番外編04_ とびきりの嘘だけ集めた話


あ、だ、と思った。
何やら大きなダンボールを抱えて右へ左へとよろけている小柄な彼女の後ろ姿は、放課後の静かな廊下に差し込む夕焼け色に照らされて、今日はどうにもたどたどしい。彼女の歩くペースはやけに緩慢で、この分なら意図せずにあっという間に追いついてしまう程だった。
俺はそのまま自然にの隣に並んで歩調を合わせると、彼女はふとこちらを見上げた。釣られて視線を返すと、彼女はあからさまに眉を顰めて見せたのだ。それからぼそりと「うわ」と言う声も付け加えて。ちょっと待ったその反応の意味を問いたい。

「仁王先輩じゃあないですか…」
「何じゃそんなに会いたかったん」
「ご冗談を」

期待外れでした、とさっぱり言い切って、彼女は前に向き直った。足取りはいつのまにか随分としっかりしている。「本当はか弱いふりして気の良さそうな人に助けてもらう寸法だったんです」なのだそうだ。俺は手伝ってくれないと初めから見切りをつけられているのだろう。まあ妥当な判断ではあるが、は何気に腹の中は真っ黒なのだと思った。というか、初めから俺が、というか後ろに誰かしらがいたことには気づいていたのだな。俺のことを食えないという割りに、自分だって侮れない奴だ。

「人間いかに楽をするかですよ」
「お前さんのそういうとこ嫌いじゃないぜよ」
「…はあ」
「嬉しくなさそうやのう」
「まあ、嬉しくないので」

彼女は初めに俺を見たその一度きり以外、ちっともこちらを向こうともせずにまっすぐ前を見つめていた。真顔、と言えば良いのか、先輩に対する態度とは思えぬ程に無愛想だ。とは言え自分だって、可愛がられるタイプの後輩ではなかったことは確かだけれど。それにしたって、この生意気さはどこで培われたのだろうとは思う。弟のゆずるはとても愛想が良いのに。
俺は何気なく彼女の抱える箱の中を覗くと、見覚えのある数学の教材がぎっしりと詰まっていた。側面にはマジックで「3年」と走り書きがしてあって、2年の彼女が何故これを持っているのだろうと俺はちらりと彼女を一瞥する。「日直とかか」当てるつもりもなく、当てずっぽうの思いつきを口にした。

「あー、これですか。これはなんと言いますか」
「うん?」
「例えるならあれですね、道を歩いていて突然目の前で倒れたお爺さんに出くわした挙句、人の目もあって助けない訳にはいかなかった、みたいなそういうあれです」
「とりあえずお前さんが面倒くさいって思っとることはよう分かった」

さしずめどこぞの数学の教科係が転んだりして怪我でもしたのだろう。だから偶然そこに居合わせた彼女がしようがなく代わりに運ぶことになったと。ハズレくじを引くのが上手いやつ、と俺はこっそり思った。

「のう」
「何ですか」
「持ってやってもええぜよ」
「は?」

そこで彼女の目がようやく俺を映した。自分でも何故わざわざ進んで面倒なことに手を出すようなことを言っているのだろうと、顔には出さなかったが少しだけ後悔する。しかしこいつを助けたところで、と思う反面、彼女と関わりを持つことに抵抗がなくなった自分もいて、気づけば「ほら」と手を差し出していた。

「結構です」
「何じゃ助けて欲しかったんじゃないんか」
「まあそうなんですけど、気持ちだけで充分です」
「そうか」
「…よく分かんないですけど、申し訳ないっていうか」

まさか断られるとは思っていなかったので、予想しなかった返答を怪訝に思った。さっきと言ってることが違う。あ、でも気を遣っていただいて嬉しいですよ、ちゃんと、と彼女は早口でいって、それから俺よりも一歩前を歩き出した。だから俺からは彼女がどういう顔をしているかは分からなかったのだけれど、この状況は以前も見たことがあるそれに、何だか似ている気がした。皆で真田の家に行った時のの様子である。
先日も言ったけれど、彼女はとても人間らしくなったと思う。瞳の中の冷え切った色はいつの間にか消えて、他人と関わりを持とうとするようになった。だけどそれと同時に、時折、彼女はやけに寂しそうな顔をするようにもなったのだ。
という少女はいつだって謎めいて、中に秘めているものの底さえも見えなかった。
俺は差し出していた手を引っ込めると、彼女は視線を下に落とす。

、」
「…皆さんにこうやって当たり前のように声をかけてもらったり、冗談を言い合ったりすると、たまにとても不安になるんですよ」
「不安?」
「いつかこんな毎日が消える日が来るんだろうなって」
「それどういう意味じゃ」

彼女は笑った。「私にも分かりません」と。下手なはぐらかし方だ。けれどその後、「でもきっと、どんな形でかは分からないけれど、そんな日が来るんだと、そんな気がします」と、彼女は確信めいた口調で言ったのである。
だからこそ、は優しくされることが怖くなってしまうことがあって、しかしそれは失いたくないが故のものだった。

「でもしょうがないんですよね。世界は大きいから、こんな私一人がどうなろうと、きっと明日もちゃんと来て、世界は成り立つんですよね」
「…」
「突然変なこと言ってすいません」

そんな話をしているうちに、もはや教材置き場と化した空き教室に辿り着いて、彼女は抱えていたダンボールを殊の外乱暴に置くと腕をグルンと回した。相当面倒だったらしい。「お付き合いくださってありがとうございます」形式的な礼を告げて、はさっさと教室を出て行こうとしていたのだけれど、「お前さん分かっとらんのう」と俺が口を開くと、彼女の足がぴたりと止まった。夕焼けが俺の背中を照らして、ゆるゆると足元に影を作る。それは彼女の下まで伸びていた。

「世界なんちゅうもんは人間の数あるもんぜよ」
「…はあ、」
「お前さんの言う大きな世界に影響するやつなんざそうそうおらん」
「…ええと、何が言いたいんですか」

振り返った彼女は、困ったように眉尻を下げて俺を見つめていた。
つまり、俺が言いたいのは、人の数だけ世界があるのだから、どの世界にも影響しない人間なんて、いるはずがないということだ。

「俺はが消えて壊れる世界を少なくとも一つ知っちょる」

それが誰のことかは言わないままに、俺は挑発的に笑うと、彼女はもう何も言わなかった。の瞳は相変わらず不安げに揺れていた。一応少しは励ますつもりでかけた言葉だったのだけれど、うまくいかないものだ。
こういう時、普段から人と関わることをあまり好んでいなかった自分は、相手になんと声をかけたら良いのかますますわからなくなってしまう。

「ま、もしお前さんが大きな世界に影響力を持つような奴になりたいんなら、俺が特別な手ほどきをしたってもええぜよ」

困った挙句、自分の口から咄嗟に出たのはそんな嘘だった。ここまで後のことをさっぱり考えていない嘘もなかなかつかないけれど、自分にはこういうやり方しか思いつかない。俺が近くの椅子に腰を下ろしながらを見上げると彼女は「何ですかそれ」と苦笑を零したのだった。

「ただ生半可な気持ちでついてくると次の日には刑務所行きじゃなあ」
「…何させるんですかホント」

はまるで人殺しでもさせられるんじゃ、みたいな顔をした。いや、ただの嘘だから、特に何も考えていないけれど、確かに大きな世界を震わせるにはそれが手っ取り早い話ではあるが。だってそれは相手が知り合いだろうがなかろうが一人一人の世界を壊すもっとも単純なやり方だから。さあてな、俺は欠伸をした。

「とにかく、自分がちっぽけな存在かなんちゅうのは、自分だけじゃ推量れんもんなんじゃ」
「…そう、ですかね」
「ん」

…それからもう一つ。お前に足りないものを教えてやろう。椅子の背もたれに身体を預けて、半ば天井を見上げるように後ろへ力を抜くと、俺は言う。嘘を楽しむのだと。

「何が本当か嘘かなんて分からん。信じたいものだけ信じて、残りの嘘は楽しんでゴミ箱にぽい、じゃな」
「はあ、」
「お前さんはなんもかんも言葉に振り回されすぎぜよ。特に俺の話なんざどれがホントか分からんじゃろ。この話だって、のう」

人の驚く顔が好きだ。唖然とする顔がおかしくて好きだ。ほらこうやってどっちが何か分からなくしてしまえば、だってもう戸惑っている。それで良い。あとはこの中で信じたいものを探すだけだ。それで前に進めるようになるならそれで良い。沈みかけている夕日を眺めてから、俺はそろそろ行くかと椅子から立ち上がると、彼女はそっと微笑んでこう言った。

「仁王先輩の嘘は優しいですね」

何が彼女にそう言わせたのか、俺にはちっとも分からなかった。そんなことは初めて言われたものだから、俺は面食らってしまう。だけどそしてそう言った彼女の横顔は、笑顔を見せたくせに、柔らかい言葉を寄越したくせに、少しも曇りが消えた様子などなかった。やはりただ寂しそうに、遠くをぼんやりと見つめている。
でも、さっきも言ったように俺はちゃんと分かっているのだ。他人の抱えるものを自分の感覚だけで推し量ることができるわけではないのだと。だからこそ俺の推し量り間違えた言葉など、彼女に届くはずもない。

きっと違うのだ。
彼女が言っている、自分がいなくなることは、きっとそんな単純な話ではないのだ。掬い上げ切れなかった彼女のわだかまりは、果たしてこの先消えることはあるのだろうか、俺はそんなことを思ってそっとため息をついた。


(とびきりの嘘だけ集めた話)



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