新年度だからって我が美術部は新入部員獲得のため駆けずり回ったりしない。もちろん来るもの拒まずだし、しかし来なければそれはそれでいいのだというゆるゆるした考えの下、この部活は成り立っている。まあそうである理由がそもそも、勧誘せずとも毎年定員の人数である15人は確保しているからなのだけれど。 ![]() サッカー部やら野球部やら、1年確保のために奮闘する彼らはまるで他人事で、私はのんびりとグラウンドの隅にイーゼルを出してそこにキャンバスをのせる。ああ、美術室が一階だと外の絵を描きたい時に便利。 筆を掴んだ私は、下塗りをとオーカーをキャンバスに薄く滑らせていると、ふいに美術部から何かが落ちる派手な音が聞こえる。それから「っ!」と部長の怒号が飛び、空気がびりりと震えた。私も体を震わせる。そうして振り返った先にいた声の主である彼女は、腰に手を当てて困った様にこちらを見つめていた。え、と…。怒りの原因が分からない。 彼女の長いポニーテールが揺れた。 「これは、何かしら」 彼女の後ろから出てきたのは紛れも無く私の過去の作品達である。以前から部長に幅をとるから早く持ち帰れと耳にタコが出来るほど言われてきたのだが、私の絵は他の人のそれと違い、かなり大きな物が多いので、なかなかどうして運ぶのが億劫だったのだ。だから部室のロッカーの上に隠していたのだが、どうやら部長が見つけてしまったようだ。 「あのねえ、作品はさっさと持ち帰れって、あれ程言ったでしょうが」 「…だってキャンバス10枚なんて重いんだもん」 「少しずつ持ち帰ってれば10枚一気に、なんて事にはなりません」 「…へい」 「今日全部持ち帰ること」 「え、えええ全部!?鬼!鬼畜!」 「…は?」 「…!」 振り返りざまに部長は冷徹な視線を寄越したせいで、チキンな私は何も言えなくなってしまった。ぐっと顎を引いて、中へ戻って行った彼女を睨む。私のせめてもの抵抗だった。 ああ、こうなったら仕方ない、いつもの場所に置きに行くしかあるまいな。うん、そうだろう。私は目の前に乱雑に積まれたキャンバス達に向かって無意味に語りかけながら頷く。それから私はそれらを抱えてよたよたと走り出した。もちろん部長の目を盗んで、である。 いつもの場所というのは、立海の旧校舎の事だった。そこの美術室は私だけの良い物置となっている。部長にバレたらとんでもなさそうだが、まあきっと大丈夫。今までも大丈夫だったから。 それにしても。 私は呟いて、人だかりが出来ているテニスコートへ視線を移した。毎年の事だが、勧誘いらずはテニス部も同じようである。全国1位という肩書に惹かれ寄ってくる輩は多い。うちもあれくらいいたらもっと賑やかで楽しいだろうにと私はわざとらしくため息をついてから、前に向き直った時だった。 「うわ、!?」 「おおっと、」 突然視界に飛び込んできた赤に、私は一歩後ずさり、それと同時に肩に衝撃を受けて、手にしていたキャンバス達を手放した。がらがらと、騒がしくキャンバスが地面にたたき付けられる。その中でよろつく私の腕を捕まえたのは丸井君だった。 「わりい、大丈夫か?」 「え…あ、はあ。こちらこそすいません」 が将来の旦那だと騒いで止まない哀れな丸井君、だ。散らばったキャンバスを拾う丸井君に、心の中でそう呟く。私も足元にある1枚を拾い上げると、彼は何故かもう1度謝った。ただの不良野郎だと思っていたけれど、雰囲気を見るに存外そうでもないらしい。丁寧にそれの砂まで払った丸井君は「これお前が描いたのか?」と私を見た。まあ、とぎこちなく頷き返す。 「お前同じクラスのだっけ?絵すっげー上手いのな」 「どうも…」 「ところで、これどっかに運ぶんだろい」 「旧校舎へ、……捨てにね」 「は、捨てんの?」 丸井君は、私の言葉に疑問を持っていたようだが、深く詮索せずに、私の持っていたキャンバスを取り上げた。俺も運んでやると彼はニカッと笑う。え、何故。仲良くない人、しかも男子といるのは私にとって苦痛でしかないのだが。思わず非難の声を上げそうになり、私は出かかる言葉を飲み込んだ。代わりに適当な言葉を並べる。 「でも、丸井君だって新入部員の事で忙しいだろうし、悪いよ」 「あー良いの良いの。よく分かんねえけど今真田の機嫌悪くってよ。どうせほとぼりが冷めるまでぶらついてるつもりだったし」 手伝うぜ、と丸井君は爽やかに言って私の前を歩きだした。ちょー有難迷惑。だけど、ああ、彼がモテる理由がなんとなく分かった気がする。愛想が良いというか、言動ひとつひとつがいちいち格好がついてるというか。女子が放っておかないわけだ。 「ところで、あの、丸井君」 「ん。何」 ちらりとこちらを顧みる丸井君は、旧校舎の美術室の位置が分かるのか、ずんずんと足を進めていく。私は一瞬口ごもって、それから「今朝の、」と言葉を続けた。正直ちょっと笑われた事が気になっていた。ていうか若干癪に障っていた。 「…朝、私の事見て吹き出してたけど」 「は?…ああ、あん時な」 言った後にちょっと聞き方が悪かったかと私は思ったが、その時の事を思い出しているのか、再びおかしそうに目を細める彼に私は少なからず表情を曇らせる。ギシリ、と床が軋んだ。老朽化が進んでいるからそろそろ廊下が抜けてもおかしくないだろう。ここで丸井君が落ちたら面白いのに。 「いやー動揺してるのが見て取れたからさ、どうするのかと思ったらめちゃくちゃぎこちなく笑うんだもんお前」 「…な」 私の反応を楽しんでたのかコイツ。良い性格してんじゃねえか。私はあからさまにむっとして見せると、彼はなおもケラケラ笑いながら怒んなよと私の背中をどついた。この様子だと悪気は無さそうではあるが、ちょっとムカつく。 そのまましばらく歩いていると、3階の一番端に位置する美術室のプレートが見えて、私はそれを指し示した。丸井君がおう、と頷く。 中は、机や画材や彫刻、美術に関係すらない教科書なんかが雑然と置かれていて、もはやただの物置のように見えた。その上、今まで歩いてきた廊下以上に空気が乾いているように感じられる。隣の丸井君の口から、「うわやばー」なんて言葉が零れた。私は彼から絵を受け取って、既に何枚か私の絵が立て掛けてある場所に同じように並べる。すると丸井君が絵の前にしゃがみ込み、埃を被った一つをそっと撫でた。それから私を見上げる。まるで自分の作品が大切じゃないのかと問い掛けているようだった。 「私にとって絵ってさあ、描く過程と、完成したその瞬間以外、価値がないんだよ」 私は手前のキャンバスを指で弾くと、丸井君はふうんとさして興味のなさそうに立ち上がった。それから彼は茶色く曇った窓から外を窺う。下校時刻が近づいているためか、もうグラウンドには、――もちろんテニスコートにも、1年生の姿はあまり見えなかった。雰囲気からして、きっと今更だが、丸井君は部活に出るつもりなのだろう。 もう行こうと私は促すと、丸井君は何も言わずに廊下へ出て、それから振り返りざまに微かに笑った。 「って変わってんな」 その言葉は恐らく先程の絵の価値観の話に係っているのだろう。そうして再び私の前を歩きだした丸井君の後ろ姿に、私は思わず目を細める。 彼の髪はとても綺麗な夕焼け色だった。 |