番外編01_毒杯と名付けよ


傘を忘れたことに気づいたのは、その日の放課後のことだった。ざばざばと、それはもう豪快に雨を降らす雨雲はどうにもすぐには退いてくれそうにないくらいに空を暗く覆い隠している。私はたまたま最後まで教室に残っていたという理由で、つい先ほど担任に半ば押し付けられるような形で、今度の学級会で使用する小冊子の作成を頼まれていた。30ページあると聞いていたから、それなりの厚さになることは予想されるし、そもそも印刷されたページの入ったダンボールを見れば、考るまでもなくそれがわかる。それらを綴じるには大きなホチキスが必要で、それが置いてある空き教室へとダンボールを抱えて歩きだす。窓に張り付く水滴を眺めながら、作業が終わる頃にでも止んでいてくれないだろうかと薄い望みを胸に、そっとため息をついた。この雨足ではまず無理だろうけれど。期待が冷たい空気に敗れて行くのを感じて、そんな時に私は彼に出くわした。

「お、

ぺこぺこの鞄を揺らして、丸井先輩は私に気づくと手を上げた。両手が塞がっている私は軽く頭だけ下げて、そそくさと彼の横を通り過ぎて行こうとする。何故こういう時に限って丸井先輩に出会ってしまうのだろう。私がさり気なく行ってしまおうとしたのが分かったのか、先輩がスッと横にずれて、私の進路を阻んだのだった。こうなってしまえば話さないわけにはいかない。踏み出した足を一歩引いて、あからさまに身構えると、彼は苦笑した。ああこの顔、悲しそうな、困ったような。彼がそういう顔をする時、私の心は、罪悪感の黒い水がが流れ込んでくるようにひやりと冷えて痛くなる。

「どこ行くんだよ。帰る感じじゃねえよな」
「…学級会の冊子を作りに、3階の教室に」
「ふうん、大変だな」

雨だから、きっと先輩はいつぞやの様に部活がなくなったのだろう。「俺手伝おうか」とても自然な調子で、別段気取った風もなく丸井先輩は私のダンボールに触れた。「け、っこうです、」ぴゃっと後ろに飛びのいた私に、丸井先輩は驚いた様で、私は早口に実はこれは罰則なのだと並べた。まるで言い訳の様だけれど、嘘は言っていない。担任に仕事を頼まれた私がそれに素直に頷くはずもなく、ごねた時に、担任が、切原君との揉め事の罰則だと、数週間も前のことを引き合いに出したのだった。

「だから私1人でやらないといけなくて、傘もないので雨が止むまでの時間つぶしに丁度良いって言うか」
「へえ傘ないんだ」
「いらんこと言いましたね私」
「お前からしたらそうかもな」

先輩はよく傘を忘れるなとでも言いたそうな顔をしていた。しかし、この間の不覚にも相合傘をして帰った日の事は、傘を忘れたのではなく、盗られたの間違いである。しかし、ああ、この流れだと、おせっかいな丸井先輩は、私を傘に入れてくれてしまうのだろう。強くなる一方の雨足に向かって舌打ちしてやりたくなった。
そのすぐ後に先輩が言った「しゃあねえな、傘入れてやるよ」にそうらきた、と私は肩を竦める。丸井先輩は分かりやすいのだ。いや少し違う、この人の優しさは、分かりやすい。
きゅうきゅうと、少し湿っぽくなった廊下を上履きでこすりながら、「多分かなり待たせますけど」と私は最後の抵抗。

「んなの携帯いじって待ってる」

結局、私の完敗だった。まあそれにしても傘を借りれることはありがたいのだけれど。先程傘を貸し出す生徒会に、皆が群がっていたのを見たので、きっともうそこにはまともな傘は残っていなさそうであったから。
携帯を打つマネをして私を送り出した先輩の姿を思い出しながら、小さな空き教室では紙を揃えてホチキスで留める作業が続いていた。ばちん、ばちん、と大袈裟な音をもう何回聞いただろう。1人とは言え、たった1クラス分の資料なので、先輩を脅した割に大して時間もかからずに片がついてしまって、私はしょうがなく昇降口へと向かうことにした。丸井先輩はそこで待っているといっていた。しかし出向いてみればそこに先輩の姿はなく、半開きの昇降口の扉からはひやりとした空気が流れ込んでいるだけである。
待っていると言っておきながら、一体どういうこと。怪訝に思ったのもつかの間、自分の靴箱には傘が引っかかっていたのに気づいた。それから、傘の隙間に挟まっていた紙には丸井先輩の下手な字が丸々と続いている。用事ができたから先に帰ることと、傘は使って良いと、そういう内容が書かれていた。

頭に、丸井先輩の寂しそうな顔がちらついて、途端に手紙が嘘くさく見えてしまった。私が彼を嫌がるから、きっと先輩は先に帰ったのだろうと。この雨の中を、自分を嫌う奴のために。どこまで馬鹿なのだろうと、貶した反面、先輩は一体どんな気持ちでこの手紙を書いたのか、そんな余計なことを考えたら、それを丸めて放り出してしまいたくなった。




私には丸井先輩の傘を使って帰る以外の選択肢は当然用意されていなかった。しようがないので、素直にそれに甘んじることにした私は、翌日である今日、傘を返すために丸井先輩の教室まで足を運んだわけで、以前も似たようなことがあったなあと、もはや苦笑しか零れない。
やはり他学年の教室に、他学年がやってくることと言うのは、それなりに違和感が出るもので、あの時宜しく他人の視線を背中に受け止めながらB組の教室を覗き込んだ。中に見える目立つものといえば、銀色の髪だけだ。探していた色は見えない。

「どうしたん」

のそり。仁王先輩の現れ方はそんな感じだった。朝は弱そうな人である。ゆるく丸まった背中でひょろっとしているくせに、いやに存在感があるその先輩に、私は肩をびくつかせて、とりあえず傘を突き出した。
以前の事があったからか、先輩はすぐに状況を察して、首の後ろを抑えながら気だるげにその名を口にする。「あー…ブン太は、」

「今日は来とらん」
「えっ」
「じゃから、まだおらん」

朝練もおらんかったからのう。
昨日の雨が嘘のように、すっかり快晴を見せた空は絶好の部活日和ですよ!と、そう言っている風に見えた。しかしそこに丸井先輩の姿はなかったのだと言う。話によれば、遅れて行くという連絡は入っているそうなので、出直すことはできるだろう。拍子抜けをした私は、曖昧に頷きながら傘を構えたまま後退して行く。妙な動きだと自覚していたが、それを止めたのは仁王先輩だ。眠そうな瞳が、一気に何かを見透かそうとするそれに成り代わって、私を緊張させた。

「…なんですか」
「別にお前さん達のこととやかく言うつもりはないが、あいつが悪い奴じゃないっちゅうことくらいは、分かっとるじゃろ」
「…」
「あんまり邪険にするとブン太が不憫ぜよ」
「突然何の話ですか」
「なんとなく、ブン太が来ないんはお前のせいのように思えたもんでのう。勘違いならすまんかったな」
「…」

そうは言いつつ、先輩の瞳は、勘違いだとは思っているようなそれではなかった。でも、今回丸井先輩が帰ったのは、先輩の意思で、私がそう言ったわけではない。言われのない難癖などつけられたくはない。
けれど、それ以上反論する気にもならずに、私はそそくさと3年の階を逃げ出すことにした。
まだ丸井先輩が来ていないと言うことは、昨日と同じ様に先輩の下駄箱に傘をかけておけば良いのだ。そうすればもう他学年の教室に行く必要はないし、仁王先輩に会うこともない。丸井先輩も来た時にすぐに気づくだろうと、ノートの切れ端を教室から持って来て、「ありがとうございました」と私はサッと鉛筆を走らせる。それを傘に挟もうとした時、ふと視界の端に赤い髪が見えたのだった。

「あ…丸井先輩」
「…か。おはよ」

先輩はマスクをつけて、たどたどしい足取りでやって来た。その姿を見れば、昨日の雨ですっかり風を引いたらしいことは誰でも想像がつく。私のせいだ。…いや、違う、先輩の自業自得なのだ。真っ先に、私は馬鹿ですかと小さくこぼして、けれどこんな時まで悪態しかつくことのできない自分をもどかしくも思う。
先輩の腕を掴むと「嘘つきですね」と傘を押し付けた。

「用事なんてなかったんでしょう」

先輩は苦しそうに笑うだけだった。そんな風にはぐらかされるのが、とってもとっても腹立たしくて、具合が悪そうでなければいっそ張り倒してやるところだ。
けれど私がそんな威勢の良いことを言っていられたのも、その時までであった。傘を体を支える代わりに使う先輩が、突然ふらりとよろけて、その場にしゃがみこんでしまったのである。

「え、…え?」
「…っ」
「ちょ、丸井先輩…っ?」
「…わり、ちょっと、めまいで、気持ち悪い」
「そんな、えと、ど…うすれば、…」

丸井先輩を担ぐ力なんて、私にあるはずもなく、けれど誰かを呼ぶために、先輩をここに置いて行くこともできない。どうしようもなくなって、先輩の腕を自分の肩に回して、「先輩がんばって、立って」と先輩の背を叩いた。この状況で、先輩が嫌いだのうざいだの、言っている場合ではないことぐらい、流石の私でもわかる。彼は荒い呼吸のまま、壁に手を這わせてなんとか立ち上がる。保健室に連れて行かなければならない。支えの私ですらあまりにも足取りが不安定なので、びくつきながらゆっくりと保健室へと足を進めていると、隣で丸井先輩が小さく笑ったのが分かった。それから回していた丸井先輩の手が、私の頭に伸びて、ぐしゃりと頭を撫でる。

「…な、丸井先輩、」
「…心配すんなよ、らしくねえな」

その表情に、胸が締め付けられた。どうしてこんな私にそんな風に優しく笑うの?そんなことを問う勇気など、私にはないけれど。そうして途中で通りかかった先生の助けも借りて、私はようやく丸井先輩を保健室へと運びこんだ。そこでは、体温計で38度を叩き出しておきながら学校にやってきて、倒れそうになって、保健の先生にあれやこれやと介抱される丸井先輩のことを私はじっと睨むように見つめることしかできなかった。口を開けば、彼を傷つけることしかできないと思った。先輩はと言えば、こんな風に保健室の天井を見上げたのはいつぶりだっけなあなんて、おどけるだけで、まるで緊張感がない。本来なら、ここで、傘を借りた私が謝るべきなのだろう。私のせいで風邪をひかせてしまってごめんなさいと。それがたとえ、丸井先輩の自業自得であってもだ。それでも、たった一言がでないまま、私はうつむいた。
先輩の手が私へ伸びる。

「誤解してるかもしんねえから言うけど、用事のことは、嘘じゃねえから」
「…へ」
「上の弟がさ、傘ねえっていうから、迎えに行ったんだよ」

丸井先輩の話によれば、下の弟の方はお母さんが迎えに行くことになっていたから、もう片方を丸井先輩に頼みたいと連絡があったそうだ。だから丸井先輩は、一度家に帰ってから改めて傘を持って弟の小学校まで迎えに行ったのだという。
そんなもの、私に傘を貸さずに、学校から自分の傘で迎えに行けば済む話ではないか。この人はどこまでお人好しだというのだろう。「…本当に馬鹿ですよ貴方は」うつむいたまま、そんな風にこぼす。「…そんなことねえよ」丸井先輩が言った。

「…ただ俺にとっちゃ、だって、雨に濡れて欲しくない大事な人なんだよ」

そっと目を閉じて、そう言った丸井先輩に、私はぎゅうと胸が苦しくなる。ポケットの中ですっかり役割を失った走り書きの礼の紙を、私はぐしゃりと握りつぶした。


この人の優しさに、温かさに、私は絆されてしまう。
彼の言葉はいつだって私には、毒だ。



(毒杯と名付けよ)



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( W企画リクエスト ありがとうございました // 141207 )