番外編02_睡夢の縁


「あーあ、どうすんだよ。柳先輩いねぇじゃん」

切原君の肩が、がっくしと音でも聞こえて来るのではないかというくらい、落ちる。不機嫌そうな視線が寄越されて、私はさり気なく視線を逸らしてから、教室をもう一度だけ覗き込んだ。やっぱり柳先輩の姿はそこにはない。柳先輩がいないのはちっとも私のせいでも、ましてや切原君のせいでもないのだけれど、私も切原君へつい同じ文句を言ってしまいたくなったので、私は黙り込んでそれをやり過ごしていた。
英語の教科書を片手に柳先輩の教室の前で黄昏れる私達はなんというか、少し滑稽だ。先程から、3学年の生徒がちらちらと遠巻きに私達を見ては通り過ぎていく。多分、切原君の知名度がそうさせていて、彼はあまり気にしていないのかもしれないが、私には少し居心地が悪い。一歩だけ彼から距離を取ると、切原君が私を一瞥したが、もう何も言わなかった。

切原赤也は英語が苦手だ。かくいう私も、切原君程ではないにしろ英語が苦手だった。そもそも英語が得意な学生なんて、とっても少数派だとは思うけれど。
授業をそれなりに真面目に聞いている私でさえ、英語に関してはちんぷんかんぷんなのに、いつだって1時間まるっきり居眠りをしている切原君がちんぷんかんぷんの領域を凌駕していないわけがない。以前に特技は「いつでもどこでも寝られること」だと鼻高々に言って、丸井先輩に馬鹿にされているのを見たことがある。どうでも良いけど時と場所は選ぶべきだ。そんな風に思っていた私も、今日ばかりは、隣の席の切原君に釣られて英語の授業中に居眠りをした。
私達2人が目を覚ましたのは英語の先生に名前を呼ばれた時。多分私は10分も寝ていなかったと思うし、他にも寝ている人はいたみたいだったけれど、2人して寝ているのはとても目立ったらしく、先生のピリリとした声に、私と切原君は目を見合わせて、肩をすくませる他なかった。そういう訳で先生は罰として私達に英訳の宿題をたっぷり出したのである。

が柳先輩に聞こうって言ったんじゃねぇかよ」
「…私は半分冗談のつもりで、」

確かに言った。宿題を言い渡された後、頭を抱える切原君に「君には柳先輩がいるじゃんか」と。だから聞きに行けばと提案はしたけれど、2人で行こうとは言っていない。まあ、私も、あの定期試験で主席なんかをとってしまうような柳先輩に助けてもらえるならばありがたいのだけれど、私は切原君と違って、先輩と仲が良いわけではないのだ。じゃあ一緒に聞きに行こうと腕を掴まれた時、以前の保健室で柳先輩に手当てをしてもらった時の緊張感が戻って来るようで、私の背筋をぴんとさせた。

「つうか不公平な話だよな」
「この宿題は私達の自業自得では」
「そうじゃなくてさあ、俺の言われた英文は8行あるわけ。でもお前7行しかないじゃん」
「それが何か」
「不公平」

切原君が教科書を開いて、自分の受け持った場所と私の場所を交互に叩いて見せる。そんな風に改めて示されずとも分かるけれど。切原君は自分の都合が良くなくなるとおかしな理屈をごねる時があるけれど、今がその時だった。

「大した差じゃないじゃん」

だいたい、切原君の騒いでいる私より多い1行なんて、取り上げてみれば、頭を抱えて訳すまでもないthank you for listening、つまりご静聴ありがとうございますと書いてあるだけで、量としての違いはこの1行があるかないか。不公平だと騒ぐレベルではない。私もすかさず反論すると、「マジかよ」と切原君はポケットに入れていたシャープペンで素早くノートにそれを書き込んでいた。元より切原君の字はうまくはないけど、手で支えられた安定しない教科書の上に乗った文字は、余計にくしゃくしゃと波打って、覗き込んだ私には読めない。

「そんな英文の訳も分からないのはちょっとまずいよ切原君。あと『ご静聴』の字、間違ってる」
「マジか」

『ご成長』って何だよ、何が成長したんだよ。とは口には出さなかったが、心の中でツッコミを入れた。そうこうしているうちに、貴重な昼休みは刻刻と過ぎていく。私と切原君はまだお昼ご飯も食べていなかったので、しようがないから一旦教室へ帰ろうかという話が上がりかけた時、「こんなところで何をしている」と、私と、そして何より切原君の心臓をわし掴むように驚かせるその声が降った。
振り返った先の真田先輩は、本を抱えて、不思議そうに私達を見ていた。別段怒られるようなことはしていないし、先輩が怒っている風でもないのだけれど、切原君がいつだって怒られているから、真田先輩にはすっかり怖い印象が染み付いて、思わず私は切原君の腕を掴んだ。

「えと、あの、私達は、柳先輩に用事がありまして、でもいなくて、もう帰ります」
「なに、蓮二はいないのか」

真田先輩はどうやら柳先輩に借りていいた本を返しに来たらしい。柳先輩の読む本は図書室の奥にひっそりと並ぶ、比較的に埃を被りやすい本でコアな人向けのそれだった。いつだったか、興味本位で柳先輩の読んでいたものを探して見たりしたことがあったけれど、絵なんてちっともないし、文字以外に載っているものといえばもっぱら図とかグラフという表現がぴったりと当てはまった。真田先輩も良くそんな本に手を出せるなと思う。きっと、面白かったぞ、とか感想が言い合えてしまうのだろう。
真田先輩は、私達の手にしていた教科書で、柳先輩を訪ねた理由を察したらしく、「自ら勉強を聞きに来るとは感心だな」と頷く。
まさか居眠りの罰だなんて口が裂けても言えない。

「しかし、蓮二がいないからと放っておくわけにもいかないだろう。俺で良ければ教えてやる」
「えっ…副部長が、ッスか…」
「…あー、その、申し訳ないですし…その、つかぬ事をお聞きしますが、真田先輩は英語が得意…、」
「無論だ」
「ですよね」

むしろ、苦手科目なんてありませんというオーラがもう全体から放たれている。きっと断ることはできないのだろうなと、早々に観念して切原君よりも先に教科書を開いて英文を見せると、切原君も後からしぶしぶそれを差し出した。
まずは自分で訳して見てから真田先輩の解説と修正、そんな感じで英訳は進んで、正直、真田先輩の解説はとても分かりやすかった。切原君は初めの自分で訳す段階で詰まりに詰まっていたし、同じ間違いを何度もしていたので、いつ真田先輩の喝が飛ぶだろうと隣で私は冷や冷やだったし、切原君も多分そうだったに違いない。普段はあんなに偉そうに私へ文句を垂れるのに、今はこんなにも背中が小さく見える。後から切原君から聞いた話じゃこの時ほど早く昼休みが終われば良いのにと思ったことはないとか。激しく同意。
そんな私に希望の光が差しかけたのはその数分後。

「おやおや、皆さんお揃いで」

現れたのは柳生先輩と丸井先輩だった。この2人に部活以外の接点なんてなさそうなのに、一緒にいることなんてあるんだなあと、特に深く考えることなく私はぼんやりそう思っていた。丸井先輩は私達の状況に「何か面白そうなことやってんのな」とニヤついた。当の本人たちは寿命が縮まりそうであるが、そんな丸井先輩の言葉はともかくとして、柳生先輩の顔を見てピンと来た私はすかさず教科書を柳生先輩の方へ持ち変える。

「同時に2人を見ていただくのは大変だと思うので、もし良ければ私の英語の宿題は柳生先輩に見て頂きたいです」
「あ、てめ、ずる!」
「赤也それはどういう意味だ」
「いや、その、深い意味はないッス!」
「切原君て結構頭悪いですよね」
「今更だろい」

ガムをぷっくり膨らまして、丸井先輩は苦笑した。しかし切原君は地雷を踏みかけたというか、もう踏んだにも関わらず、私が上手いこと逃げたのが気に食わないらしく、「真田副部長を労ってじゃあそろそろ俺も丸井先輩に教えてもらいます」なんて言い始めた。確かに切原君の英語力だと教える側を労って欲しくなるレベルだけれど、ここまで来たら真田先輩の性格的に、逆に引き下がれぬスイッチが入っているに違いない。それに丸井先輩はきっと首を縦には振らないだろう。

「つうわけで、丸井先輩」
「パス」
「丸井先輩の役立たず!」
「テメエ先輩に向かってなんだその口の聞き方は」
「ていうか丸井先輩英語出来なさそうだよ切原君」
「赤也はAppleって書けないけど俺はそれくらいは書けるし」
「いつの話ッスかそれ。書けなかったのは1年の時ですー今はAppleだけは書けますー」
「はい、嘘乙ー」
「嘘じゃありませんー」
何て低レベルな会話なんだ

馬鹿なんじゃねえのと思ったし、いや、前からか、とも思った。真田先輩が怒り出す前に柳生先輩と大人しく勉強しようとしていたら、不意に丸井先輩が振り返った。「言い忘れてたけど」

「それ柳生じゃねえよ」
「は」
「おいおい、言うたらあかんじゃろうが」
「いや自分は安全だって騙されてるが不憫だったから」
「は」

改めて柳生先輩に向き直ると、もう何度となく目撃をしてきた仁王先輩のウィッグを外すシーン。優しそうな柳生先輩の顔はいつの間にか消えて、現れた仁王先輩は相変わらずニヒルに笑って私を見下ろしていた。また、騙された……騙された!私は先輩がそれをきちんと外し切る前にむしり取って床に叩きつけた。

「もうあんた良い加減にしろ!」
「こらこらお前さん、ウィッグもバカにならん値段なんじゃぞ」
「近寄らないでください」
「まったく…なっかなか懐かんのう」
「お前がそうやってからかうからだろい」

それから真田先輩が仁王先輩にちょっとお説教をして、私はそれにざまあみろと思って、丸井先輩と切原君の喧嘩もいつの間にかおさまった。それでも切原君がやっぱりあの後改めて叱られて、丸井先輩はうまくかわしたみたいだけど、いつだって先輩たちの前では切原君は形無しだし、先輩たちの方が何枚も上手だ。しょぼんとする彼の横で、丸井先輩が「つうかどういう流れでこんな風になったわけ」と問うので居眠りを端折りながら元々は柳先輩に助けを求めに来たことを語ると、先輩はきょとんと目を丸くした。

「柳ならさっきからずっとあそこからこっち見てるけど」

差された先には確かに柳先輩の姿があって、ノートにさらさらと何かをメモっているではないか。きっと切原君と違って、それにはどんな場所で書かれようと綺麗で流れるような字が並んでいるのだろう。先輩はまるで気配を消すように物静かにそこにいて、私と目があうと、すっと自然に軽く手を上げた。先輩がノートを閉じる。相変わらず難しそうな本が抱えられて、図書室に行っていたらしいことがわかる。

「すまない。少々この状況が興味深かったのでしばらく観察していたのだが」

きっと、きっと、柳先輩のノートには綺麗で流れるような字で、私達のこの何の役に立つか分からないくだらないやり取りが、柳先輩によって細かく細かく分析されて、記されて、これがまた先輩を何枚も上手にする糧になるのだろうと思ったら、私は気が抜けてしまった。

「もうなんでも良いので私と切原君に英語、教えてください」
「さしずめ居眠りの罰と言ったところか」
「なぁッ、柳先輩しーっ!」
「何だと…?」

そのあと真田先輩にめちゃくちゃ怒られた。

柳先輩のあの顔はわざとである。



(睡夢の縁)



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