番外編03_ 水の泡しかうまれない話 |
春の陽気は俺の背中を押すどころか、いつだって歩調をやけに遅くさせる。 自分の誕生日もあって、食い物はみんな美味しくて、桜が綺麗で、新しい学年に上がる、そんなこの季節が俺は好きだ。いつもなら浮き足立つこんな日に、俺は何故か、そわそわとはまた違う、妙な感覚を覚えていた。それはまるで、予感に近い。今日はいつもと違くなる。 それは、今日が新学期だという意味ではなくて、俺の知るいつもの春の日と違う、そんな予感。 「丸井先輩が遅刻ギリギリなんて珍しッスね」 「…ああ、赤也の方が早いとか今日は雪だな。柳生、今日お前の置き傘貸してくれ」 「ちょっと先輩!」 俺が春休み中の部活の開始時刻と、休みが明けて学校が始まってからの朝練の開始時刻が違うことを思い出したのは学校が目の前に見えた時だった。時既に遅しにも程がある。とは言え、余裕をもって家を出てきただけあって、朝練に遅刻をすることはないだろうが、しかしギリギリになることは目に見えた。真田にどやされる自分を思い浮かべながら俺はそろりと部室へと入り込む。中にはすっかり着替えが終わっているにもかかわらず、何故か仁王や赤也、そして柳生がいて、俺の遅い登場に、赤也が座っていたパイプ椅子を揺らしながら初めの台詞を言って見せたのだ。部活開始五分前。さっさと着替えてしまえば問題はない。 鞄を床に投げて、もぞもぞと制服を脱ぎ捨てていると、赤也があれ?と半開きの俺の鞄を覗き込んだ。 「丸井先輩、なんか絵本入ってますけど」 「あ?」 彼が示した先の鞄からは、すっかり年季の入ったおんぼろの絵本が顔を出している。「人魚姫?」色褪せてカバーすら破れかけているその本の背表紙に書かれたタイトルを口にする赤也。随分と可愛らしいもん持っとるのう、と、仁王があくび混じりに言った。すぽんとシャツに頭を通して、俺はその本を取り出す。 「ああ、これな。朝、家出るときに丁度母さんが捨てようとしてたから回収して来たんだよ。そのまま持ってきてたの忘れてたわ」 「回収って…」 赤也がそこで言葉を切る。何を言いたいかは、顔を見ればわかる。確かにこの歳になって絵本を、しかもどちらかと言えば女子向けのストーリを捨てずに取っておくことは少々可笑しいことは俺だって分かっているつもりだ。今朝、この絵本を捨てようとした母さんに文句を言った時も、似たような顔をされた。 俺の弟達は五歳と八歳になり、何を与えても喜ぶ歳ではなくなった。俺のお下がりで読ませていたこの絵本も、もちろん他の本も、今ではもうすっかり読まない。今は何とかライダーとか、何とかレンジャーとか、興味はそういう方へシフトしていき、そうなれば絵本達は用済みだ。三兄弟で読み込んだのだから、もう十分役目を果たし終えただろうと、本を纏めていた母さんのしたことはもっともだ。だけど、母さんのそんな後姿を見ていたら、気づけば俺は、これだけは駄目だと、それをいらぬ本の山から取り上げていた。 「これは特別なんだよ」 ふうん、仁王がやけに何かを言いたげにこちらへ目をやったけど、結局は何も言わなかった。 いつだって、この本を見ると、あの夏の日のことを思い出す。俺の他に、唯一『彼女』の姿を見た婆ちゃんはもういないし、そもそも俺だって、あの日の出来事は本当に現実だったのかさえ分からない。彼女が姿を消したあの駅のホームには、その時はどういう訳か人がまるでおらず、彼女が消えた瞬間も、そもそも俺が彼女といたことすら見ている人間が誰もいなかったのだから。 「未来で…今度会った時は、私のことを助けてあげて欲しいの」 あの人魚は多分、俺のせいで消えた。俺を助けたせいで。死んでしまったようにも見えたけれど、跡形も無く姿が消えたこと、「また会えるよ」と言うどこか確信めいた言葉。それらが、彼女は死んだのではなく、ただ彼女のいるべき場所に帰っただけだと、俺にそう思わせた。 「人魚姫ってー確かあれッスよね。王子に会うために足を貰って人間になったけど、結局王子とはくつかなくて終わっちゃうって言う」 「最後は海の泡になってしまうお話でしたね」 「何か童話の中では唯一ハッピーエンドじゃないって感じッスよね」 「私は妹がこの話が好きなので、たまに読み聞かせていますよ」 「そーだなー。王子が女を見る目なさ過ぎて俺はこの話あんま好きじゃねえけど」 鞄の中へ本を押し戻してチャックを締めると、上のジャージを適当に肩に引っ掛けた。「大切にしてる割に随分な言い様じゃなあ」仁王が腰を掛けていた椅子から立ち上がる。部活開始時刻を少し過ぎていた。 「いや別に、内容自体はあんまり好きじゃねえよ。悲しい話より楽しい話が良いじゃん」 「はあ、」 「ただ人魚姫って俺の初恋だからなー、なぁんつって」 「…」 「真に受けんなよバーカ」 戯けて見せても、赤也はなんとも言えないような表情を変えなかった。あーあ言うんじゃなかった。 靴を履き替えながら片手で追い払う振りをして三人を部室から出るように促す。つうか、もう部活始まる時間すぎてっから。早くしねえと今に真田が殴り込みに来るぞ。それが容易に想像できたのか、赤也がびくりと肩を震わせて部室から飛び出していった。続けて仁王がのろのろと出て行く。最後まで残っていた柳生が俺を振り返ったので「あーすぐ行くって」と早口に言った。彼はそれに頷いたのだけれど、すぐに出て行くかと思えばノブに手を伸ばしたところで再び、俺を見返った。「確かに、」 「確かに丸井君の言うように人魚姫は哀しいお話ですが、私は、この結末で良かったのではないかと思いますよ」 それでは、と彼は付け加えて部室を後にした。閉まる扉に柳生の背中が見えなくなってから、俺はポケットに突っ込んでいたガムを口に放り込むと、そっと息を吐く。 「…思わねーよ」 新学期から抜き打ちテストとは正直卑怯だなと、俺は思う。普段成績が良い奴だって、それは試験の日が明確に示されているからこそ、その日に向かって学力を上げているわけで、抜き打ちテストで実力なんて推し量ってもしようがない。まあ俺は試験の日が示されてるところでやんねーけど。 つまり、俺が言いたいことは、数学のテストに引っかかって、補習になりました、と。そういうことである。 そんな補習も、課されたプリントにはデタラメな答えを書いてつい先程、提出してきたばかりなので、もう今からすっかり部活に出る気満々な俺がここにいますけど。そう言えば確か柳の話だと、赤也も英語のテストに引っかかったらしい。今頃教室で一人、英語のプリントと睨めっこしているに違いない。 夕焼け色が眩しく差し込む放課後の廊下、俺は開きっぱなしの鞄からふと絵本を取り出して中を開いた。最初のページから早速色鉛筆で落書きしたような跡があったり、破けたりしている。俺でももう少し丁寧に扱っていたと思うけど、弟達は絵本としての用途以外にもこれを使って遊んでいたことがよく分かる。やれやれ、とそれを閉じようとした時、そばの窓から強い風が吹き抜けて、思わず手にしていたそれを床に落としてしまった。開いた状態で落ちたそれは、バラバラバラと風によってページがめくられていき、俺の目にとまったのは最後の頁である。 『人魚姫はナイフを投げ捨てると、海に身を投げます。 そうして人魚姫は海の泡となって消えてゆきました。』 見たくないページを見たな、と今朝柳生の言っていた台詞を思い出しながら俺はそれを拾い上げようとする。しかしその前に、先の廊下で呆然と廊下に立ち尽くす女子生徒を見つけた。彼女は掲示板を見上げたまま動かない。一体どうしたのだろう。少し様子がおかしく見えたので、そのまましばらく彼女の様子を伺っていると、彼女は不意にポケットから何かを取り出した。それがカッターナイフだと気付いた瞬間、俺はハッと息を飲んで走り出したのだ。そんなものを取り出して、腕にあてがわれたらどうなるか。次の展開が容易に頭をよぎっていく。 「お前何やってんだよ!」 腕にあてがおうとしたそれを弾くと、俺は女子生徒の腕を引いて自分の方へ向かせた。彼女の顔には見覚えがあった。赤也のクラスにいた、何にでもビクつくような地味な女子生徒だ。そう思った。だけど違った。確かに顔は同じはずなのに、彼女は別人だ。何かが明らかに違うのだ。俺は彼女を知っている。 「おま…、前に、どっかで、」 違う。 知ってる。 「また会えるよ」 彼女を知ってる。 彼女は、あの時の、俺を助けた、 「貴方なんて知りません」 ――は? 「っ離して…!」 彼女はそう叫ぶと俺を突き飛ばした。彼女の言葉に、腕の力が抜けて、次の瞬間には彼女は手から逃れ走り出していた。ガツンと頭を殴られたような衝撃。 「何だよそれ…」 …知らないってどういうことだ。 間違えるはずない。彼女は確かにあの日に出会った人魚だったのだ。 「…数年後、次に貴方に会った時、きっと私は貴方のことを忘れてしまっていると思う。その上、もしかしたら私は、貴方をたくさん傷つけてしまうかもしれない」 すべての記憶は泡に帰す。 「私には貴方の優しさが必要で…言葉が必要で、…だから、未来で…今度、会った時は、私のことを助けてあげて欲しいの」 ふいに蘇る彼女の言葉に、俺はそっと息を吐いた。 人魚姫からは水の泡しか生まれない。 ああ、そういうことか。 ――俺も随分と酷なことを引き受けたもんだな。 (水の泡しかうまれない話) index ブン太の言う「悲しい」人魚姫と柳生の言う「哀しい」人魚姫は捉え方が異なります。 それから、本編の01にある「水の泡しかうまれない話」はヒロインのサイドから見ると、話の内容とタイトルがつながらないのですが、本来この話のタイトルは、ブン太サイドから見た話のタイトルということでした。 ( 全てが始まる前の話 // 150210 ) |