じゃあまた来る。私の言葉に彼女は小さく笑って手を振った。彼女がありがとうと言ったのを私は背中に受け止めながら、後ろ手で病室の扉を閉めて、それから息を吐いた。職場の同僚が階段から足を滑らせて骨折したと聞いた時は驚いたが、さほど酷いものではなくて安心した。
私は病院特有の匂いにすん、と鼻を鳴らす。健康だけが取り柄である私が病院の厄介になることなどそうそうなく、病院の雰囲気には慣れていないと言っても嫌悪を抱くほどではない。しかし、私は以前、一度だけ病院のこの匂いが嫌いで嫌いでたまらなくなった時期があった。
その記憶は、やはり私から「その時」を引き摺り出した。


その心は冷えきった



今は完治して完全に過去の話になったとは言え、幸村の病気は苦い思い出であることには間違いない。あの時の私達は、自分達の無力さに絶望し、幸村をあの冷たい病室に一人残して、ただ、がむしゃらに突き進むしかなかった。それしかできなかった。最終的にはその事もあって、復帰した幸村と、私達の絆はさらに深まって、落ち着いたことには落ち着いたわけであるが。
あの時は痛みも、苦しみも、そして喜びも、全て皆で共有していた。きっとそんな感覚を感じることは、もう二度とないのだろうけど。
皆の顔をぼんやり思い出しながら私は病院の廊下を歩いていると、すれ違い様に見えた医者の横顔にとても見覚えがあった。無意識のうちにその人の腕を掴んで引き止める。


「うそ、柳生?」


後ろによろついた白衣のその人は、目を丸くしてこちらを振り返る。眼鏡を押し上げた彼はしばらく私を見つめて、それから嬉しそうに顔を綻ばせた。「さんではありませんか」彼は見ての通りこの病院に勤めているらしく、誰かの見舞いかと私に問うたので簡単に事情を話してみせた。普段私はこんな遠い病院にまで足を運ぶなんてことはしないから、同僚が怪我をしなければ会えなかったと思うとすごい偶然だと思った。


「実は私、今から休憩に入るところだったんですよ。もし良ければ、少しお話しませんか」
「良いの?」
「もちろんです」


そうして私達はその病院の庭へ出ると、近くのベンチへ腰を下ろした。「いや、まさかこんなところで会うなんてね」「本当ですね」私達の会話はそんな他愛のないものから始まり、偶然繋がりに先日、公園で丸井に会ったことも話した。柳生はとても驚いたようだったが、どうやら彼もこの間仁王に街中でばったり出くわしていたらしい。


「丸井君は元気でしたか」
「うん、まあ、それなりに元気そうだったよ」
「そうですか」
「…ただ、」


つい昔話をして、無性に哀しくなったよと私が続ければ、柳生は組んでいた手を解き、再びそうですかと頷いた。先ほどより、幾分か声のトーンが落ちた気がする。彼ももしかしたら、仁王と似たようなことを話して、感じたのかもしれない。だって、今の私達だって、性懲りも無く昔話を語ろうとしていたのだから。


「自分の望んだ職に就き、こんなことを言うのはいけない事なのかもしれませんが、…」
「柳生…?」
「私はたまに、学生の頃に戻れたらと、思うことがあるんです」


同じだった。私も丸井も柳生も、そしてきっと他の皆も。帰りたい場所は皆同じなのだ。自販機で買ったお茶の缶をキュッと握りしめた私は「分かるよ、すごく」と目を伏せた。何故だろう。子供の頃より、無力な自分を見た気がした。


「ああ、仁王はどうだったの?話したんでしょ?」


遣る瀬無さを振り払うように、話題を変えると、柳生がおもむろに空を仰いで「変わっていませんでしたよ」と呟いた。その言葉は嬉しそうなものからは掛け離れ、どこか寂しげなそれだった。
丸井だって、柳生だって、そして仁王だって、あの時から変わらない。そう言って差し障りはないのかもしれない。しかし、昔の私達と今私達を比べれば、確かに変わらないし、確かに変わった。何が、とは言えない。それが良い変化なのか、そうでないのかすらも分からないのである。


「柳生はさ、仁王とか、他の人と連絡はとってる?」
「幸村君とはたまに」
「…仁王とは、とってないの?」


ずっとペアを組んでいた二人が連絡をとっていないという事実に私は驚かされたと同時に、胸がちくりと痛んだ気がした。柳生は、仁王が頻繁に誰かと連絡を取るように見えるかと私に問い、首を振ると彼は曖昧に笑う。「そういう事です」と。


「むしろ私にはさんの方が、仁王君達と連絡を取っていると思いましたが」
「いや、全然…皆忙しいだろうし、迷惑かなって」


自分の言葉が言い訳臭く聞こえて、なんだか恥ずかしくなった。あの時に戻りたいと嘆く割りに、私は前にも後ろにも動こうとはしないでいる。迷惑だからなんて、名目に過ぎない。本当に聞き分けが良くなったならば昔を懐古し、嘆くわけがないのだ。足元をじっと見つめている私の横で「良くも悪くも、変わりましたね」と言った柳生の言葉が胸に突き刺さって、私は言葉を返すことができなくなってしまった。


「ああ、そういえば仁王君は今建築の仕事をしているそうですよ」
「…建築…そっか、仁王は理系、だもんね」


思いのほか、すんなりとそんな彼をイメージすることができて、私は納得して頷いた。彼は昔からセンスが良かったから、建築デザインもわけないのだろう。そういえば学生の頃、私と丸井と仁王と赤也で、誰が一番うまく絵を描けるかなんてことをアイスをかけて競っていた。その時に私達は仁王が初めて絵が上手いことをに気づき大騒ぎした覚えがある。
ああ、懐かしい、


「懐かしい、なあ」
「…」


どんな些細な思い出もくだらないやり取りも、今の私には全て輝いて見えて、羨ましく見えて、どうしても手が届かないものだった。もうあの時には戻れない。私はすっかり、ずる賢くて冷たい大人になってしまったのだから。自嘲気味に笑うと、柳生がふいに私の名前を呼び、そっと手を握った。照れるとか、そういう感覚の前に、温かく、優しい彼の手があまりに心地よくて、胸の苦しみがほどけていくようだった。


さんはいつも手が冷たいですね」
「あはは、ごめん」
「手が冷たい人は、心が温かい方だそうですよ。以前さんから教えていただきました」


ふわりと笑う柳生に、あの時の私に、まさかこんな形で励まされるとは思わなかった。じわじわと胸が温かくなるのと同時に、自分の不甲斐なさが、醜さが浮き彫りになる思いがして、私は怖くなる。今の自分が否定されている気がしてしまった。彼の手をやんわり解くと、私はそういえば用事があったのだと腰を上げる。「さん、」と、哀しげな色を孕んだ声が私を呼ぶ。丸井と会った時と同じように、振り返る勇気はどうにも湧かない。背中を向けたまま、私はギュッと拳を握った。真田の怒鳴り声が耳の奥でこだまする。あの声を久しく聞いていない。今の私を、彼は叱ってくれるだろうか。それともあの時憧れた、「大人びた私」になれたことにホッと息をつくだろうか。


「おかしいよね。あの時は早く大人になりたいって、落ち着きがある人間になりたいって思ってたのに、…実際大人になってみて、今の自分に満足しているかと言われれば、実はそうでもないんだよ」


私の心が温かいなんて、そんなものは嘘っぱちなのだ。さしずめ冷え切った心が、手にも足にも伝染して、カチカチに冷えてしまったに違いない。だから私はもう前にも後ろにも進めなくなった。臆病になった。

だから、

あの時の自分とも、今の自分とも向き合うことも出来なくなった私は、きっともうどこにも行けない。



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( ねえあの時の私、聞こえてますか // 131013 )
シリーズ化いたしました。次は多分柳。
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