十年後の私へ 私は大人になることを憧れています。早くそうなりたいと、思っています。 でも、実はその反面、少し怖いです。皆と離れてしまうからか、何か大切なものをなくしてしまいそうだからか、きっとどちらもだと思うけれど、大人になることに、漠然とした恐怖があります。 ねえ、未来の私。 今、幸せですか? 貴方の隣には笑顔の皆がいますか? この手紙の向こうに、本当に十年後の私はいますか? 文字を追うごとに、私の視界は滲んで。土に汚れたその手紙は、私が目をそらし続けた心にぽっかりと空いた穴を、浮き彫りにさせた。 ねえ、昔の私。 聞こえてる? 今を生きる私はね、 会社帰り、いつも使っている道が工事で通行止めになっていたため、私は少し遠回りをして自宅へと足を進めることになった。疲れきった体を労わるように、緩やかなペースを保ちながら、あまり通らない道だったので、私は景色をぼんやりと眺めながら歩く。静かな住宅街をしばらく進んでいると、不意に通りかかった横の家から誰かが出てきたので、私は釣られてそちらへ顔を向ける。そこで私はまたもや懐かしい人物の姿を捉え、思わず驚きの声を漏らしたのだ。 そこにいたのは柳蓮二だった。どうやら偶然とは続くものらしい。彼もすぐに私に気づき、少し驚いたような顔をしてから、「久しぶりだな」と言った。 「ひ、久しぶり」 彼は身長が少し伸びたことを除けば、あの時とまったく変わらないその姿であった。もともと彼はかなり大人びていたから容姿が変わらないのは納得しようと思えばできる話だけれど、それにしてもまさに私の知る柳蓮二そのものだった。だから私は大真面目に「時間の流れから外れてでもいるのか」と言ったら柳は「まさか」と薄く笑って見せた。 「それにしても、はここら辺の道をよく使うのか?」 「いや、たまたま向こうの道が通行止めでさ、家まで少し遠回りなんだ」 「そうか」 柳の手には仕事場に持って行くような黒い皮の鞄が握られていたので、彼はもしかしたらこれから会社にでも戻るのだろうか。私は鞄へと視線を落とすと、勘のいい柳は、ああ、と口を開いた。どうやら会社でトラブルがあったらしく、戻って欲しいと頼まれたそうだ。彼はいつまでたってもあらゆる場所で頼りになる人間であることが分かる。 「あ、じゃあ話してちゃまずいよね。引き止めてごめん」 「構わない。せっかくだから少し話そう」 「え?」 「五分十分遅れたところで問題はない。それよりもお前と今ここで別れてしまえば、次にこのような機会が訪れるのはいつになるのか分からないからな」 柳がそう言うなら、きっと遅れても問題はないのだろう。それよりも、次にいつ会えるか分からないというその言葉が、なんだか胸に引っかかったような気がして、私はそれを誤魔化すようにへらりと作り笑いを浮かべた。しかしそれはやはり柳には通用しないらしい。彼の表情が少し曇ったような気がした。私はそれに慌てて取り繕うように「違うの」と首を振る。正直、おかしなことに何が違うのか、自分でも分かっていなかった。 「ただちょっと、変だなって。学生の頃は飽きるくらい毎日顔合わせてたのに」 「…」 「大人になった途端、こんなにあっさり変わる、なんて、さ」 「俺達を繋ぐものが、今はもう『何も』ないからな」 ずきりと、胸が痛んだ。 そう、私達の根本的な繋がりである学校も、テニスも、もうない。 顔を隠すように私は前髪を押さえ、それから、ははっ、と渇いた笑いをこぼす。いきなりこんなことを言って悪かったと。皆に会って心が昔を求めているだけなんだ。しばらくすれば、またそんなこと忘れて、忙しい今を生きるのに精一杯になる。だから、他人事のように思い出を懐かしんで、ただの過去にすり替えてしまえば良いのだ。 「俺こそ言い方が悪かった。すまない」 「良いよ。事実だし。ていうかこのままずっと一緒だったら私達成長しなさそうで怖いよ」 茶化すように言って、丸井なんかかなり大人びていたと、この間の公園で会ったことを語って聞かせた。それから柳生に会ったことも。柳生は想像通りの立派な紳士になっていた。私が引きずり出したぎこちない会話を、柳は気を遣ってか、すんなり受け入れてくれた。 「他の皆は何してんだろうね」 「赤也は趣味の範囲だが、暇な時はバイトでテニスクラブで先生をしていると聞いた」 「うわあ赤也が先生!」 何気無く口に出した疑問が思わぬ答えを引き出して、私は大袈裟に驚いて見せた。あの赤也が、と思うとなんだか感慨深い。そうかそうかと頷いていると、柳は「赤也と言えば」と昔の話を語りだした。学生時代はテスト前に私は赤也と一緒に、柳にヤマを張ってくれと泣きついたものだ。その話をされて、ついつい私は肩を竦める。 「ていうか一回柳に化けた仁王に嘘ばっか教えられて、私も赤也も赤点だったことがあったわ」 「あれはおかしかったな」 「おかしくないよ、真田に超怒られたんだから」 そこまで言って、私はまた、無性に遣る瀬無さを感じてしまった。 「、」 「なんか、あの時はホント、私は何にも考えてなくて、果てしなく世間知らずで、能天気だった」 「…」 「けどね、今より全然、楽しかった気がする」 あの時には確かにあった、何か大切なものを、私はどこかに置いてきちゃったみたいだ。 それに、私は今昔の自分と向き合うのも怖いくらい、臆病になった。 こんな話を柳にしても意味はないと分かっていた。今までだって、だから私は丸井からも柳生からも逃げていた。自分の本音を零してから、ハッとした私は慌てて口を噤む。何を言っているんだ。 顔を上げると、柳の目は私から逸らされた。彼がこうしてあからさまに逃げるようなそぶりを見せたのは初めてかもしれない。しばらくの沈黙の後、彼はこう言った。 「タイムカプセルを覚えているか」 十年後に掘り起こそうと、中学三年生の全国大会後に学校のグラウンドに埋めたという話をされたところで、私の頭をその時の思い出が駆け抜けた。 皆で顔を寄せて、十年後と、あの箱に思いを埋めた。あの夏の日を、私は確かに思い出した。 しかし、その日はーー望んだ十年後は来なかった。 何故なら、待ち遠しかったはずの十年は、とうに過ぎていた。 「俺は掘り返す約束をしたその日を確かに覚えていた」 「それなら、」 「しかし、俺も、怖かったんだ」 自分と向き合うのが。 その言葉で私はいてもたってもいられなくなった。「行かなきゃ」ただ、そう思って、呟いて、走り出した。どこに向かっているかなんて、そんなものは決まっていた。 あの時の私達が、あの中に置いてけぼりにされていると思ったら、自分と向き合うのが怖いなんて考えている余裕などなくて。もしかしたら柳は、私がこうすると思ってタイムカプセルのことを話したのではないかと思った。私に託したのではないかと。 そうして私はもう何年も足を踏み入れていない立海大附属中等部の敷地に足を踏み入れた。おそらく、外部の人間は受付にいかなければならないのだろうが、そんなことを気にしている余裕はなかった。グラウンドにはまだまばらに生徒が残り、何年経ってもテニス部は熱心なようで、遠くにストロークの音が聞こえる。喉までせり上がってくるものを必死に押し込んで、私は記憶を頼りにその場所を木の枝を使って掘り始めた。 そうしてどれくらい経っただろう。手のところどころから血が滲んでいる。そんな時、枝が何かを引っ掻いた。探していた箱だと私はそれを掘り起こして中を開く。 テストやら誰かのキーホルダーやら二つに割れたテニスボールが詰められたその中から、私は自分の手紙を取り出して開く。 十年後の私へ お元気ですか。 少しは落ち着きのある大人になれているでしょうか。私はこの間も真田に廊下を走るなと怒られました。 十年後なんて、今の私には想像できないし、道ですれ違う、スーツをぴしりと着たあの大人と同じようにいつか自分もそうなるのだとは、少し思えません。これを読んでいる私はきっとそうなっているのだろうけど。 それから、テニス部の皆とは相変わらず仲が良いですか?もしかしたら、大人になって、会う時間もとれなくなっているかもしれないし、皆より大切な友達ができているかもしれない。私はもちろん、テニス部の皆が一番大切で、そうじゃなくなることはとても悲しいことだけれど、十年後の私のことをとやかく言うつもりはありません。今貴方が一番大切なものを守り通してください。 最後に、私に弱音を吐かせてください。 私は大人になることを憧れています。早くそうなりたいと、思っています。 でも、実はその反面、少し怖いです。皆と離れてしまうからか、何か大切なものをなくしてしまいそうだからか、きっとどちらもだと思うけれど、大人になることに、漠然とした恐怖があります。 ねえ、未来の私。 今、幸せですか? 貴方の隣には笑顔の皆がいますか? この手紙の向こうに、本当に十年後の私はいますか? ぱたり、と、零れた涙で文字が滲んだ。 「…ごめ…っ、ごめんね、っ」 約束は守られなかった。過去の私が手紙を通して見つめる先に、望む私はいない。 貴方の憧れた大人も、十年後の 私すらいない。 ねえ、 聞こえてる? 昔の私、今を生きる私はね、 「ひとりぼっちで、臆病で、ちっぽけな大人です」 ねえ、私、どうしたらいい? 地面に足を着いた私は、一人手紙を抱きしめた。 答えは返って来なかった。 BACK ( あの時の私は、こんな私を笑うだろうか // 131023 ) つぎは多分赤也。 thnks sky ruins |