番外編06_ 逢瀬は絶え、恋だけが続く |
ああ、これは夢だと思う瞬間がある。 どこか靄がかった思考の中で繰り広げられていた夢に、ふいにリアルさを感じていない自分が現れるのだ。頭は相変わらず靄がかっているはずなのに、けれどそこがアンリアルであることははっきりと分かるような、冷静で、ものごとの客観視を始める、そういう瞬間。ああ、これは、夢だと気づく。 こういう夢を明晰夢と言うのだと以前どこかで聞いたことがある。 さて。ところで、の話になるのだけれど、どうやら俺はその明晰夢を見ているらしい。 「ここは、」 気づけばそこは学校だった。ただでさえ一日の大部分を学校に拘束されて、数時間前にもいた、……もっと言えば明日もまた行くその場所に、俺はどういうわけかいる。昇降口の、二年の下駄箱の前。俺は踵が少し潰れた上履きを履いている。周りには誰もいない。というより、人の気配がない。放課後の廊下のように、静まり返っている。誰もいない上に、学校だし何もやりたいことなんてないのに、どうして自分はこんな場所に。そう思う反面、そこはひどく穏やかで、いつまでもいたいと、そう思わせるような世界だった。 やることもないので、俺は自分の教室に向かうことにした。歩きながら窓の外へ視線をやると校庭より向こうは柔らかい光に包まれて風景がはっきりしない。空にも同じことが言えた。ぼんやりと水色が広がるだけ。空とは言い難い。周りは明るいから、たぶん昼なのだろう。これは俺の想像力の限界からきているのだろうか。 でも、だけど、この世界が俺の想像で成り立っているなら、せめて夢の中だけでも、あいつとか、出てこないかな、なんて。 そうして三年の階に辿り着いたとき、ふと見やった向こうの廊下、B組の教室の前に女の子がいた。まっすぐこちらを向いているのに、どういうわけか顔は見えない。というより、頭に入ってこない、という方が近いのかもしれない。 「そこだよ」 彼女の指は俺の教室を指して、消えた。聞き覚えのある声だ。消えたことは、夢だと分かっているから驚かない。むしろ、すぐに消えるんだろうなあと、そんな予感さえしていた。たぶん全部夢の中だから。ならば、俺の中にあるがいる気がする、その予感も、当たるのだろうか。扉にかけた指に力が篭る。 「丸井先輩」 久しぶりに聞いたその声は、何故か後ろから聞こえた。いるのではないかと分かっていたのに、たちまち息をするのも忘れるくらいに身体がぎゅう、と強張る。 「、」 「はい、です。丸井先輩、いると思いましたよ」 「なん、……」 「なんで? 分かってるくせに。だって夢ですもんね?」 振り返った先には、間違いなくその人だ。思わず手を伸ばしかけたのだけれど、触れたら夢から覚めてしまう気がして、俺はその手を引っ込める。前と一緒で、俺は変わらず意気地なしだった。 「……夢」 「夢でしょう?」 「うん、やっぱりそっか」 そんな確認するような彼女の口調は、まるで俺に、ここが夢の世界なのだと釘を刺しているふうにも取れた。ああ、なんだ夢なのかとどこか落胆する自分がいる他所で、は相も変わらず俺に不機嫌そうな瞳を寄越している。夢の中くらい、そんな俺を嫌うような瞳はやめてくれればいいのに。 「夢の中まで出てくるなんてどういうつもりですか」 「お前っていつもそうな。いや通常運転である意味安心したけど」 「……仁王先輩は? 一緒じゃないんですか」 「仁王に会いたいのお前」 「まさか、いなくて安心してるとこですよ」 「とかなんとか言ってっと出てくんぞー」 「うわうわ、勘弁して下さいよ」 「どんだけやなの」 「うーん、嫌って言うか……」 が、俺の代わりに教室の扉を開けた。 俺のそばを通り過ぎて、ひょいと投げ出すように出された彼女の足が教室の床を踏む。本物だと思った。どういう意味でそう思ったのかは分からない。あんなぼんやりとした空や世界を作る俺にしては再現率が高いって、そういうことなのか、それとも根拠もなく、直感がそう言ったのか。どちらだとしても、今はたまらなく彼女の存在に心が揺さぶられていた。 「せっかく久しぶりに丸井先輩に会えたんだから、もっと、ゆっくり、先輩と話したいなあ、って」 夢だ。全部、都合がいい夢だ。なのに、どうして彼女はこんなにも本物らしいんだろう。 こんな夢、見たくはなかった。きっと目が覚めたらずっとずっと後悔する。 ぐ、と喉の奥が熱くなって、俺は彼女の後ろ姿が見ていられなくなった。 「……やばい、俺、泣きそう」 「……はあ? 何言ってるんですか」 「いや、マジで」 「そんなに私に会いたかったんですか」 「会いたかった。夢でも」 「先輩、最後はあんなに私に近づかないようにって距離を置いてたのにね」 「……ごめん」 「なんて『都合のいい夢』なんだろう」 俺の心を代弁したのだろうか。彼女もまた、少しだけ泣きそうな顔をしたような気がした。「まあ、」と俺から視線を外した彼女が、明るい調子になって、口を開く。俺もそれにつられて無理に笑顔を作って見せた。夢なら、せめて嘘でも笑っていたい。 「都合が良いならそれで構わないじゃないですか」 「……。そうだな」 「ところで私、丸井先輩にお菓子もらいに来たんです」 ロッカーを見回すはどうやら俺のロッカーを探しているらしい。俺ならロッカーにお菓子のストックでもあるんじゃないかって。残念だけれど、現実の世界で今日、ストックは食べきったから俺の頭がそれを補完していないなら、ロッカーの中に目的のものは空だ。 「夕飯食べ損なって、お腹空いてて」 「……ふうん」 頷いてから、変じゃないか? と思った。夢の中の存在なのに、夕飯を食いはぐれてお腹が空いてるなんて、謎だ。そういう設定なんだろうか。まあ、良いけれど。 「丸井先輩ロッカーはどれですか。白状して下さい」 「当ててみ」 「そこのちょっとごちゃごちゃしてるとこ」 「違うって言いたいんだけど当たりだわ。何これ愛の力? どんだけお前俺が好きなの」 「死にたいんですか?」 「あーそのツンめっちゃ久々。効くわー」 「効能肩凝り解消みたいな」 彼女は俺の台詞に小さく吹きだした。当たり前のようなやり取りが、凄く新鮮で、その事実にやっぱり少しだけ泣きたくなったけど、俺はそんな感情に知らないふりをした。 それから瞬時に俺のロッカーを見抜いた彼女は、断りもなしに、中を物色し始めた。夢の中だから、別に良いけど。「残念ながらお菓子は食べきったからないと思うぞ」と声をかけたけれど、彼女は夢なら何か出るはずだと諦めなかった。「駄菓子だと良いなあ」なんて。そう言われたら俺も久々に食べたくなってきた。 彼女がごそごそとロッカーを探る姿を眺めながら、俺は適当にそばの席に腰掛けた。なあ、と彼女を呼ぶ。 「今忙しいです」 「俺のロッカー荒らすお前に、俺の質問を拒む権利はありませーん」 ……たく、何ですか。すごく煩しげに振り返ったを苦笑する。「何で俺のロッカー分かったの」学校のロッカーには、名前も番号も振られていないのに。名前順と言っても、縦に番号順か、横に番号順かクラスによって違うことは彼女も知っているに違いない。 何だそんなことかとは肩を竦めた。 「先輩の部屋って割と整頓されてますけど、興味ないものが揃ってたり、完全に自分のテリトリーじゃないとこはそんな綺麗にしてなさそうだから、ロッカーはほどほどに汚いのかなと」 「意外とちゃんとした理由だった」 「まあ、……あ」 「え、何」 突然彼女がこちらに指をさすので、何事かと思えば、俺の座っていた席の机に、白い袋がぶら下がっていたのだった。さっきはこんなの無かったのに、と頭の片隅で思いながら中を覗き込むと、そこにはごちゃごちゃと色んな種類の駄菓子が詰め込まれていたのである。うわ、マジか。 「駄菓子だ」 「やった」 「……なんつうか、夢って便利だなー」 それから机を二つくつけて(そうしないと溢れそうなくらいだった)、その上に駄菓子を広げた。それは俺の知る駄菓子屋のちゃちなお菓子には見えなくて例えば飴玉一つでもとびきり美味いし、ゼリーなんて宝石みたいに光っていて、とても特別なものに見えた。それに味が分かるって、夢の中なのにすごく変だと思う。 当たり付きのゼリーのふたをめくりながら、はご機嫌そうにゆらりと足を揺らしていた。 「丸井先輩とこうやっておやつタイムとか初めてじゃないですか」 「そうだな」 「これだけあれば一つくらい当たりが……ん、おー当たった! 先輩ゼリー当たった、ほら見て」 「お、やったな」 「じゃあこれ丸井先輩にあげますね」 「なんで、」 「だって持っててもゴミになるし、でも捨てたら勿体無いし」 「はいはい、そういうね」 じゃあこの夢の世界で、偶然駄菓子屋が現れたらそのとき交換しよう。俺はふたをさっと水で洗ってからポケットにしまい込んだ。 「さて、先輩この後どうしますか」 しばらく駄菓子をつまんで、くだらない話をしていると、満足したのか、ふいにがそんなことを言った。ざらっと広げられていた駄菓子が袋に片付けられて、頬杖をついたの視線が俺を捉える。 この後。その言葉が耳に残る。いつまでもこの世界に留まることはきっとできない。途端に胸が詰まるような想いがした。 「今なら丸井先輩のわがままに付き合ってあげても良いですよ」 俺を見上げていたがそう言うと立ち上がった。 「とりあえずここから出ませんか。せっかくだしそこの海まで歩きましょう」 「海……」 「別に泳いで逃げたりしませんよ。わがままを聞くって言っちゃったし、約束は守ります」 じゃあ、わがままを聞き終わったら、は俺の前からいなくなってしまうのだろうか。この夢の目的は、俺にわがままを言わせることで、その目的が終わったら、夢から覚めてしまうのではないか。だからって、ここに留まっていたとして、結局俺はそのときがきたら目を覚ますに違いないけれど。 彼女の瞳には、今どんな顔の俺が映っているのだろう。現状を受け入れたくない情けない自分かもしれない。「分かった」俺は努めて平静を装うと、扉を開けた彼女に続いた。 「学校、本当に誰もいませんね」 「そうだな……あ、でもそう言えばさっきそこに、誰か分かんないけど、女の子いたの見たぜ」 廊下に二つ分の上履きの音。普段意識したことがないから分からないけれど、まるで新品の床でも踏んでいるみたいに、歩くたびにきゅうきゅうと鳴って、俺達の存在を示しているみたいだ。本当にこの世界に二人しかいないような気になる。 先程の女の子は、やはりどこを見てもいなかった。は俺の台詞に、どこか困惑した面持ちを見せてから、おずおずと、「……に、会ったんですか」と問うた。? それはつまり、あれはということだろうか。 「……まあ、言われてみればそんな気もするけど、確証はないっつうか」 「あ、いえ、たぶん、先輩の知ってると違いますよ」 「え?」 「私をここに呼んだのも彼女なんですよ」 俺の知っていると違う。 その言葉の意味はよく分からなかったけれど、そう言えば、前からとというのは不思議な縁があるようだったから、何かそう言うものが関係しているのかもしれない。 以前からだけれど、彼女はそのことについてあまり多くを語りたがらないし、俺も介入してやろうという気はしないので、ただそうかと一つ頷くだけにした。 海岸へはそれからすぐに辿り着いた。夢だから、距離の概念が消えているのかもしれない。風はなく、それなのに波は打ち寄せ穏やかな波の音が鼓膜を揺らす。海は俺からを攫ってしまうものだと思っていたけれど、この海はひどく穏やかで、今は心が和らいだ。 まっさらな白い砂浜に、さくさくとの足跡が続く。「わがままは決まりましたか」が振り返った。 「……ええと、んじゃあ」 「はい」 「聞いていいか? 何で今なのか教えて欲しい。何で今お前が夢に出てきたのか」 「そんなんこっちが聞きたいですけどね」 が言って苦笑した。本当に理由を知らないらしい。まっすぐ海を見つめている。海は青く光り、どこか幻想的にも見える。吸い込まれそうだ。 「でも、たぶん生きた心地がしてないから」 「……」 「一人でも何とか生きようって踏ん張ってはいるけど、やっぱり貴方がいないから私はどこか欠けてるんだと思う。だから夢の中だけでもって会いに来たのかも」 「そんなの、」 俺だって。……俺こそが。 ただ彼女を困らせて、結局未だに自分の足で歩いて行くこともできていない。それなのに、まだをこの世界に閉じ込めてしまいたいと思っている。 「笑ってよ丸井先輩」 「……何だよ急に」 「馬鹿みたいにしててくれないと調子狂うんですよね。せっかくわがまま聞いてあげてるのに」 もうわがままは終わりですか。少しつまらなそうに、彼女の視線が俺から外れて、海の方へ歩き出したので、胸が冷えるような思いがした。まだ、まだ。まだあると咄嗟に声を上げる。 「どうぞ?」がこちらに引き返して、俺の前で止まった。彼女の瞳を見つめたら、俺はどんなわがままも願いごとも、喉の奥に詰まって言葉になりそうに無かった。彼女としたいことはたくさんある。くだらないことを話していたいし、散歩でも何でも良いから隣を歩いていたい。また料理だって一緒にしたいし、初めて彼女と行った祭りも喧嘩だけして終わってしまったから、また二人で行きたい、花火もしたい。だけど、そんなんじゃなくて、俺の本当のわがままは、ずっとと一緒にいたいって、それだけで、だから、どれも俺の本当の願いじゃなくて。 目を伏せた俺が、そっと息を吸った。 「じゃあ、俺のこと好きか教えて」 「……。えー」 「わがままに付き合うって言ったくせに」 「質問に答えるとは言ってないです」 「……。あっそ」 今度は俺が歩き始める。きっと終わりが近づいているこの世界で、落ち着いていられる気がしなかった。が隣に並ぶ。海も砂浜も横にどこまでも続いているように見えた。 俺の少し大きな歩幅に、は何とかついてきている。速いです、なんて文句が飛ぶだろうかと思ったときだった。 「好きですよ」 足が止まった。遅れても止まる。 「本当は離れたくないくらい、好きです」 俺の視線がとぶつかると、少し赤くなった頬を隠すように彼女が腕で顔を覆った。 ツンと鼻が痛くなる。目が熱い。ああ、やっぱり例えこれが夢でも、たまらなく、彼女が愛おしい。 「もう一つ」 「……なんですか、もう」 「もう一つ、わがまま」 俺の声は微かに震えていた。 「触れても消えないで」 は、と顔を上げたは今度こそ本当に泣きそうな顔をした。俺の手が彼女の手に触れる。びくりと、小さく震えた彼女の指を絡めとる。そうして消えないように、しっかりと強く握りしめた。 「っ何で、そういうのばっかり……! 私は、……私だって!」 「、っ」 彼女がどんと俺に抱きついた。そのままバランスを崩して俺の背中が砂浜に受け止められる。砂浜と言ってももっと固くて痛いかと思ったけれど、そんなことはちっともなかった。この流れで言うのも何だか違う気がするけれど、どこも打たなかったか、と俺が言うと、俺の胸に顔を埋めたままの彼女が小さく頷いたのがわかった。 「丸井先輩のわがままは寂しいのばっか」 右手は彼女の左手を捉えたまま、空いている方の手で彼女の頭に手を乗せる。 「たぶん、先輩はまた私に会えますよ。少し先だけど、遠くない未来で。……この私はきっと、二度と先輩に……あえない、けど」 言葉尻が弱々しくなっていく。俺は彼女とまた会えるけれど、このは俺と会えない、というのはどういうことだろう。彼女がそういうのだから、きっとそれは決まったことに違いない。ただ今は嬉しいとか悲しいとか、そういうことよりも、彼女を苦しめているのが紛れもなく自分であることを悔やんだ。 顔を上げたの瞳からぽたぽた、と大粒の涙が俺の頬へ降る。 「……もう、もうううぅ……っ」 「」 「先輩のばか!」 「うん」 「……っまだ、醒めないで……」 離れたくない。離したくない。この世界に閉じ込めてしまいたい。俺は強くそう願う。 でも、そうすることで俺はこの愛おしい女の子をどれぐらい苦しめるのだろう。 いつか壊れる幸せにこうやって恐れながら生きるのだろうか。彼女に我慢をさせて、俺ばかりがわがままを言って。 ――もう、俺は彼女を離してやらなければならない。 彼女の頬の涙を拭うと、頭を引き寄せて唇を重ねた。そのまま何度かキスを交わして、しゃくりあげるを強く抱き寄せる。 ごめん、ごめん、。 「俺、もうちゃんと前に進むから」 俺にしがみつくの心臓の音がその時確かに聞こえた。本物だ。夢でも、きっと本物だ。 淡い水色の空に、穏やかな海。白い砂浜、彼女が生きている音。この心地よい空間の中で、俺はそっと目を閉じた。 目覚ましの音だ。 適当に伸ばした手は、目覚ましを止めて、俺は重い瞼を持ち上げる。朝の真っ白い光がカーテンの隙間から差し込んでいる。 「……ゆめ、」 ああ、夢だ。夢だけれど、彼女に触れたこの手がまだ温度を覚えているような、そんな不思議な感覚。 悲しくも愛おしく思える夢だった。 下から俺を呼ぶ母さんの声がする。今日も学校だ。俺は冷たい床に素足を下ろすと、壁にかかった制服へ手を伸ばした。 「ブン太早く降りてらっしゃい!」 「んー、今行く!」 足早に部屋から出ようとする。その時ふいにポケットから何かがひらりと落ちたのに気づいた。それは駄菓子のふたのごみで、何でこんなところに、と俺はそれを拾い上げる。 「にしても、駄菓子なんて、最近……」 それをゴミ箱へ放ろうとした俺の手が、ぴたりと止まった。……もしかして、もしかして。ある予感に心臓が大きく跳ねる。そうして裏を返した俺はハッと息を飲んで、それを握りしめた。 『当たり』 index ( ヒロインと丸井先輩の夢の世界が少しの間だけ繋がった話 // 160430 ) 完結してから約一年が経ちました。もうこの作品に関わる何かを書くことはないのだろうと思っていたので、今回リクエストをいただき、こうしてまたログアウトの世界を書くことができてとても楽しかったです。ヒロイン側のお話などなどはブログに書くと思われますので、お時間がある方はそちらの方もよろしくお願いします。 リクエストありがとうございました。 リク:おれいんさんへ |