懐かしい夢を見た。 中学三年の、全国大会後の夢だ。青学の盛り上がる声を遠くに聞きながら、夕焼けが妙に眩しくて、私はテニスバックを背負って無言で歩いていく彼らの背中を見て、泣いていた。負けたんだと、終わってしまったのだと、涙は止まらない。そんな私の頭に手を乗せたのは幸村で。彼は優しく笑ってこう言った。 「タイムカプセルを埋めよう」 皆が大人になってバラバラになった時に、それが私達を繋ぐように。 こんな夢を見たのはきっとテニス部の皆に会ったからだろうが今の私に、ただ懐かしい夢を見たなあと流せる程、大人ぶった言葉はどうにも言えなかった。壁に身体を預けて小さく息を吐く。一人きりの部屋にそれは溶けて、消えた。言いようのない切なさが胸を締め付けて、息をするのも苦しい。 しかしそうであるくせに、どうにもこのままぼんやり家に閉じこもっていることはできなかった。私はタイムカプセルの中にあった手紙をポケットに押し込むと、そのまま家を飛び出したのだ。もう偶然で終わらせてはいけない。皆に会わなければ。そんな思いだけが、今の私を動かしていた。 そんな勢いで私がたどり着いたのは近くのテニスクラブだった。柳が赤也がコーチとしてバイトをしていると言っていた。場所の名前は聞いていなかったので、ここが、まさにそのクラブかは定かではないが、私達の馴染みの場所といえばここしかなくて、バイトなのだから今日いるとは限らないのに、私はフェンス越しにその姿を懸命に探した。しかし探せどもそれらしい姿は見えない。 「ああ、も…なんで、」 誰でもいいから会いたい。私に思い出を返して、私を一人にしないで。あの時に帰りたい。今にも泣き叫んでしまいたいくらい、ぐるぐると感情が渦巻いてついには私はその場にしゃがみ込んでしまった。そばを通り過ぎる人達が、ひそひそと何やら言いながらこちらへ視線をよこす。そんなもの、今の私はまったく気にする余裕なんてなかったけれど。 「お姉ちゃんどうしたの?」 「…え…?」 不意に頭上からそんな幼い声が降ってきた。私は膝に埋めていた顔を上げると、フェンス越しに不安げな面持ちで私を見つめる男の子の丸い瞳と目が合った。小学生くらいだろうか。ラケットを抱えているからこのクラブに通っている子であることが分かる。「お腹でも痛いの?」私は首を振ると作り笑いを浮かべて大丈夫だよ、と告げる。 「でも、泣いてるよ」 「うん。探してる人が見つからなくてね」 「それだあれ?」 「…」 その名前を口に出すのを、私は一瞬ためらった。今更ながらに、働いている場所に押しかけて、赤也は迷惑なのではないかと。「あのね、ぼく、赤也…切原赤也先生って、このクラブにいる?」きゅ、とスカートの裾を握る手に自然と力が入る。いなかったらどうしよう。どうしようもないのだろうけど。男の子はきょとんと私をしばらく見つめてから「きりはらせんせ…」と名前を繰り返す。思い当たる節がないのか。その反応に、私は立ち上がろうとすると、それと同時に男の子はくるりと後ろを振り返った。「あれ?」彼の指差した先にはちょうど建物から出て来た懐かしいその姿が確かにあって、私は目を見開いた。赤也だ。 「ぼくのせんせーじゃないけど、呼んでくる?」 「あ、えと、」 「おーい、お前そんなとこで何してんだー?」 口ごもった私の言葉に割り込むように、赤也の声が目の前にいる少年に投げかけられた。ずっと隅にいるこの子のことが気になったのだろう。練習もあるだろうに引き止めて男の子には悪いことをしてしまった。彼は立ち上がった私を一瞥してから「せんせえ」と赤也を呼んだ。彼はその声につられてか、私の方へ視線を移し、直後、ぽかんと口を開けて固まった。 「え、せんぱ、」 微かだが赤也が確かに私の名を読んだ。「先輩」その懐かしい響きに、今日見た夢が、あの時がフラッシュバックして脳裏を駆ける。なんだか昔に戻ったように思えて自然に口から彼の名前が零れた。「赤也。久し振り」「先輩!」赤也はそれに弾かれたようにこちらへ駆け寄ってきた。周りの子供達はニヤつきながらせんせの彼女?なんて無邪気に彼にまとわりついている。なんだか彼は先生としては好かれているようなのでなんとなく私はホッとした。彼は群がる子供を払うようにして自主練習をしているようにと指を立てて言った。どうやら話す時間を作ってくれるらしい。申し訳ないと思ったけれど、それを遮ることはしなかった。自分勝手なのかもしれないけれど、今、どうしても赤也と話がしたかったのだ。 彼は近くの私を中に通すと、皆がきちんと練習に戻ったのを確認してから、私を休憩スペースに案内した。 「ほんと、久し振りですね。どうしたんですか、突然」 「いきなりごめん。急に会いたくなっちゃって」 「えっ」 「期待してるような事じゃないよ」 「なーんだ」 がっかり、と続けた赤也に、私は変わってないなあとこっそり思った。彼は今まで会ったテニス部のメンバーの中で見た目も、雰囲気も一番そのままだったのは彼だ。なんだか悲しくなる反面、まだそこには私の思い出がなくならずにきちんとそこにある気がして安堵する。 赤也の表情が急に曇った気がした。 「…なんかあったんスか」 「え?」 「先輩、らしくない」 「…はは。大人になってからは、ずっと私らしくないよ」 「先輩…」 核心を突かれた私は苦笑して自分の手を握りしめる。彼は私がそう言ったわけを話し出すのをただ黙って待っていた。 赤也に会いたかった。彼に会うために今日私はここに来た。でも私はどうしてそう思ったのだろう。何をするつもりだったのだろう。今をまっすぐに生きる彼に、こんな事を話して良いものか、後輩に泣きつこうとしている自分が今更ながらに情けなく思えて、赤也の視線を受け止めながらも口を閉ざしていると、彼の方から沈黙は破られた。「先輩、言って」その声は少しだけ厳しくもあり、優しさも内包していた。 「赤也、わたし、」 「うん」 「大人になりたくなかったの」 「え、」 彼の目が見開かれた。 それから私はポツリポツリと今までのことを話し始めた。テニス部の皆と会ったこと、自分の手紙に遣る瀬なくなったこと、もう一度皆とテニスがしたいこと。赤也はうんうんと頷いて、最後まで聞き終わるとぐしゃりと私の頭を撫でた。乱暴でも、温かくて、彼らしいと思った。 「赤也は、今テニスも自分のペースできちんと続けてて、うまく言えないけど、羨ましい」 「…はは、良かった」 「赤也?」 「いや、俺だけじゃなかったんだなーって思って」 彼はにかりと笑ってから、実はと自分の話を始めた。赤也も、私と同じように自分の状態にもやもやしたものを感じた時期があったのだという。 彼より一つ上の学年である私達が、赤也より一年早く大学を卒業し、当然赤也は一人になった。社会に出て行ってしまった先輩達にはきっともう会えないと、ぽっかり穴が空いたように自分から何かが抜け落ちてしまったように感じていたと、彼は言った。 「そんな俺が初めにぶち当たったのが進路なんスよ。俺はガキの頃からずっとプロのテニスプレーヤーになるんだって思ってた。もちろんその時も。通用する実力だってあるつもりだった」 「…うん」 「でも、俺、わかんなくなっちまったんですよね。先輩達の就職先を聞いたら、誰も、あの幸村部長でさえテニスに全く関係ない仕事してて。あんなに一緒に、ずっとテニスしてたのに。だから、今まで目指してたプロのテニスプレーヤーが、…自分の言ってる事が、現実味を持たなくなって」 私達は大人になることを理解していなかった。いつかはそうなると思っていたけれど、それはまだまだ先のことだと。しかし、実際にはあっという間の出来事だったように思う。私は皆と違ってテニスができるわけではないから、そういう仕事に就かないにしても、他の皆はそれらしい仕事に就くとずっと考えていた。休日には皆が集まっていつもみたいにテニスをして、馬鹿みたいにそんな夢を見ていた。 「…何でテニスが好きなのかも、分からなくなって」 「…赤也」 「俺にはテニスしかなかったから余計に進路とかもわかんなくなって、テニスしたくないなら、何がしたいんだって、俺はそんな答えばっかり探してた。けど、俺気づいたんスよ」 顔を上げた彼は至極幸せそうに目を細めて、こう言ったのだ。「やっぱり俺はテニスがすげー好き。それは一生変わんねえ。でも、」彼の視線が私に向けられた。 「でも、俺が一番好きだったのは先輩達とやったテニスなんだって」 「…」 「だから一人で頑張ったってつまんねえよなあって。プロなんかより、こういうところでのんびりやって、そしたら先輩達が暇になったらここでまたテニス、できっかもだし。単純な話なんスよ」 ただまた皆とテニスがしたいから、そのためにこうしているのだと。自分は確かに今充実していると、彼は言った。私にはそんな変わらない彼が眩しくて、なんだか悔しくて、唇を噛み締めた。どうして、どうしてそんなにまっすぐに生きられるの。私は今にも不安に押しつぶされそうだよ。だって、 「…私達を繋ぐものはもう何もないよ」 「俺がテニス続けてる限り、先輩達とは繋がってるって思ってますよ。一方的にですけど」 「…なんで」 「だって、忙しくてテニスやってないとか言っても先輩達、なんだかんだでテニス大好きなテニス馬鹿だし」 そうだ。私達はテニスが好きで集まった。 でも、テニスが、私達を繋いでいる?本当に?ぐっと胸に込み上げるものを感じて、赤也の言葉に頷いた。そうだといい。そう思いたかった。彼は安心させるように私の手をギュッと握りしめて「それから」と話を続ける。彼の指がびしりと私を指した。 「先輩は他の先輩に会って、それで今日俺のとこに来たでしょ」 「…そう、だけど」 「先輩がいなければ俺は他の先輩のこと知らないままだった。先輩が俺達を繋いでるんですよ」 「…!」 「ね、これで俺と、丸井先輩と柳生先輩と、柳先輩が繋がった」 「わたし、が」 「そう」 テニスや私が、確かに、皆を繋いでいるのだとしたらまだ間に合うと思って良いのだろうか。あの時に帰りたいと泣くのではなく、皆と一緒にまた明日を歩くことができる日が来ると。…来るかもしれない。 後ろを振り返るのではなく、前に、進める。 感極まってかばりと両手で顔を覆うと赤也が「な、泣くのはなしッスよ!」とやけに慌てた調子で騒いだ。ああ、そういうところはやはり変わらない。 泣いてない、泣いてないよ。笑って顔を上げると彼は首から下げていたタオルで私の頬をごしりと拭った。ホッと胸をなで下ろした彼は私の名を呼ぶ。 「…俺馬鹿なんで、あんまり後先考えらんなくて。難しいこと考えるより、今自分がやりたいことやろうって思うんです」 「…うん」 「ね、先輩。妥協なんて王者立海らしくないでしょ」 うん。 最後は力強く頷いて、赤也に抱きついた。ぎゅううと、目一杯彼にしがみ付くと今までの不安が解けて行く気がして、私は小さく「ありがとう」と言った。会えてよかったよ。赤也はしばらく無言だったけれど、私の背中をぽんぽんとあやすように数回叩いてから、唸るように口を開いた。 「…先輩、やっぱり俺のこと好きでしょ」 「『君達』のことは大好きだよ。当たり前じゃん」 「…相変わらずムードに欠けるッスね」 「あはは」 そこにはあの時と変わらない繋がりがあった。 ああ、確かに見つけた。 置いてけぼりにした思い出を拾いに行こう。まだ間に合う。 BACK ( 涙を拭いて // 131110 ) つぎは多分幸村と真田。 thnks sky ruins |