公園に設置されたスピーカーから、かすれた懐かしいメロディが流れ出す。買い物袋を片手に下げた私は、なんとはなしに足を止めて、音の方へ顔を上げた。「五時です、お家に帰りましょう」毎日流れているはずのその放送は、何だか久々に耳にした気がして、私に学生時代を懐古させた。 |
放送に促されて家に帰ろうと走り出す子供達は夕日に照らされてきらきらとしている。私は何かに引かれるように、公園の中へ足を踏み入れた。すれ違う一人の少年が「もう帰らないといけないんだよ」と私に声をかける。私はそれに笑いかけて頷いた。「分かっているよ、すぐに帰るから」 私を不思議そうな顔で見つめていた少年達はそれを聞くとすぐに家へとかけていった。だんだん小さくなる彼らの背中が見えなくなってから、私は近くのぶらんこに腰を下ろした。大人の乗るものではないから、それは私にはとても小さい。 そういえば、昔はこれくらいの時期に、この公園で、テニス部の皆で花火をした。遠くで聞こえる蝉の鳴き声に、私は瞼の裏の記憶を探り出す。 「?」 ふと、懐かしい声が私を呼んだ。あまりにも丁度良いタイミングであったから、記憶の中の声が私を呼んだのかと思った。顔を上げて声の方へ目をやると、公園の入口には丸井ブン太がいた。何年ぶりだろう。仕事帰りらしい彼はスーツを来て、首にはネクタイが緩く垂れている。 「久しぶり」 「おう」 彼はあの時と変わらない笑顔で、私に笑いかけていた。私と彼の家は近所にあって、多分行こうと思えば十分やそこらで着いてしまう。そんな距離だった。学生時代はよく互いの家に行き来していたけれど、今はまったくそんなこともなくなってしまっていた。家が近いのだから、いつでも行けるだろう。初めはそう思っていたが、大人になって、結局のところは家の距離など関係ないのだと知った。 「仕事帰り、だよね。お疲れ」 「ん。お前は?」 「私は今日休みで、今はスーパーからの帰り」 丸井も私と同じように隣のぶらんこに腰を下ろすと、小さく「小せえなあ」と苦笑した。 そう、私はここに来るには、少し大人になりすぎた。 「さっきさ、夕焼け放送なっただろ」 「え、ああ、うん。家に帰りましょーってやつでしょ」 「あれ聞いてさ、なんか、懐かしくなったんだよな。学生の頃が」 そうして空を仰いだ丸井の顔は、だいぶ大人びて見えた。学生の頃の丸井ブン太の面影はあっても、そこにいるのは、間違いなく、大人になった丸井ブン太なのだと思い知らされた。そんな彼の表情に、私は微かに胸が苦しくなったのを感じた。 「…私もだよ。この公園、懐かしいよね」 「練習もたまにここでやったんだよなあ」 「そこの壁でね、皆で壁打ちしてたわ」 公園の壁には黒ずんだ丸い跡がある。そこには私達の思い出が未だに色を残していた。まるで私達を待っていたかのように。今思えば、テニス部で、マネージャーとして走り回っていた自分の姿が嘘のように感じる。まるで記憶が額縁で切り取られて、触れられぬ、届かぬところに行ってしまったみたいだった。 ギ、とぶらんこを漕いだ丸井が、皆と連絡はとってんの?と問う。私はぎこちなく、首を横に傾けた。 「んん、たまに、かなあ。本当にたまに。年に、一回くらい」 「あー俺もだ」 連絡を取っているかなんて、そんなの、私達二人の関係を振り返れば一目瞭然だった。こんなに近くに住んでいる私達でさえ、連絡を取り合っていないのだから。でも、こうして久しぶりに会って、てっきり気まずくなると思っていたけれど、存外そうでもないらしい。少し安堵の息を漏らしながら、私はそっと目を伏せた。 昔は必ず交わしていた「おはよう」も「誕生日おめでとう」も「メリークリスマス」も「明けましておめでとう」も、当たり前に言っていた言葉も、今では当たり前ではなくなった。交わす相手は、今ではもう違う。きっと丸井も。 寂しい、と、思う。 「テニスは?やってる?」 「…時間ねえから、なあ」 「そ、か…」 「赤也あたりは無理にでも時間作ってやってそうだけどさ」 テニス、してないんだ。ぽつりと呟いた言葉は、私は妙に遣るせなくさせた。 彼らからテニスがなくなることなんて、ないと思っていた。そもそもその考えがおかしかったのだ。私だって、いつの間にかテニスから離れていたのだから。プロやコーチにでもならなければ、毎日デスクに向かうだけで、今日一日の自分を守って行く事ばかりで、嫌な上司に頭を下げて、ヒールすり減らして。 そんな大人になりたかったわけじゃないのに。あの時の私は、一体今の私の姿に、何を思い描いていたのだろう。 「学生の頃に戻りてえなあ」 「うん、戻りたい…し、皆に会いたい」 「たまに皆に会いたくなる、よな」 らしくなく、丸井が弱々しく笑った。私は、そんな彼を見ることができなかった。胸の中でずっと堰き止めてきた何かが、壊れてしまう気がしたのだ。私は頭を振って、服の裾をきゅっと握りしめた。 あの時に、帰りたい。 また丸井と仁王と、それから赤也とで廊下を笑いながら走って、真田に怒られて、ちょっぴり可愛い子ぶってたくし上げたスカートを柳生に注意されて、ジャッカルと一緒にパシらされて、幸村と花壇をいじって、柳に勉強を教わって。やりたいことはそんな些細な事ばかりなのに、誰も叶えてくれない。誰も昔には帰してくれない。 「皆とテニスしたいだけなのに」 寂しい。寂しくてたまらない。それでも私達は明日も歩かなければならない。きっと明日も、また行きたくない会社に行って、また上司に頭を下げて、すり減ったヒールに、また泣きたくなるだろう。 それでも誰も帰れない。 「でも、哀しいのに、泣きなくなるのに、涙は出ないんだよね」 「大人になるって、そういう事なんじゃねえのかな」 大人が泣くのは恥ずかしいことだから。泣いても仕方のないことだから。大人になって、私達は諦めが良くなってしまった。仕方が無いと、できないことにそう言い訳をして、背を向けて来たのだ。 「変なの、大人になれば自由になると思ってたのに。どこにでも行けて、なんでもできるようになると思ってたのに」 あの時は大人になることを夢見て、未来に想いを馳せて、ただがむしゃらに前に向かって走り続けていた。 しかし実際、大人になった私達はそんな過去の自分達に囚われて一歩だって前に進みたがない。それどころか自由になることを怖がり、後ろばかり見ている。未来を焦がれていた私はいつの間にか「あの時に戻りたい」と昔へ帰りたがっていた。 「そろそろ、行くか。引き止めて悪かったな」 「いや、私こそ」 「久々にと話せて良かった」 「…うん」 丸井はそう言って立ち上がった。彼も、私も、いつまでもこんなところで昔話をしてはいられない。 私達はそれから二三言交わすと、互いに帰路に着いた。真逆に進み出す私は、ついつい後ろを振り返りそうになって、立ち止まる。 怖くて、振り返ることができなかった。 私は、随分弱虫になった。 眩しい茜空を見上げて、私は小さく息を吐く。変わってしまったと。 あの時から何も変わらないものと言えば、あの公園と、夕焼けくらいだった。彼らは先に大人になって、思い出ばかりを置いてけぼりにした私を責めるように、すっかり変わってしまった私を、――私達を精一杯照らしていた。 BACK ( 戻りたいあの時だけ、どうしても帰らない // 130920 ) 立海全員分書いてシリーズにしようか検討中です。どうせシリーズにするなら、最後はハッピーエンドにしたいよね。 |