私は完成した絵に執着することはない。だから「終わった」絵に関しては何か感想を持つことなどないし、思い出として頭にとどめておくこともない。しかし昼休みに聞いた、幸村君の切なくなるというあの言葉がどうにも私の頭を離れずにいた。 普段なら自分の過去の絵を見返すなどということはまずあり得ない私は、珍しく絵を捨てる目的以外でこのゴミ捨て場に足を運んだ。 相変わらず埃くさい、濁った空気のその場所は窓から夕日が差し込んで薄暗い部屋を朱色に染め上げている。思わず眩しさに目を細めた私は、その中で夕陽色に溶け込む先客を見た。私はこの風景を、以前にも見た覚えがあった。 ![]() 「丸井君」 私はしゃがみ込んでいる彼の背中にそう声をかけると、彼は身体をビクつかせてから、おずおずとした様子でこちらを振り返った。また部活中に真田君の目でも盗んでやって来たのだろう。なんだかバツの悪そうな面持ちの丸井君の視線が、しばらく自分の足元を彷徨ってから、私へ、たどり着く。 「何してるの」 「あー…えーと」 彼はゆるゆると立ち上がった。頭をかきながらなんて言うか、と言葉を濁している。うん、何。彼の次の言葉を促すと「お前の絵を見に、な」予想外の答えが返された。丸井君は美術に興味がある人間であっただろうか。首を傾げてそう問うた。 「幸村君に負けた気がしたんだよ」 「負けた?何が」 意味が分からなかった。何が負けているというのだろう。友達として、だろうか。丸井君は幸村君とは違って私のクラスメイトであるし、幸村君に至っては今日初めて私の顔と名前を一致させたのだ。友達レベルに関しては丸井君の方がいくらも上であるが。しかしチラチラと後ろの埃をかぶった絵を気にしている丸井君は、腑に落ちないような顔をしている。なんなのだろう。 「心配せずともこの場所に絵を捨ててるのを知ってるのは君だけだよ」 「…そのことなんだけどさ、何で絵を捨てるわけ?」 「何で今更そんなこと気にするの」 「質問を質問で返すなよ」 じと、という視線が私を捉えた。別に誰に知られたくない内容ではなかったが、何故だか彼には言うのがためらわれる。しかし彼は目で私の答えを急かすので、彼がしゃがんだ隣に、私も腰を下ろした。目線の先は、立てかけられたオンボロキャンバス達だった。 「丸井君はどう見える」 私が唐突にそう問うたので、丸井君は「は?」とこちらを見た。「この絵を見て、どう思う?」寂しいと、切ないと思うか。私は幸村君のそれを思い出しながらそう彼に言った。丸井君はまっすぐ絵を見つめたまま、何も言わなかった。 「私、前に完成した絵には興味が無いって言ったでしょ」 「…ああ、」 「私の絵は完成した途端、違うものに見えてしまうんだよ」 私がこんな風に絵を捨てるようになる前。その時は私はもっと絵が下手で、ひたすらに誰かに評価されることだけに執着していた。しかし、ある時ついにそんな自分に疲れてしまったのである。それからはカッコつけの技法だの、流行りの絵だの、どうでも良くなって、風景を、見たままを切り取るようになった。しかしそれは完成した途端、前までとは違って、急に色あせて見えた。 「『ああ、私の見ている世界はこんなんじゃない』色褪せた私の絵は、とてもつまらなく見えたよ」 それからだ。ここに偽物の風景を捨てに来るようになったのは。自分の膝に顎を乗せて積もった埃を指でなぞる。自分の瞳が映した世界が、手の中で描いた世界が、こんなに埃を被っていると、少々情けなくはなる。そう自虐的に笑う私の額を突然丸井君が指でついた。 「確かに、の絵には心が入ってないよな」 瞬間的に全てを見透かされたような気になって、私はハッと息を飲んだ。射抜くような彼の視線からはどうにも逃げられそうにない。彼はそのまま、自分の弟の話を始めた。どうやら彼には二人の年の離れた弟がいるらしく、彼らもよく絵を描くそうだが、その絵と私の絵はまったく違うのだと。 「俺の弟、お前よりかなり絵は下手だぜ。たまに何描いてるのかわかんねえ時もある。でもさ、世界は、あいつらにはこんな風に見えてんだなあって、」 少なくともお前の絵より何倍も楽しそうに見える。 彼の言葉に悪意など感じなかった。だからこそ、私はその言葉に傷ついた。それは純粋な感想なのだと。自分の絵がどんな評価を下されようと、今まで気にもならなかったのに一体どうしてしまったというのか。私は掠れた声で「そう、」と頷くと、丸井君は乱暴な手つきで、私の頭を押さえつけるように撫でた。「それでも、俺は今飾ってあるお前の絵、好きだぜ」彼も幸村君が言っていた、あの赤い点が描かれた絵の事を、話題に上げた。 「…それでさ、あの真ん中の赤いの、まさか俺じゃねえよな」 「丸井君だよ」 正しくは丸井君の頭だけれど。それを聞くと、彼はあからさまに顔を顰めて「もっとかっこよく描けよ」と口を尖らせた。もっとかっこよく頭を描けということだろうか。そんな無茶な。 確かにあの絵は自分でもヘンテコだと思う。あんな中途半端で意味不明な絵は初めて描いたかもしれない。 「でもね、丸井君」 「ん?」 「あの絵はさっき丸井君が言ったように、私が見ている本当の世界なのかもしれない」 今の話を聞いて感じたのだ。あの絵だけは、私も、色あせた絵には思えなかった。あれこそが私の世界を切り取った絵なのだと。夕日の眩しい窓の外のグラウンドへと目をやって、顔の前にかざす指の隙間から零れる光を受け止める。 「皆があの絵を見て、君の赤が不思議と馴染んで見えたのは、私や皆の見る世界に、きっと貴方がいるからだね」 私はそう言ってやおら立ち上がると、丸井君はそんな私をしばらく見つめてから、口を開いた。 「お前の見る世界にも、俺がいるの?」 「…」 「…」 「やっぱりいないかな」 「なんで訂正するんだよ」 「丸井君が聞き直すから」 「じゃあいるんだな。決定」 「いないよ」 「…」 私がそうして丸井君に背を向けて、教室から出ようとすると、後ろで彼も立ち上がったのが音で分かった。遠くに聞こえる運動部の掛け声、放課後のグラウンドの音。私達の沈黙の隙間にそれらが埋まる。「」名前を呼ばれて、私は弾かれたように「だってさ」と口を開いた。彼の二の句を遮るように、早口でまくしたてるように。 「だって私の世界に丸井君が存在したとしても、貴方の世界に私はいないでしょ」 「…え」 「それってなんだか腹立たしいよね」 「…それ、告白?」 「は…っ」 何を言い出すのかと思えば、そんな勢いで私は素早く後ろを振り返った。夕焼け色に照らされた丸井君は、思っていた以上に真剣な眼差しで私を見つめており、先程自分が言ったことを思い返しながら、顔が熱くなるのが分かった。 丸井君の世界に私がいない?何を言っているんだ。別に構わないではないか。そんなことどうだって良いのに、私は何を。その場で固まり続けて何も答えない私にしびれを切らしたのか、とうとう丸井君は、私の腕を捕まえて引き寄せた。しかしその瞬間、私の心臓が大きく打ちなって丸井君の顔がまともに見れなくなってしまった。 おかしい。これじゃまるで、… 「わあああああ!」 「なになになに」 「わああああ!」 「だからどうし、ぐえっ」 ある一つの結論に至りそうになった私は思考をかき消すように叫び散らすと、すかさず丸井君の腹にニーキックをかました。まさかそんな攻撃をされるとは考えもしなかった彼は、私のキックをまともに受けて後ろへと豪快に倒れた。 そうして私はそんな彼をおいて旧校舎から逃げ出したのである。 いろんな意味でもう丸井君とは顔を合わせられないと思った。 (140117) |