一度彼が病気で倒れてから、余計に行きづらさを覚えてしまっていたのだ。 「君のお母さんから真田が来るって、連絡があったから待ってたんだよ」 「遅くなってすまない。これはこの間の土産だ」 「わあ、ありがとう」 真田から受け取った紙袋を少し覗いてから、それをテーブルのはじに寄せた。なんだかこの二人の雰囲気は変わらないなと思う。あの頃に戻ったようだ。 「それで、」幸村の視線が、ぼんやり二人を眺めていた私に注がれた。「は…何年振りだろうね。どうしたの?」彼に見つめられて、きゅう、と自然と背筋が伸びた。この感覚は久しい。 「私のは、その、大したことじゃないんだけども、あっ、押しかけてごめん」 「はは。いいよ、どうせ休日はほとんどガーデニングしかしていないからね」 真田はそこで自分は邪魔になるだろうと思ったのか、気を遣って静かに腰を上げた。しかし私はそんな彼の腕を捕まえる。真田にも関係のある話なのだと。 「ただの相談みたいになっちゃうというか、とりあえず話を聞いてもらいたいだけなんだけど、」 「いいよ」 彼はそうしてふわりと笑った。一体どこからだろう、花の匂いが微かに鼻腔をくすぐる。心奥に渦巻いていた焦りや戸惑いが、途端に消えていく気がした。「私ね、」握りしめていた手を、ゆっくり開いた。 「私、最近、よく皆に会うんだ。それは殆ど偶然のものばかりなんだけど」 「…皆って、皆?」 「うん。初めは丸井、次に柳生に会って、あと柳にも。赤也には、自分から会いに行ったんだ」 「そっか」 「それでね、気づいたんだ。私の時間は、あの時から止まってる」 このままじゃ、いけないと思った。 相談にしては随分不親切な話し方をしたと思った。しかし、幸村は全てを察したらしい。「そうだね、」と、私から視線を外し、自分の手元へ落ち着けた。 私の中にはまだ、中学生の私が生きていて、一人で懸命に背伸びをして大人のフリをしている。身体だけ大人になったけれど、心はあの時間に置いてきたままだった。大人になりたくない私が、自分の気付かぬうちにこっそりとそうしたのかもしれない。 「皆と会って、それが自分だけじゃないのかもって思った。もちろん、私達だけの話ではなくて、大人は誰しもそうなのかもしれない。それが当たり前なのかもしれない。でもね、自分勝手だと思われるだろうけど、私、そうやって簡単に諦められるほど、皆と積み上げてきたものは、薄っぺらくないし、このまま終わらせたくないと思った」 「うん」 それから私は、タイムカプセルの話をした。勝手に開けてしまったことを、とりあえずは二人に詫びた。真田はそう言えばそのようなものを埋めたな、と、あまり覚えてはいなかったようだが、幸村は柳と同じように、開けるのを恐れていたようだ。「俺が声をかけて、皆が集まらなかった時のことも、怖くて考えたくなかった」彼は悲しげに笑って、そう本音を零した。 「…でも、そろそろ俺も、あの時の自分と向き合わないといけないのかな」 そう。また歩き出さなければ。止まったままの時間を動かそう。 力強く頷いて、私はそれで、と言葉を続けた。また、タイムカプセルを埋めないかと。再スタートの意味も込めて、いつまでも、絆が壊れることがないように。 そこまで私が言うと、幸村はフッと笑みを零した。「お前らしいよ」 「この年でタイムカプセルを埋める人はなかなかいないよね」 「私達にはぴったりだよ」 「そうかもしれない」 「俺はお前達を嫌うことなどあり得ん。…しかし、掘り返すことを忘れていたのは心残りがある。リベンジとして俺も乗ろう」 「…リベンジって、真田は相変わらずだなあ」 私と幸村が笑うと、真田はふんと鼻を鳴らした。 「あ、それで、話って言うのは今のを聞いて欲しかっただけだから、これで終わりなんだけど、」 「そうなの?」 「うん。やっぱりね、一番初めに幸村に言うべきだと思って」 「そんな、俺に気を使う必要はないのに」 「違うよ、そういうわけじゃないの。そうじゃなくて、幸村は部長だから」 「俺はもう部長じゃないよ」 「いや、お前は部長だ。お前はいつまでも俺達の部長であり、指針だ、幸村」 「そう。幸村がいればね、なんでもできる気がするんだよ。いつだって私達の心の支えだった。だからだよ」 真田が力強く答えて、私もそれに続いた。彼の瞳はまっすぐに幸村を見ていた。幸村もまた、私と同じように、彼の言葉に支えられた一人なのだろう。きっと幸村精市は真田弦一郎がいるからこそ、より強くあり続けられる。 「…そう言ってもらえると、すごく、すごく嬉しいよ」 彼は珍しく少しだけ泣きそうな顔で笑ってそう言った。 それから、すっと息を吸う音。 「…さあ、それなら俺達も歩き出そうか」 「うん」 そこには、私達が信頼し続けた、追い続けた、あの幸村精市が確かにいた。 BACK ( 取り戻そう // 140112 ) 遅くなってすいませんでした。つぎは恐らくジャッカル…? |