重ならない背中の話
微かな騒めきをとらえて、菊地原は音のする方へ顔を上げた。視線の先は警戒区域だった。薄い水色の空に、黒い点がぽつりぽつりと現れたのを確認する。 午前の防衛任務に出ている部隊はどこだっただろうと思考を巡らせながら、菊地原は外に設置された自販機の隣のベンチに腰を下ろした。この時間の体育の授業が終われば、早退して午後からは風間隊が防衛任務になる。 「授業、サボる気か」と、不意に横から歌川の声がした。校庭にも出ずに、校舎に隠れるように渡り廊下の隅で動く気配もなければそう言われるのも仕方がない。 菊地原は緩慢な動きで彼を見やって、「先生はいないし、自習なんだから、別にいいでしょ」と答える。どうせ体育の自習なら、外ではなく教室にしてくれればと思ったけれど、それでも素直に屋外にいるだけマシだろう。 それに注意をするなら、彼らにもすべきではないか、と菊地原はジャージの袖にすっぽり隠れた指で、先程からずっと雑談を繰り広げている同じクラスの男女数名をさした。授業開始まであと十分弱ほどあるが、菊地原同様に、校庭に戻る気はさらさらなさそうだ。 歌川はまた渋い顔をした。 彼らの話は教師や友人の悪口に始まり、品のない笑い声が冬の乾いた空気を震わせていた。けれどしばらくすると、それもボーダーの話へ変わり始める。数日前に、第二次大規模侵攻があったからか、最近の生徒の話題といえば、そのときのことばかりが上がっていた。 「怖いくらいに、いつも通りだよな」 菊地原が騒ぐクラスメイト達をぼんやり眺めていると、ふと歌川が口を開いた。 確かにそうだなと菊地原は頷く。ついこの前に、街にはトリオン兵が溢れかえり、住人は逃げ惑い、隊員が何人も攫われたとは思えぬほど、自分達はとてもありふれた日常に戻された。 「呑気なもんだよ」 自分に言ったのか、目の前のクラスメイトに言ったのか、それとももっと大きな別のものに言ったのか、菊地原がぽつりと零す。それと同時に、ずっと雑談を続けていたクラスメイト達がくるりとこちらへ振り返る。まさか今の台詞は聞こえていないはずだろうけれど、歌川がどきりと身体を震わせたのがわかった。 「そういえば、菊地原と歌川もボーダーだっけ」 「つうか昨日調べて知ったけど、A級らしい」 「まじかよ。うらやまし! 嵐山隊とか、そういうのと同じってこと?」 「多分そう」 振り返った二人の口が交互に動く。それを菊地原の耳だけが拾った。続けて、おーい、と菊地原と歌川の名前が呼ばれる。今度は二人を呼ぶ意志を持った声量で。嵐山さんのサインでも強請られるのだろうか。下らない。そう菊地原は動かなかった。歌川がそれを窘めて、ぎこちなく手を振り返す。それでも構わず菊地原が動くのが億劫だとあからさまな空気を出すと、一人がつまらなそうな顔をしてみせあ。それから、トリガーオン! と嘲笑するような調子で言って、忽ち周りがくすくすと笑い出した。酷く不愉快だ。 「あの二人を見てると意外と俺もA級になれるんじゃねって気がしてくるよ」 「はー無理無理、お前じゃ無理だって」 「いや、俺の友達もこの間ボーダーに入ったらしいし、案外イケる気がする」 げらげらと品のない笑い。 A級に上り詰める苦労が、ぬくぬくと平和に暮らすお前達に分かるものか、と思わず口をついて出そうになる。菊地原は自分が苛立つのを感じていたけれど、戦いの外側に生きる人間にはきっと何を言っても伝わらないのだろうという諦めもあった。ムキになっても疲れる。無駄なことはしない。 聞こえすぎるのも厄介だ、と菊地原はこういうときに身にしみて感じる。自分が捻くれてしまったのは、良いことも悪いことも聞こえすぎたからだと思っていた。 ひゅんと冷たい風が頬に吹き付けて、菊地原は首を小さくすぼめると、立ち上がった。 「歌川、行くよ」 ここにいると気分が悪い。まだ自習をしていた方がいいだろう。しかし、歌川を引き連れて、校庭の方に歩き出そうとする菊地原を引き留めるように、よく知った名が出たのを耳が拾ってしまった。 「そういえば、ボーダーに入った友達から聞いた話なんだけど」 「なに?」 「っていうA級隊員、知ってる?」 「誰、それ」 「ボーダーの中じゃコネで入ったっていう有名な隊員だよ」 の噂話は多いが、その話は初めて聞いたものだった。 「私その人の名前、ボーダーのサイトで見たことあるけど、コネなんてことある?」 「友達が言ってたんだよ。変なとこがありすぎるって」 根も葉もない噂話は続く。菊地原はぴたっと足を止めて、その話をじっと聞いていた。歌川は彼が立ち止まった理由がわからず、怪訝そうな顔をしていたが、すぐにクラスメイトの話に耳をそばだてているのだと察したらしい。彼とクラスメイト達を交互に見やって、黙っていた。 「大して強くもないのにA級に居座ってんの。昔は自分の隊の隊長によく掴みかかって問題ばっかり起こしたり、基地で暴れて施設を壊したりしてたとかって聞いた」 「え、それってやばくない? 弁償とかしたの?」 「知らね。コネで入るくらいだから金があるんじゃねえの。ついでにさ、そいつのよくつるんでる影浦って奴もかなりやばい人みたいで、それは偉い人殴ってB級に降格したみたいでよう」 「こっわー」 こう言う類の話はボーダーの中でもよく耳にする。入りたての戦いのセンスがカケラも感じられないC級達の間で広まる話だ。本当に弱い奴等ほどボーダーに入れたと言うだけでA級やB級にでもなったように、事情通にでもなったような口をきき、自分の実力を錯覚する。 菊地原も、C級の頃は影浦の噂話をよく耳にしていた。そこへ、今ではが加わっている。それを耳にする度にその噂は間違いだとか、良くないと注意するA級やB級はおれど、彼らの良からぬ噂話自体、事実を語っているものもあるので、当の本人達は何を言われても大して気にしている様子はなかった。それがどんなに誇張された、ふざけた内容であってもだ。 「ただは、上位にいるためのレート稼ぎをちっともしてないのにランクは落ちないし、それどころかいつの間にかレートポイントが上がってんの」 「ふうん、つうかレートってなに?」 「ボーダーって隊員同士でバトってレート稼ぎするんだってよ。強さポイントってやつ? はそれをやんない」 ランク戦の話だろう、と菊地原は思う。 は確かに他の隊員と違いソロポイントが高くなかったり、ペナルティーを食らって減らされることがあったけれど、ポイントを稼げる場所はランク戦だけではない。A級の上位組は、C級やB級に知らされないような、極秘の任務を請け負うことが多い。そこで任務をこなせば報酬やポイントは稼ぐことができる。とりわけ風間隊は、チームの特性から隠密任務ばかりが回ってくるので知らぬ間にのポイントが上がっていてもおかしな話ではないのだ。 そこで話を聞いていた女子が、怪訝そうな顔をした。「何で戦わないんだろう」と首を捻る。 確かにそう思われても仕方のない。がソロランク戦をしないことを疑問に思う人間は、ボーダーにもいる。大した理由ではないけれど。 「馬鹿だな、弱いからに決まってんだろ。負けるとポイントが減るから試合すんのビビってんだよ」 よく話す方が、呆れたような声をあげた。 そんな馬鹿な、と菊地原はつい笑ってしまった。あの人は自分の強さや弱さを気にして戦いを避けるような人間ではない。が考えているのは常に破壊だ。どう壊すのが一番気分が良いか。 確かにソロランク戦は彼女なりの考えがあってあまり試合を挑んでいるところは見かけない。しかし彼女はボーダーの中でも指折りの戦闘好きであることは間違いがなかった。 「なら、その人、何のためにボーダーに入ったんだろう。ネイバーに復讐目的か、単に戦うのが好きなら、そうはならないだろうに」 もっともな問いだ。しかし「さあ、知らね」と気の無い声が返った。噂話にはあれこれ思考を巡らす脳はあっても話の本質には興味がないらしい。 乾いた風に砂埃が舞って、菊地原は目をつぶった。まぶたの裏に、の姿がちらつく。 何故がボーダーにいるのか。 聞いたことはある。そのときは「力が欲しいから」と彼女は答えた。しかしきっとそれ以外に理由があるのだろうと、直感的に菊地原は感じていた。だから、明確な理由は、彼でも知らない。 そもそも、ボーダーに入る人間に、その理由を問うのは多くの場合間違いである。 「ちやほやされたかったんじゃねえの」 「ふうん」 「あ、ちなみに顔は結構可愛いって」 「ならお金のコネじゃなくて、案外そっちで媚び売ってたりしてな」 「そう! 俺もそれ思ったわけ!」 再び耳障りな笑い声がしたとき、気づけば、菊地原は方向転換して歩き出していた。懲りない奴らだと、まっすぐに、彼らに向かって。「おい、どこに行くんだ」と歌川の声。 冷たい空気を肺に取り込む。胸の奥が、ぐらぐらと沸騰するように揺れていた。冷えた空気が、瞬く間に熱く吐き出される。冷静なつもりだったけれど、実際はそうではないみたいだ。 ねえ、あんたはどうしてボーダーにいるんだよ。 菊地原は心の中でに問う。 「なんだよボーダーも大したことねえなあ」 「要は偉い人を口説き落とせれば良いって話だろ。菊地原達経由でコネが作れたら俺もボーダーの仲間入りしちゃったりして。どうしよ、嵐山隊とかに入ったら、」 うるさいんだよ。 続く言葉は、ぐえ、と蛙の鳴くような声で途絶えた。菊地原の腕は訳知り顔でべらべらと戯言を垂れ流していた男子の胸ぐらを掴んでいた。周りのクラスメイトは、話を聞かれていたことに驚いたのか、はたまたまさか普段はしんと静かに過ごしている大人しい菊地原が怒りを露わにしている光景が信じられないのか、ぽかんと口を開けて菊地原を見つめていた。 状況の掴めていない歌川だけが、菊地原の腕を捕まえてそれを制止している。 何故、は平然としていられるのか。 「きくち、はら、」 「が殺意を持って今ここにいるとしたら、お前はこの瞬間に三回は殺されてる」 「は……」 「守ってもらう分際で余計な噂話しないほうが良いんじゃないの。『盾』の反感を買うと誰にも助けてもらえなくなるんじゃない?」 菊地原が挑発的に笑う。胸ぐらを掴まれている男子は、体裁が悪そうに顔をしかめてから、口を開いた。 「そ、そんなこと言って良いのかよ! ボーダーのくせに!」 「知らない。良いんじゃないの?」 菊地原の左手は、ジャージのポケットの中のトリガーに触れていた。使うつもりは毛頭ない。しかし歌川は、菊地原の左手に気づいて、やめろと声を上げた。それに弾かれたように、呆けていた男子が、そうだ、離せよと菊地原に掴みかかろうとする。 そのときだった。 「何、喧嘩? 俺も混ぜてよ」 振り返ると、そこには犬飼澄晴と、荒船哲次の姿があった。いつから見ていたのか、随分と訳知り顔に見える。特に犬飼は飄々として、薄く笑っていた。嘲笑されているような気分だった。 彼らは元々は自動販売機に用があったのか、だらだらと財布を片手に持ち歩いていた。 後ろの方にいた男子が「うわ、三年生だ」と呟いた。「それよりこの人達もボーダーだよ」と女子が続く。菊地原は殴り合いの喧嘩をするつもりもないし、これ以上言いたいことがあるわけでもなかったので、服を掴んでいた手を静かに離した。 「せいぜいネイバーに食い殺されて墓場で後悔しないようにするんだね」 言い返す言葉を思いつかなかったのか、彼らは気まずそうに顔を見合わせてから逃げるようにいなくなった。その背中がすっかり見えなくなっても犬飼が食えない笑顔のまま、菊地原を見ていた。 「そんな言い方してると友達なくすんじゃない?」 「あんなのとつるむくらいなら一人の方がマシ」 「確かにねえ」 がこん、と自販機から重たい音がする。犬飼は取り出し口から葡萄のジュースを拾い上げながらそう答えた。さらに「ああいう奴は構うだけ損だぞ」と荒船が続ける。 模範解答のような警告はうんざりだった。そんなことはよくわかっている。けれどわかった上で口を閉ざすのと、それを甘んじで受け入れることはわけが違う。菊地原は、その区別のつかない阿呆の顔を頭の片隅に思い浮かべながら、僅かに首を振った。 ボーダーは救いの組織だ。いつ何時も市民のために戦わなくてはならない。市民との揉めごとになれば、ボーダーの立場が悪くなるし、もっと言えば名指しで注意を受ける可能性もある。けれど、菊地原は今回ばかりは言い返さなければいけないような気がしていた。あの人のために怒ったわけではない。もっと、自分の自尊心に近いところにあるもののために。 「『が殺意を持って今ここにいるとしたら、お前はこの瞬間に三回は殺されてる』」 不意に犬飼が、缶を手の中でくるりと回転させながら、菊地原の言葉を繰り返した。「的確だ」と。 「をよく見てるし、菊地原はちゃんとあの子を強いって認めてるんだね」 「……さあね。ただ、あの人は馬鹿力だけが取り柄だから」 菊地原は視線を犬飼から外して答えた。よく見ているとか、強さを認めるとか、そんなことは分からない。考えたこともなかった。ただ、自分の中での事実を口にしただけだ。 「授業、始まりますよ」と流れを断ち切るように、菊地原が言った。犬飼は荒船が手にしていたスマートフォンを覗き込んで、そっちこそという顔をする。 「あいにく僕らは自習なんですよ」 ちょうど、予鈴の音がした。 柔らかい霧雨が降り注いでいる。 大鎌もろとも押し切って地面に叩き伏せたを、菊地原は見下ろしていた。 今日ばかりは、任務が終わったらさっさと帰ろうと思っていたのに、なんで混成部隊でのランク戦なんてやっているんだろう。しかも寄りにもよって、と。昼間のことが思いだされるから、彼女の顔なんて、見たくなかったのに。 の胸からはトリオンが漏れ出していた。菊地原を見上げる彼女の口元は薄く笑っている。彼の頭もまた、ハウンドで貫かれていた。してやられたと思いながらも、菊地原の中には自分の正しさが証明されたような清々しさがあって、それと同時に目の前のに対するもどかしさが沸いた。 「僕はあんたの実力を見誤るバカとは違う」 トリオン体のくせに、胸に熱い何かが迫り上げてくるように思えて、それを吐き出すように菊地原は言った。 が目を丸くする。一体何の話だと、そんな表情だ。鎌を持てばあんなに獣のように鋭く瞳を光らせるのに、誰よりも好戦的であるのに、何故甘んじて自分の不遇を受け入れるのか、どうでも良いような顔をするのか理解ができなかった。評価をしてもらいたいわけではない、見て目てもらいたいわけでもない。ただありのままの事実として存在すればいいだけなのに、自分よりも弱い人間に馬鹿にされて悔しくはないのだろうか。 ぱきり、と菊地原の視界にヒビが入る。その直前に、自分の目下から緑光の柱が飛び上がった。一足先にが緊急脱出したらしい。 「……あんたはちゃんと強いだろ」 呟きは誰にも届かぬまま、菊地原の目の前が白んだ。 ランク戦のブースから出ると、モニターの前には人だかりができていた。その中に風間や太刀川の姿もあって、は、風間からグラスホッパーの上達を褒められたことに満足しているようだった。 また機会があったら混成部隊でランク戦をする約束をして、ランク戦ブースに残る者や、隊室に帰る者と散り散りになる。は隊室に帰るようで、ランク戦室から出ていく背中を菊地原は一瞥した。することもないので、自分もその後を追おうとする。ふと風間と視線が合うと、彼はやわらかく笑ってみせた。まるで、良い気分転換になったか、とそう言われているようだった。 風間は菊地原の事情など、心の内など知る由も無い。けれど、全て見透かされているような気がして、菊地原は足元へ目を落とす。 改めてと刃を交えてみて、確かに菊地原の胸には清々しさがあった。しかし、何故か同時にそこにはちりちりと痛みが伴っている。何が引っかかっているのだろう。 菊地原は、聞こえなくなりかけているの足音の方へ顔を上げると、やおら歩き出した。 「ねえ」 トリガーを弄びながら隊室までの廊下を歩いていたが、菊地原の声に振り返った。 「はどうしてボーダーにいるの」 彼女の目が、きょとんと丸くなる。手の中のトリガーと、菊地原を交互に見る。菊地原は、今更何故そんなことを問うたのか、自分でも分からなかった。ただ、彼女が二年前の姿と重なることを心のどこかで望んでいた。 の口元に、弧が描かれる。 「今は、風間さんがそう望むから」 分かり切った答えだ。胸の痛みは消えない。 菊地原は、小さく笑う。自嘲にも似た笑みだ。 は何かが欠けている。きっと家族を失ったからだろうと誰もが言う。確かにそうだ。しかし違う。家族を失った隊員達とは明らかに違う。彼女の欠けている部分にはまさしく何もない。三輪のように憎しみがない、迅のように思い出が埋めているわけでもない。 まるですっぽりと穴が開いているみたいに、空洞だ。悲しみも、憎しみも、慰めの思い出も、代わるものは何もなかった。 そこへ代わるものを風間蒼也がに与えた。だから、今では風間はの生きる意味だ。それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。 「何でそんなこと聞くの?」 「別に。理由なんてないよ」 は強い。だけれど、同じくらい弱さを持っていて、菊地原はそれを目の当たりにしている。だからこそ、自分の意思で生きろなんて、言えるはずがなかった。 終 ( 171119 ) |