番外編05_  春は遠退く背中


それは突然のことだった。
今から約半年前、私の中に知らない人格が住み着いた。(知らないはずなのにそれは、おかしなことに、確かに同じ『』という人格だったのだけれど)
その日から私の身体は私のものではなくなり、突然現れたその人格によって私という人間は思考し、行動をするようになったのである。自分の意思で身体を動かすことも叶わなくなり、ふわふわとどこか思考に靄がかかるような、意識だけが身体から切り離されたような、そんな感覚に初めこそ私は困惑した。だが私よりも、その知らぬ人格の方が動揺していたように思う。その上、彼女は私という人格が、すぐそこに存在していることに、どうやら気がついていないらしかった。
こうなったのは、きっと私が、誰かに怯えて過ごすこんな毎日から逃げ出そうとしたからだろう。元々そんな調子だったからか、私は彼女の存在をすんなりと受け入れることが出来た。むしろ好都合だった。自分の行動に、責任を持たなくても良くなったのだから。
彼女は私の人間関係に変化をもたらした。私にできないことばかりしてのけて、それは正直羨むほどだったけど、後から考えると、私と彼女は臆病という本質が良く似ていて、彼女は、きっと、私の人格が行き着く先の一つの可能性だったのではないか、と今なら言える。
そんな彼女は消えるのも突然で、心の準備をする間も無く、今になって私の身体は、私に返されたのだった。

彼女が腕にカッターを突き立てた瞬間現れた光が消えて、目の前が途端に暗くなった。それと同時に、ふわふわと軽かった身体は、(むしろ意識、と言った方が良いかもしれない)重みを得た。埃っぽい匂いが鼻について、私はゆっくりと瞼を開ける。半年ぶりに自分の意思で動く身体は、酷く奇妙に感じられた。
何となく予想はしていたものの、屋上にいたはずの私が掃除用具入れに押し込まれている事実に、戸惑いを禁じ得ない。何度不思議な体験をしようとも、慣れないものは慣れないのだ。
そうであったから、私は長い夢を見ていたんじゃないかと、そんな気さえした。私は嫌がらせをする先輩達から逃げる時よくこうして掃除用具入れに隠れていて、あの日もそうだったけれど、もしかしたら、扉を開けた先は、あの日のままなのではと。
ゆっくりと用具入れの扉を押した私は、差し込んだ夕陽に思わず目を細めた。そこに切原君の姿も、さんの姿もない。きっと課題を終えて部活に行ったのだろう。

「ああ、」

吸い込んだ息は声になり、私の鼓膜を震わせる。
これで、本当に良かったのだろうかと思わず問いたくなったけれど、答えなんて誰もくれるはずがなくて、私の心にはぽつんと罪悪感が残った。

「あれ?お前帰ったんじゃ、」

不意に背中へ投げかけられた声に、私はハッと息を飲んだ。振り返った先には、どういうわけか教室へ引き返して来たらしい切原君がいて、彼は怪訝そうに私に視線を向けていた。彼こそ、部活に行ったのではないのか、なんて、そう思ったけれど、彼と視線が絡まった途端、きゅっと喉がしまったように、たちまち私は声が出せなくなってしまった。

「おい、聞いてんの?」
「…」
「…。…あー…丸井先輩と、何かあった?」

ちくりと、胸が痛む。それが、丸井先輩のことに対してなのか、切原君に気を使わせてしまっているからなのかは分からないけれど、多分、その両方に違いないと思った。罪悪感がそうさせているのだと。

「えーと、…あ、俺はノート忘れたから取りに戻っただけなんだけど」

ずっと、切原君が怖かった。少し乱暴な口調も、攻撃的なテニスも、彼の鋭い視線も。だけど何より怖かったのは彼の真っ直ぐな言葉だ。いつだって私の弱さが彼にはお見通しな気がして。いや、きっと、本当にお見通しだったのだろうけれど。
だけど、切原君が本当は優しい人であることを知って、それなのに、私はまだ、彼を恐れている。
彼は一向に話し出さない私に困り果てて、近くの椅子を引くと「座ったら」なんて、私の腕を掴もうとしたのだけれど、彼の手が届く寸前で、私は咄嗟に身を引いた。切原君が掴み損ねた私の腕と自分の手を交互に見てから、ばつが悪そうに手を戻す。
申し訳なさでいっぱいになったけれど触れられたら、私がさっきまでの私でないことが知れてしまいそうで、そうしたらきっと、切原君は幻滅するんじゃないかって、そんなことばかり頭に浮かんだ。
幻滅される前にいっそ言ってしまうが良いと思った。私は貴方が好きな『』ではないですよと。その方が傷つかずに済むと。彼女の手に入れた人間関係を、横取りせずに済むと。

「…あの、」
「…うん、なんつうかさ、無理して言わなくても良いから、別に」
「…」
「最近お前結構思い詰めること多いみたいだし、無理に、じゃなくて話したくなったらで良い」
「きりはら、くん」
「何があったか知らねえけどさ、何があっても俺、一応お前の友達で味方のつもりだし」

何故、半年ぶりに身体の自由を得て、一番に出会ったのが、丸井先輩ではなく、切原君なんだろうなんてこっそり思っていた。それは、言ってしまえば私も丸井先輩も互いに会う必要はないからだろう。姿形が同じだろうと、私はあの彼女ではない。彼女が何かなすべきことがあるとするならば、それはきっと丸井先輩に対してで、私の場合は、多分、切原君だった。
彼の台詞で分かった。

「切原君、」
「あ?」
「わたし、あの、い、…言わなくちゃいけないことが、」
「言わなくちゃいけないこと?」
「っごめ…ごめん、なさい、今までずっと、私は、」
「えっ」

私は彼に謝らねばならないと。
ここに、改めて存在して、まず私のすべきことはまさにそれに違いなかった。今でこそ私と切原君は仲が良いけれど、それまで私はずっとずっと切原君を避け続けた。本当は優しい彼の本質を見抜けないまま、怖がって、避けて、傷つけていたのだ。傷ついているのは自分だけだなんて、バカな勘違いをしていた。
切原君は私がそう言ったわけがさっぱり分からないと言った様子だったけれど、理由を伝える以前に私の視界はじわじわと滲み始めて、切原君はぎょっと目を見開いた。

「はあ、ちょ、何で泣くんだよ!」
「う、っ…ごめんなさ、」
「あああ良いから!俺なんも怒ってねえから!」

運命は自分で作っていけると、彼女が導いた答えは、どうやら私の中にも染み込んでいるらしかった。
今まで積み上げてきた友情を横取りしてしまう心配など、必要はなかった。その関係を持続させるには、これから先もそれ相応の努力が必要なのだ。彼女が残した友情の痕跡は、私の進むためのきっかけに過ぎず、これからも、切原君達と友達である未来は、私が作らねばならない。むしろ、変わらずにいれば、再び一人ぼっちになる未来はすんなりやってくるだろう。

切原君は制服の袖でぐりぐりと私の涙を拭うと、そばの席に無理やり座らせて、彼は私の前にしゃがみ込んだ。下から顔を覗き込まれた私は、余計に頭を下げて切原の視線から逃げると、彼が肩を竦めたのがなんとなく分かった。

「…今日のお前、なんからしくねえっつうか、…なんか、あんま仲良くなかった時のお前みたい」

どきりと心臓が跳ねる。スカートの裾を握りしめた私は、絞り出すように、言葉を零した。

「でも、どっちも本物です、」
「…」
「どっちも本物の、です」

これ以上自分を否定されるのが怖い。切原君が沈黙を守る間、私の心臓は飛び出さんばかりに跳ねていた。元々は、ここは私の世界で、これは私の身体であったけれど、彼女は私には大き過ぎるものを残して行った。
彼の手が、ふと、私の方へ伸ばされる。

「んなの当たり前だろ」
「え、」
「どっちもお前だって」

顔を上げた私の頬を、切原君がぱちんと両手で挟み込んだ。「何変なこと言ってんだよお前」なんて、遠慮のない強さで、私の頬は押しつぶされる。

大袈裟なようだけれど、まるで存在を許されたような、私からすればそんな気持ちになって、ようやく自分から切原君の方へ目を向けた。

「やっと見たな」

そうして彼はホッとしたように笑みをこぼしたのだった。




分かっていたことだが秋が終わり、冬が来て、春の足音がする頃になっても、『彼女の気配』が私の中に帰ることはなかった。多分、本物に、もう二度と会えないに違いない。

そうして私は改めてこの世界でとして歩き出した。だけど、丸井先輩だけは、彼女が消えてしまった日から立ち止まったままのように思われた。
ふと廊下で見かけた丸井先輩の横顔は、いつも通りのように見えて、どこか辛そうにも見える。私がどうにかできることではないけれど、そんな先輩を見ていられなくなって、気づけば彼を呼び止めていた。
彼は振り返った先の私に、一瞬、何かを言いかけたようだったけれど、すぐに私から視線を外した。

「どうした、

もしかしたら、今までずっと先輩に声をかけようとしなかった私が、接触を図ろうとしたからか、丸井先輩は彼女が帰ってきたのではないかなんて、そんな風に思ったのかもしれない。ずっと、言おうか迷っていたことがあります。そんな私の台詞に、先輩は表情を崩す様子もなく、「何?」と答えた。

「先輩はきっとこれまでずっと後悔をして、たくさん悲しい思いをしてきたんだと思います」
「…」
「でも、誰も悲しまない道がいつも正しい道とは限りません」

丸井先輩はハッと息を飲む。私が、彼女のことを知っている事実に驚いているようで、だけど、先輩はすぐにかぶりを振ると、まるで話が早いとでも言わんばかりに苦笑した。それは半ば自虐らしく見えた。

「ああ、そう言うことな」
「先輩、」
「悪いけど、俺はお前には話はないから」
「でも私はあります」
「…」

逃げようと足を引いた先輩を逃すまいと、私は腕を捕まえた。きっと、今までの私なら、こんなことは絶対しないし、できないだろう。でも、彼女が私の背中を押している気がして、掴んだ手を離す気にはならなかった。

「正しい道を選ぶことができたなら、今はたくさん傷ついても、いつか、これで良かったんだって、納得できる日が必ず来ると思います」

振り払われると思った手は、そのまま繋がれたまま、先輩が私をじっと見つめ返した。先輩の瞳が揺れる。「いつまで立ち止まっているつもりですか」と私は言いかけた時、先輩は私の視線から逃げるように目を伏せた。「似てるよ」と、先輩の口が開かれる。

「お前、ちょっとあいつに似てる」
「似てるも似てないも、彼女も『私』ですから」

私の言葉では先輩に届かないだろうことは分かりきっていたけれど、それでも伝えたかったことだけ先輩に届けると、先輩の腕を解放した。

「先輩の気持ち、きっと私は何も分かってないのに、生意気言ってすいませんでした」

先輩は力なく首を振って、すぐに私には背を向けて歩き出した。だけど遠ざかる姿を見ていたら、このままで終わって欲しくなく思えて、私は一歩だけ、足を踏み出した。

「先輩!」

先輩は足を止めることも振り返ることもしなかった。だからって私には先輩を追いかける権利はないし、勇気もない。これが私の触れていい、彼らの物語の最後だと、私は手を握りしめると息を吸い込んだ。



「だけど、待つことは悪いことではないと私は思います!」



やっぱり先輩は歩みを止めなかった。
先輩の背中はすぐに見えなくなって、私は握りしめていた手をゆっくりと開く。
きっと、今後私が先輩に関わることはないのだろう。だけど、それがたとえどんなに可能性の低いことだとしても、いつか「彼女」だけは再び丸井先輩とつながることができる未来を、私は少しだけ願った。


私が知る限りの、彼らのお話はここまでだ。



(春は遠退く背中)



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( ヒロインが帰った後の世界 // 150531 )
なんだかうまく書けなかったのですが、雰囲気だけでも伝われば。