春の風が私の髪を撫ぜる。昼休みにグラウンドが一望できるこの場所でデッサンを行うのはもはや私の日課とも言えることであった。立海の憩いの場と違い、比較的人が来ないので、絵を描くには静かで良い。画用紙の上を滑る鉛筆の音に心地よさを覚えながら、私は手元から目の前の景色へと視線を上げた。すると私の視界に入ったのは見慣れた人物だった。彼は私と目が合うと大袈裟に手を振り始める。「!」
丸井君は相変わらず元気だなあと思った。


07_ 昼下がりの私とデッサンの邪魔をした丸井君






こちらに駆けてきた丸井君はどういうわけか眼鏡を掛けて、さらに珍しいことに隣にはいつもの色黒の子ではなく幸村君を連れていた。彼に良くにあっている赤縁眼鏡を見て、私ははて、彼は眼が悪かったのだろうかと首をかしげる。しかしその視線はすぐに、購買で買ったらしい大量の菓子パンへと向けられた。最近知ったのだが、丸井君は大食らいだ。よくそんなに食べるなあと呆れを通り越して感心さえしていると、そんな私を幸村君は笑った。
私は幸村君と話したことは一度もないけれど、以前情報通のから話を聞いたことはある。それに、そうでなくても彼は、立海にいれば自然と彼の名前が耳に入るほど、有名な存在だった。


「また絵、描いてんのか
「へえ、君がさんか」


ブン太からよく聞いてるよ、幸村君はふわりと笑って付け加えた。丸井君は私の何を話しているのだろうか。余計なことを言っていなければ良いが。ふうんと適当に相槌を打つと、丸井君は何故か不服そうな顔をしていた。
それにしても知的な幸村君と不良染みた丸井君が一緒にいるのはとても不思議な感覚だ。テニス部は部活が同じというだけで、行動を共にするほど仲良くなるのだろうか。


「丸井君何かしたの?」
「は?何で」
「幸村君と一緒にいるから」
「何でそうなるんだよ。別に怒られたわけじゃねえから。偶然そこで会ったんだよ!」
「なんだ」


ああ、それにしても、眼鏡なんてかけてたんだね。丸井君に対して失礼なことを言ったので、彼に頬を抓られそうになり、私はそれとなく話題を変えた。別に彼の眼鏡なんぞ微塵も興味はなかったが。
丸井君は私の質問に待っていましたとばかりに手を叩いて、ぱちんとウインクをする。私は彼のこの表情がどうにも苦手だった。可愛くて心臓に悪いのだ。


「これは仁王に借りたんだよ。どう、理系男子っぽいだろい?」
「ブン太、この間の数学のテストの点数なんだっけ」
32点
「頭悪っ」
「古典28点のお前に言われたくねえから」
「何故それを」
「この前が補習に引っかかった時に気になって担任に聞いちゃった」
「あいつ口軽いな」
「はは、2人とも仲良いね」


幸村君が吹き出したのを合図に私達は会話をぴたりと止めて目を見合わせた。「いや、良いつもりは全く、…え、仲良いの?私達」「んだよせっかく俺が可愛がってやってんのに」勢いよく肩に回された腕に私は前につんのめる。その言い方はよして頂きたいと言いますか、別に可愛がられた覚えもありませんしね。手から零れそうになった画板と鉛筆を握り直すと、幸村君はそれを覗き込んでから「デッサンもするんだね」と言った。まるでいつもはやらないと知っているような口ぶりだ。


「学校に飾ってあるのは油絵ばかりだよね」
「ああ、見てるんだあの絵。誰も気にしてないと…」
「もちろん見てるよ、凄く上手いしね。参考になるよ」


彼は自分も絵を描いているだとか、好きな画家の名前をあげたりした。男の子で絵に興味がある人というのは周りにあまりいないのでとても新鮮だった。丸井君は自分の得意な分野ではないと悟ったらしく急におとなしくなってしまった。別に良いか。しばらく幸村君の話を黙って聞いていると、幸村君は私の絵の話を持ち出した。「確か一年前に君が出した風車の油絵は素敵だった」と。確かにそんな絵を描いたような気もするがあまり記憶にないし、過去の作品には興味などなかった。ぼやぼやとする曖昧な絵の記憶がまぶたの裏には残る。


「重ね塗りが多くて面白いと思ったよ」
「ああ、一時期そういう描き方にハマってて、」
「そっか。君の絵はとても上手いね。でも、見てると少し切ないような、悲しい気持ちになるよ」


核心をつくような幸村君の言葉に、私はハッと息を飲んだ。優しげに微笑む彼はそれ以上突っ込んだことは口にしなかったけれど、すぐにでもね、と前を見た。


「でも、最近飾られてた油絵、あれだけは何かが違ったような気がするなあ」
「最近の、」
「真ん中に赤い点が描いてある不思議な絵だよ。妙に風景に馴染んでおかしく見えないんだけど、あれが一体何かわからないんだ。あれは何?」


きっと以前丸井君に、俺を描けと脅された時に、申し訳程度にキャンバスにのせた彼の髪の赤色のことだろう。私にはそれ以上描くことはできなかったのでとても中途半端な状態で完成品としてあげてしまったのだ。実はあの赤は、幸村君以外にも何人かにこれはなんだと尋ねられたことがある。


「あれは人に頼まれて描いたもので、」


そばに丸井君がいることを少し気にしながら、そこで私は言葉を止めた。しかしそれは私の杞憂に終わり、彼を一瞥すると、彼はまったく話を聞いていないらしい。会話に混ざる様子もなく、明後日の方を向いてもそもそもとパンをかじっていた。彼の様子が、どこか不機嫌に見えるのは気のせいだろうか。そうして私の隣で幸村君が何かを言いかけた時、それを遮るようにして予鈴が鳴った。「ああ、もう行かないと」彼は名残惜しそうに眉尻を下げて言って、丸井君を連れてまたねと校舎へ帰って行った。
私は全然描き進まなかったデッサンを撫でて、その絵に大きくバツ印をつける。


この絵もきっと、幸村君の目には切なさを覚えるつまらぬ絵に映ったのだろう。


丸井君はどう思ったのだろうか。





(140113)