鳩原未来の失踪時の話
ボーダー本部の屋上の扉を開くと、湿った空気が私の頬を撫でていった。数日振り続けていた雨は今ではすっかり上がり、灰色の雲の切れ間から皮肉なくらいまぶしい夕焼けが覗いている。 鳩原先輩がゲートの向こうへ姿を晦ました。 ボーダー以外の人間にトリガーを横流しをして、そいつらと一緒に近界に行ったらしい。追っ手に私達風間隊が動員されたけれど足取りは掴めないまま数日が過ぎ、二宮隊が鳩原先輩の責任を取ってB級へ降格となった。そうして結局、この件は上層部と一部のA級だけに伝わる話として幕を閉じることとなる。 そっと息を吐く。胸に引っかかりを覚えたまま吐き出したため息は、気持ちをちっとも軽くしてはくれない。屋上へ顔を出した私はそこに先客がいることに気づいた。咄嗟に開きかけた扉を押す手を止める。 黒いスーツに金色の髪。今、あまり会いたくない人。犬飼先輩だ。彼は飛行機が好きだとか言って、よく空を見るために屋上にいた(もちろん三門市に飛行機は飛ばない)けれど、今回ばかりはそのことを失念していた。 彼は、足を投げ出してぼんやり空を眺めているようだ。もともと、犬飼先輩とはあまり話す方ではなかったけれど、この数日は余計そうだったように思う。顔を合わせるべきではないと考えた私は、中へ引き返そうとしたときだった。 「戻るの?」 ぎ、とノブを掴んでいた手が止まった。こちらへ振り返った犬飼先輩が笑う。 いつも通りだ。思っていたより、ずっと、いつも通りの、犬飼先輩。 「話そうよ」 唇をきゅ、と結ぶ。目が合ってしまった手前、無視することも出来ず、無言で屋上へ足を踏み入れると、先輩の方へと歩き出した。少しだけ距離を開けて、足を外へ放り出している犬飼先輩の隣に腰を下ろす。「よく気づきましたね」と肩をすくめて燃えるように赤く光る夕陽へ目をやると、先輩が隣で笑ったのが分かった。 「これくらいの気配読めて当然じゃない?」 「……いつもそうやって気を張ってるんですか」 「まさか」 気を抜いていたって分かるとでも言うようだった。 うそ。犬飼先輩は隙がない。気を抜いたところなんて、少なくとも私は見たことがなかった。本当の部分が見える気がしなくて、彼は気を抜いているときなんてないんじゃないかって、私は思っている。そんなことを言ったところで、はぐらかされるだけだろうから、言わないけれど。 そのまま赤く染まる三門市をぼんやり眺めていると、少しだけ空いた距離を埋めるように、犬飼先輩がこちらへ寄った。 「……何で寄るんですか」 「だってこの距離感なんか寂しいじゃん」 「近いです」 「あはは、その顔カゲにそっくりだ」 「私はあそこまで目は鋭くないですけど」 「いや、似てるよ二人は」 力技なところとか、俺のことが嫌いなとこなんて特にね。彼はそう言って空を仰いだ。つられて私も顔を上げる。夕焼けと夕闇色が混ざり合った空だ。胸の奥に沈んでいた不安がかき乱されるような気配。ああ、夜が来る。 「……何で皆離れてっちゃうかねー」 何気なく呟かれた先輩の言葉に、鳩原先輩の顔が浮かんだ。きっと今回のことはずっと前から計画されていたことに違いない。ゲートが発生するなり、反応はその先にすぐに消えたそうだから、そこにゲートができることを、初めから予測していたのだろう。 それにしたって、彼女はどうして一人で行ってしまったんだろう。確かに、誰かに相談できることではないにしたって、代わりに一般人を何人連れて行ったところでどうにかなるはずがないのに。大好きな隊の皆や弟子を置いてまで、そんな無謀なことをする価値ってどこにあるの、先輩。 ……止めるべきだった。理由を問いたださなければいけなかった、だけど、 「……すいませんでした」 「何が?」 「鳩原先輩のこと……」 「――何でが謝るの?」 「私達がもう少し早く到着してたら、鳩原先輩が見つかったかもしれないし、それに、……」 ボーダーの中でこの秘密を知っているのは、一部のA級だけだ。鳩原先輩を慕っていたユズルはこのことを知らない。彼は、二宮隊が鳩原先輩を追い出したと信じていて、もっと言えば、事実を知らない人間の間では面白半分とばかりに根も葉もない噂が立っている。ユズルはきっと二宮隊を許さないだろう。だけれど、どんな噂話にも私達は押し黙って、それを静かに心の中で否定し続けるだけ。 本当のことを知っているのに、ユズルも犬飼先輩も守ってあげられない。 「……何やってんだか」 犬飼先輩がふいに口を開いた。私へ伸ばされた手が、少し強めに私の頭を撫でる。今度はちっとも犬飼先輩らしくない。まるで私を嗜めるみたいに、それでいて大きな優しさで慰めるような、こんなの、犬飼先輩らしくない。かけられた力のまま私の視線は皺が寄ったスカートへ落ちる。 私が慰められて、……どうするんだって。 「何での方が辛そうにしてるの」 「すいません、そんなつもりじゃなくて……わたし、」 「っていつもそうだよね」 「……」 「俺の分とか絵馬くんの分とか、三輪の分とか、他の人の辛いものを背負おうとしてるっていうかさ。良い迷惑なんじゃないかなあ」 どきりとして、裾を小さく握りしめた。微かに上げた視線の先の犬飼先輩の瞳が、私を捉えている。そんなことはないと、言い返すことはできなかった。当事者でないと分かり得ない辛さを勝手に背負って勝手に悲しむような、そんなおこがましいことをしているつもりはないなんて。心あたりは、たぶんあったのだと思う。 「世間ではそういうの、優しい人って言うんだろうけど、実際はそれとは違うでしょ」 「……分かってます」 「って、もっとずるいしわがままだし、欲しいものは絶対手に入れたがるし、横からちょっかい出そうものなら噛みつくし、どうしたって良い人じゃない」 そうだ。どうしたって、私は善人ではない。そんな優しさを持っているとしたら、嵐山先輩とか、そういう人こそで、私はもっとありふれた人間だ。 「勘違いしてほしくないんだけど、俺はそういうのこと大好きだよ」 「……嬉しくないです」 「はは、言うと思った。まあ、これは俺のものだからが背負わなくて良いよってことだよ」 誰かの痛みを自分の痛みにしなくて良いよ。自分達で消化して乗り越えていける、そう続けて犬飼先輩が私の顔を覗き込んだ。分かってる。私の大事な人達は、皆苦しさに挫けてしまうような、そんな弱い人じゃないことも、たとえ挫けたとしても、助けを求めたり信頼できる人がそばにいるってことも。 知ってますと小さく呟くと、どういうわけか口元を緩めた犬飼先輩が、勝手に私の肩に寄りかかった。 「……ちょっと、何笑ってるんですか」 「のこういううじうじしてる顔ってレアだよね」 「……ていうか寄りかからないでください」 「そのお願いは聞けないかなー」 「……」 「自分の『荷物』は自分で責任持つよ。だから、これからも寄っかからせて欲しいんだけどねー」 容赦なく右側から体重を掛けられて、私はわざと、む、と眉を顰めて見せた。「重いんですけどっ」「トリオン体の癖に非力のふりしないでよ」なんて。そうでもしないと、先輩の優しさに、泣いてしまう気がした。悔しいけど、苦手だけど、この人は私よりずっとずっと大人だ。 悪態をついても先輩は寄っ掛かることをやめないので、私は彼を引き離すことは諦めて、少しだけ傾いた身体のまま、小さな声でありがとうございますと零した。本当に、本当に小さな声だ。うん、と犬飼先輩が頷いた。 「あのさ」 「……何ですか」 「俺はは自分が他人より欠けてるところが多いこと、知ってるよ」 何かを捕まえるように、先輩の手が空へ伸びた。空を彷徨う。 「探してるんだろ。でも見つからなくて焦ってる。だから人の無くし物を自分の欠けたとこにはめて凌いでるんだ」 その通りだった。このわだかまりは風間さんだけに捧げたものだったはずなのに、犬飼先輩に見抜かれてしまった。 私の命の原動力。私はずっとそれを探している。「全てを失った日」の記憶だ。それが見つかるまでは、きっと私は死んだままのはずで、ついこの間までは、たぶん、そうだった。だけれど、今は風間さんから貰った理由で私は何とか生きている。 「歪な人間は嫌いじゃないんだ、俺も似たようなものだからさ」 「……私は、犬飼先輩のこと好きじゃない」 「知ってるよ」 「見つからない飛行機をいつまでも探しているのも、好きじゃないです」 「うん」 私達はとても似ている。 歪で、欠けてばかりで、自分を持て余している。きっと先輩は、鳩原先輩がいなくなったためにまた一つ、大切な何かが欠けて、不恰好な姿になった。 「でも俺はやっぱり探すよ。一ノ瀬もだろ」 ああ、きっとそう。人の痛みを横取りしていたくらいだ。心が求めてる。欠けたところを埋めて欲しいんだって。だからきっと私は、いや、私も、欠けたものを探し続けるのだろう。 「見えないなあ、――飛行機」 犬飼先輩が呟いた。 三門市には、今日も警報が鳴り響いている。 終 ( 161022 ) |